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自由な教育とは何か?〜時間論から見る理想の教育について〜

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自由な教育とは何か?〜時間論から見る理想の教育について〜

自由な教育とは何か?〜時間論から見る理想の教育について〜

1,境界現在と現在経験
 
 ゲーテの書いた『ファウスト』に次の台詞がある。
 
止まれ時間よ、お前はあまりに美しい。
 
 悪魔メフィストフェレスとの契約において重要な意味を持つことはさておいて、このフレーズには「いま」・「この瞬間」の輝きということが示唆されている。つまり、この瞬間における生の躍動感の経験が目標として掲げられている。「いま」この瞬間の充実を達成し、人間の生が最大限に活性化するタイミングこそ、ファウストが「止まれ時間よ!」と叫ぶ時であった。
 それを考察するにあたり、大森(1996)の概念を参照したい。彼は過去現在未来と一方向にただ過ぎ去るだけの時間という「現在」の捉え方を「境界現在」と呼び、充実した生のあり方たる「現在経験」(ファウストが叫ぶ際の「時間」)とに分けて述べる。
 
「現在」という概念は昔も今も人を当惑させる。捉えようとすれば指の間からすり抜けるし、捉えたと思うと似ても似つかぬものだったという苦い思いをさせる。私はこうしためくらましが生まれるからくりを何とか同定できたと思う。それは「現在経験」と「境界現在」との混同である。過去と未来とからなる時間軸上に何とか定位される「境界現在」は、現在経験の影武者にさえなれないほどに貧困なしろものであって、「現在経験」という生の豊かさに満々としている「現在」に近似することもできない。(大森 1996:99-100
 
 我々の生活経験を振り返ってみても、真に充実し、生が躍動していたと考えられた「時」とは、時間が経つのを忘れていたときであることに思い至ることができるだろう。逆説的ながら、経過するという時間の特徴を忘却する、あるいは意識しなくなる際に、その現在は「現在経験」に変化するのである。
 もっと言えば次のようになる。真に充実した瞬間というのはもはや自分という主体の存在が消える瞬間のことである。ゲームに集中し、ふと我に返ると何時間も経過していたことに気づくことがある。このことはつまり、ゲームに熱中していた間は自分という存在が消えているからこそ「我に返る」ことが可能になっているのだ。このような自己が溶解する経験こそ、自分が真に事物と向き合うということになるだろう。言い方を変えれば、その事物と自己が溶解しあい一体化しているということができる。他者との対話に熱中するときも、「自分」という存在が溶解し、他者と一体化、ないしは区別がつかなくなる程度まで混ざり合ったときであると言えるだろう。
 いまの説明がわかりにくければ、その逆を考えるとわかりやすい。退屈するのは、退屈する自分という主体がそっくりそのまま残っている時である。退屈を感じる自分が存在する時、時間ばかりが気になる。現在を充実させるには自己が溶解しなければならないのである。
 まとめると、自己が溶解する時というものが「現在経験」する時であるといえる。そしてその瞬間「時は流れず」、充実した「現在」のみになる。もはや主体が溶解しているので、時間が流れていることを失念するためである。大森はこういった現在経験のもたらす意味を考察したのであった。
 
2,充実した教育の条件
 
 説明が遅れたが、本稿の目的は充実した教育についてを考察することである。そのために大森を引いたのであった。彼の指摘を踏まえるならば、充実した教育(あるいは学習)というものは、目的志向なものではない、と述べることができる。世に行われる教育改革は、大抵の場合、「目的」をどうするか、という議論に終止している。学力低下論争も学力が単に低下したということよりは、その教育が担う「未来」像が時代にふさわしいか・ふさわしくないかをもとに議論されていたのである。
 目的を意識する際、現在それ自体を充実させる(楽しむ)という意識は低下する。子どもの認識レベルで言えば、〈遊びたいけど、テストがあるから勉強しよう〉という内容が例になる。この例で言えば、未来に実施される「テスト」の存在が、現在行う学習を縛ることになる。無論、この状態でも主体は学習を楽しむことは可能である場合もある。しかし、厳密かつ理論的に考察すると、それは未来の植民地になり果てた現在(境界現在)が見せる幻の楽しさ、ともいうことができる。本質的に「現在」を充実させることにはならないのである。「現在」が未来の植民地になり、未来を実現するためにただ過ごされるだけの「境界現在」に成り下がるのである。
 教育を巡る議論は、「境界現在」に成り下がるなかでの教育実践を考える段階のものがあまりに多い。教育実践それ自体を楽しむという発想は「教育詩学」を始めとする一部にしか存在していない。
 「境界現在」ではなく「現在経験」するなかでの実践、つまり「いま」を充実させる中での教育実践はいかにすれば可能なのか。筆者の結論はこうである。現在を充実させるためには、未来を想定せず、「いま」その教材と戯れること・触れること・考えることそれ自体が楽しい(=現在の生の充実、あるいは現在経験)という教育こそ、理想の教育であるということだ。この教育が子どものみならず教育従事者(教員・保護者など)にも楽しさをもたらす実践こそ、理想の教育であるということである。
 その際、先ほど述べた自己の溶解が起こる。教材ないし事物と自己とが溶解しあい、その経験自体に楽しみを覚えられる状態に至るのである。これこそ、充実した学習であり、充実した時間を過ごしたことになるだろう。
 この実践を「教育」と呼べるかはまた別の問題である。「教育」という言葉時代、「目標」(=「未来」)を想定してのプロセスだからである。「学習」・「学び」こそ、「現在経験」を重視する実践にはふさわしいと言える。
 筆者が想定するのは幼少期の子育てである。諺に「子どもは3歳までに親の恩を返す」とある。これは子育てをする経験のなかで親が得られる生の充実(楽しさ)の大きさを述べたフレーズであると解することができる。親は「よい子に育てよう」という意識を持って関わることもあるかもしれないが、子育てという行為それ自体を楽しんでいるところがあると言えるだろう。「よい子にしよう」という親の意図は、時間軸上でいえばかなりの期間(数年)が経たなければ実現するかどうか分からない。何らかの時点で親は自身の意図の挫折を味わう。子どもという主体はそんなにすぐ生育するわけではないからだ。そのような挫折を経験するなかで、何らかの期待というものは低減し、子育てというプロセス自体を楽しむようになる。このとき、現在の充実(=現在経験)が行われるようになる。子育てという、子どもと大人の行う相互行為のプロセス自体に焦点が当てられるようになる。
 これは読書会と近いモデルであるとも言える。ここでの読書会のイメージは、マルクスの『資本論』なりウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』なりを知り合い・友人と選び、読んでくる箇所を決め、集まった人たちと議論をするというものである。
 読書会には何か当面の大きな目標があるわけではない。究極的に言えば学問をすることが目標になるかもしれないが、決めた教材を読み・議論すること自体が目標になる。行為それ自体が目標になるわけだ。書を読み、他者と内容を共有し議論する過程を楽しむわけである。
 読書会を想定する際、イリイチの次の言が参考になる。
 
わたしの考えでは真理の探究はフィリアの成長を前提としているということです。(Illich 2005:260
 
 フィリア、つまり友情の深まりによる真理探究について述べた文である。友人・仲間との対話の中での研究の重要性を説いている。ここで重視すべきは、「フィリアの成長」と研究活動(学習と言い換えてもいい)とが軌を一にして進んでいく、ということである。他者との関わりが深まるほど、学習も深くなっていく。まさにレイブ&ウェンガーのいう「正統的周辺参加」である(Lave & Wenger 1991)。正統的周辺参加とは、集団への参加による学びの重要性を述べた理論である。集団への参加の度合いが進むほど、個人の学習も進んでいく、というモデルだ。それにより個人のアイデンティティの形成も行われていくというところに、レイブ&ウェンガーの特徴がある。「学習はいわば参加という枠組で生じる過程であり、個人の頭の中でではないのである」(Lave & Wenger 1991:8)と、集団への参加とその学習の進展がつながり合っている学びのあり方なのである。
 イリイチは理想の研究手法として「わたしはまた、真理の探究が、講義室ではなく、食卓を囲んだり、一杯のワインを傾けたりというユニークな方法で追求される様を示したかったのです」(Illich 2005:254-255)と述べている。この場合、想定される目標は他者との関わりないし研究それ自体である。そのような学びのあり方こそ、何か目的を想定し「現在」が植民地化される教育モデルを乗り越える形、つまり本来的な学びのあり方なのではないかと考えるのである。
 
3,結論
 
 結論を述べる。目標のある「教育」からプロセスを楽しむ(今を充実させる)「学び」・「学習」への転換が必要である、ということである。アーレントの想定した公共圏モデルは、他者との現れの領域のなかでの関わり合いというプロセスを重視するという実践である。教育もそれを目指すことが本質的に重要なのではないかと考えられる。
 しかし、一番いいのは苫野(2011)のいうように擬似対立を乗り越え、「目的」も「現在」の充実も両方を目指す姿勢である。筆者が述べたのはあくまで「学習」であって、「教育」ではない。学校教育において、目標を持たなければ生徒を評価することも出来ない(学習の到達目標がなければ評価を行うことなど出来ないのだ)。公教育では主体の社会化が必要となり、社会化には当然モデルとすべき像が目標として想定されていなければならない。本稿で筆者が試みたことは、そのままの形で教育実践に用いることはできないかもしれないが、「そういうあり方もあるのだ」ということを示す参照枠組みとして想定されれば本稿の「目標」に応えたことになるだろう。そうなったとき苫野の指摘を乗り越えることが可能なのではないかと考えている。
 
4,参考文献
 
Illich, Ivan, 2005, “The Rivers North of the Future: The Testament of Ivan Illich as told to David Cayley“, House of Anansi Press, Toronto.(=臼井隆一郎訳『生きる希望』藤原書店, 2006.
Lave, Jean & Wenger, Etienne, 1991 “Situated Learning : Legitimate Peripheral Participation“, Cambridge University Press, Cambridge.(=佐伯胖訳『状況に埋め込まれた学習』産業図書株式会社, 1993.
大森荘蔵, 1996, 『時は流れず』, 青土社.
苫野一徳, 2011, 『どのような教育が「よい」教育か』, 講談社.

 

無題ノート

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待ち合わせの力学

 待ち合わせの際、とくに話すこともないときはボーッとするか携帯を見るかしか許されない(許可されない)。例えば書籍を読もうとすることは「不適切である」とされる。Goffmanならば共在状況の一例であるとみなすであろうが、人前では本を読むことは許されず、携帯を見るようなことやぼーっとするような生産性の高くない振る舞いのみが許可されている。

 従属的関与(Goffman)とはいうが、集まりに対する敬意を払う度合いが、待ち合わせの際には強く求められる。携帯などはいつでも離脱できるメディアだが、書籍はそうではない。ギリギリが新聞・雑誌である。
 集団に働くこの権力関係も、フーコー流にいうと眼差しの権力ということになるのであろう。関係性に働く権力である。文脈ごとに適切とされる振る舞いの仕方は、あらかじめ集団に内在されているのだ。
 権力は案外こういうところにあるもんなんだ、と改めて気づいた。

動物園

一瞬、感染に見えた。

寺山修司, 2009, 『寺山修司著作集 第3巻 戯曲』クインテッセンス出版株式会社。より「邪宗門」

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寺山修司「邪宗門」に見られる構築主義的発想。

山太郎 だとすれば、その黒衣を操っていたのは一体誰なんだ?
新高 それは、ことばよ。
佐々木 じゃあ、そのことばを操っていたのは一体誰なんだ?
新高 それは、作者よ。
そして、作者を操っていたのは、夕暮れの憂鬱だの、遠い国の戦争だの、一服のたばこの煙よ。そして、その夕暮れの憂鬱だの、遠い国の戦争だの、一服のたばこの煙だのを操っていたのは、時の流れ。
時の流れを操っていたのは、糸まき、歴史。いいえ、操っていたものの一番後にあるものを見る事なんか誰にも出来ない。|
たとえ、一言でも台詞を言った時から、逃れる事の出来ない芝居地獄。
終わる事なんかない。どんな芝居えも終る事なんかない。ただ、出し物が変わるだけ。さあ、みんな役割を変えましょう。
衣装を脱いで出て来て頂戴。
(寺山修司, 2009, 『寺山修司著作集 第3巻 戯曲』クインテッセンス出版株式会社, pp.220-221「邪宗門」)

 寺山修司の戯曲「邪宗門」のラストは、意外に構築主義的。我々は言葉に縛られている。その意味では日常も「逃れる事の出来ない芝居地獄」。ゴフマンのいう表局域の社会的役割関係から逃れられない。でも、「役割を変え」ることはできる。それが主体の抵抗可能性だ。

Cicero, 44 B.C., Laelius de Amicitia.(=中務哲郎訳『友情について』岩波書店, 2004.)

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Cicero, 44 B.C., Laelius de Amicitia.(=中務哲郎訳『友情について』岩波書店, 2004.)

 キケロの友情論。友情論の古典である。3人の男の会話体のなかで友情論が交わされる。警句集として読むことができ、なかなか興味深い書物である。
 ただ、いまの時代、寺山修司が茶化して語る以外、友情について大真面目に語ることは一種のパロディになってしまう。そのあたりにポストモダンの「哀しさ」がある。
 この本を読もうとしたのは、帰省時に持ってきた本のうち『言葉と物』以外に読む選択肢を設けるためである。あとはルネサンスについて勉強しているので、ルネサンス期に評価された「人文主義」の代表人物の本を読もうと思ったためである。
 気になる点は一つ。当時の「友情」というのは同性愛的な意味もあるのだろうか、という点である。
 以下は抜粋から。
「つまり友情とは、神界及び人間界のあらゆることについての、好意と親愛の情に裏うちされた意見の一致に他ならない、ということだ」(25)
「まさにこの徳が友情を生みかつ保ち、徳なくしては友情は決して存在しえないのである」(25)
「友情は数限りない大きな美点を持っているが、疑いもなく最大の美点は、良き希望で未来を照らし、魂が力を失い挫けることのないようにする、ということだ。それは、真の友人を見つめる者は、いわば自分の似姿を見つめることになるからだ。それ故、友人は、その場にいなくても現前し、貧しくとも富者に、弱くとも壮者になるし、これは更に曰く言いがたいことだが、死んでも生きているのだ。その者たちを友人たちのかくも手厚い礼が、思い出が、哀惜の念が見送るところから、逝く者の死は幸せなものと、残された者の生は称えるべきものと見えるのだ」(27)
「大抵の人は、恥知らずに、とは言わぬまでも理不尽にも、自分ではなれないような友人を欲しがり、こちらからは与えないものを友人から期待する。まず自分が善い人間になって、それから自分に似た人を求めるのが順当なのに」(67-68)
「愛してしまってから判断するのでなく、判断してから愛さなければならない。それなのにわれわれは、注意を怠ってひどい目に遭う場合が多いのだが、とりわけ友人を選び敬う場合にそうなのだ」(69)
「友人の語る真実が聞けないほど真実に対して耳塞がれてしまっている者は、救われる見込みがない」(73-74)

映画『おじいさんと草原の小学校』

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映画『おじいさんと草原の小学校』

 ある日(2004年)、ケニアにおいて、教育の無償化Free Educationが実現される。「すべての人に」教育を受ける権利がある、との宣伝文をもとに、地方の小学校にマルゲという老人がやってくるという物語である。実は彼がケニア独立の立役者、マウマウ団であったということがこの物語の鍵を握っている。
 映画内で、何度も回想シーンが出てくる。イギリスからの独立にあたり、妻と子どもを殺されるシーンが繰り返される。その象徴たる大統領府からの「手紙」を読むために、マルゲは学校に入る。それには、自分の過去の苦しみの精算をしたい、との意志があったことだろう。過去を乗り越えるためには勉強が必要なのだと思う。
 本作から思ったことは次の2点。

①教育の輝きと教育の持つ夢を再確認できた。別にマルゲは「一人」で学べばよかったのでなく、小学校的なコミュニティというか、公共圏の中での「学び」を志向していたように思える。

②Free Educationということが希望だった頃のことを観ることが出来た。
 こんな「輝き」のあった教育も、一部の生徒にとっては「牢獄」や「不自由」の象徴になってしまう。マルゲが止めようとした子ども同士のいじめも、学校が重荷になる一つのきっかけとなった。
 「学校」の持っていた輝きは、まさに自分たちが獲得した権利と認識された瞬間にのみ、存在するものなのかもしれない。それが制度化し、普遍的なもの・自明なものとなった瞬間に、「輝き」は失せるのだ。
 イリイチを好む私のような人物は、学校の「輝き」を否定する。しかし、教育を受ける権利が体制側から勝ち取ってきたものであるという点は忘れてはならないであろうと思った。
 さて、私はこの2日の間に、妙に似た映画を2本見ている。今日の『おじいさんと草原の小学校』、昨日の『かすかな光へ』である。『かすかな光へ』は教育学者・太田堯(おおた・あきら)のドキュメンタリーである。『おじいさんと草原の小学校』の主人公・マルゲは84歳で「学に志」した。太田堯は92歳の現在も教育サークルに関わったり、地元埼玉での環境教育活動や講演会・現場の見学などに余念がない。老いたとしても学ぶ態度を、自分も見習いたい、と強く思った。
 最後に一点だけ。タイトルと違い、言うほど「草原」は出てこない映画である。
(神保町・岩波ホールにて)

南悟, 1994, 『定時制高校 青春の歌』岩波ブックレット(No.351)

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南悟, 1994, 『定時制高校 青春の歌』岩波ブックレット(No.351)

 短歌をつくる実践をとおして見つめる、定時制高校のリアリティ。岩波らしく、左な立場から現在の定時制高校を見つめる作品。それにしても、こういう「メインストリーム」の外の教育をあつかう本は、どうして「本当の学校はここにある」といいたげな内容になるのだろう(フリースクールしかり、定時制高校しかり)。別に意義があるわけでなく、個人的な疑問である。
「最近、夜間定時制高校には、中卒後未就学で高校生活をやり始めようとする若者や中高年者、あるいは登校拒否で中学や高校に行けなかった生徒、また知的な障害や身体に障害を持つ生徒、さらには難民を含めての外国人生徒や海外引揚げ生徒たちの入学が増加しています。私の勤務する工業高校の場合、各種資格や専門技術の修得を目指しての入学生徒も多数にのぼります。
 定時制高校は、このような人びとにとって、なくてはならない学校なのです。
 ところが、ここ数年来教育行政は、「働きながら学ぶための定時制高校の役割は終った」と言い、経済効率優先の立場から、定時制高校を廃校にして、「単位制高校」の設置を全国的に進めています」(5)
→それに加え、少子化による全日制高校の統廃合の結果、定時制が受け皿になっている側面があるという(2010年10月カタリバ大学「定時制高校のリアル」より)。
「人間の値うちを「成績」という尺度でのみ計ろうとする傾向は、学校だけではなく、私達の社会そのものを色濃く染めています。そうした基準からは、働くことで培われる人間形成の重い価値は見えてこないでしょう。
 働き学ぶという、この崇高な生き方が尊ばれ守られていくためには、何よりも、たとえ生徒が減少しようとも、たとえ経費がかかろうとも、定時制高校が残されていかなければならないと思えるのです」(6)
「短歌を詠むということは、さながら、足跡をとどめることなく学校を去って行った多数の生徒たちがいる中で、かろうじて生徒たちの足跡をとどめる作業であるように思えるのです」(53)
「ここに登場した生徒たちの生き方は、まさに私たちが豊かさという幻想を持たされ、いつかしら見失ってきた庶民の生き方そのものなのです。私たちの生活は、高度経済成長期、バブル高騰期と、いつの時代も、豊かになった、世界の一柳国に生ったという錯覚を持たされ、上昇志向に駆りたてられてきたのではないでしょうか。
 そうした世の風潮にあっても、私たちが見失ってはならない、ごくあたりまえの生き方を、生徒たちの歌は裸形のまま提示してくれているように思えます」(58)
→☆昔はこういう部分を共感的に読めたが、なんか岩波書店特有の理想主義の香りを感じてしまう。これ、自分の感受性が社会学によって狂わされてしまった、ということなのだろうか。
南悟, 1994, 『定時制高校 青春の歌』岩波ブックレット(No.351)

斎藤次郎 1996『気分は小学生』岩波書店

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斎藤次郎 1996『気分は小学生』岩波書店

中年のオジサンが小学四年生のクラスに1年間留学するという、ありそうでなかったフィールドワークである。

Webで「斎藤次郎 教育評論家」と調べると、2007年の大麻吸引事件の話しか出てこない。私は大麻を吸うとか関係なく、いい仕事をする人の作品を大事にしたい、と考えている。そうしなければ、ビートルズの曲は大体すべて聞けなくなってしまう(ちなみに逮捕時点で30年の大麻吸引歴があるため、小学校「留学」中もむろん大麻をやっていたことになる。どうでもいいけど)。

ちなみに、本書は95年の取材であるから俺がちょうど小一の時のことである。斉藤の「留学」先は小4であるからリアリティがある。本書の「子ども」は俺のことなのだ!
以下は抜粋。
「ぼくのモットーは「子どものことは子どもに習え」であった」(2)
授業が「わかっているものとわからないものとの共存はあり得ない。割り算がわかってしまえば、わからない人の苦しみを共に担うことはもうできないのだ。これは「教育」という営みのかかえる宿命的な背理ではないか」(43)
「子どもたちは、休み時間になればもうこっちのものなのである。彼らは非常にしばしばダメージ大きいボクサーがゴングに救われるように、チャイムに救われる。あいさつが済んで教科書を机にしまった瞬間、悪夢はきれいに拭い去られるのだ」(47)

オレオレ詐欺の広告

オレオレ詐欺注意の広告。
本人が自宅にオレオレ詐欺の電話をすればいいのではないか、と思った。

裁判になっても家族内なので民事で済むだろうし。