大学時代、友人と『脱学校の社会』の読書会をやっていました。
めちゃくちゃ面白く、次第に議論が深まっていくことが分かりました。
それが「原点」となって、「教育系のイベントをやりたいなあ」という思いにつながっていきました。
教育現場で働く側になったいま、再び『脱学校の社会』の読書会をスタートしました。
場所はシェアハウスのBUIE。
シェアハウスの友人と一緒に第1回目を本日開催しました。
学校にいくことで人々は、〈学んだことは教えられたことの結果だ〉という転倒した価値を持つようになる。そういったイリイチの発想に「シビれる」場となりました。
ディスカッションになったのは、イリイチの言う「ドリル学習」(反復学習)の意味について、です。ドリル学習を勧めるのは「自由な学び」を求めるイリイチと矛盾するのではないか、と議論しました。
重要なのは『脱学校の社会』1章の始めでイリイチが述べているように、
過程(目的)と手段を混同しないということです。
大学に入るのが教育の目的ではなく、自分として楽しい人生を生きれるようにすることが 教育の目的です。そのあたりを混同すると、「大学に入るための教育」に終始してしまうことになります。
これはちょうど「目的状況相関的方法選択」と近い発想です。
目的に応じてやり方を変える。
だからこそ方法論は多様な方がいい、という考え方です。
詰め込み的な「反復学習」と、人と人とが出会うことによる「学びのためのネットワーク」(learning webs)を同一の本で扱うイリイチの、一見矛盾した態度。それを解決する鍵はここにあります。
要は、一人ひとり、「合う」教育は違う、ということです。
にも関わらず、「学校」は同じやり方で教育を受けることを要求します。
いじめがあっても、クラスが合わなくても、そこで授業を受けなければ成績が悪くなります。
イリイチは、人によって違う教育を提供すべきだ、と考えていたのではないでしょうか。
だからこそ、「ドリル学習」と「学びのためのネットワーク」という矛盾するような教育のアイデアを提唱したのだと思います。
人によって、合う教育は違う。
だからこそ、教育の側が多様であるべきだ。
イリイチの思いが伝わってきます。
(余談ですが、イリイチがメキシコでやっていた教育機関も、資金源としてスペイン語の「ドリル学習」塾をやりつつ、「学びのためのネットワーク」にもとづく「市民大学」「自由大学」とでも呼べる研究所を経営していたことも、この拙文に関係するように思われます)
☆第2回目読書会は『脱学校の社会』のハイライトである6章をやります。
2012年6月30日22:30-23:30、シェアハウスBUIE学園前の2Fワーキングスペースで行う予定です。
参加希望の方は御連絡ください。