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コミュニケーション力

 コミュニケーション力が減ってきている人が多い、とよく聞く。しかし、よく考えると「コミュニケーション力がない」と相手に言い切れる人のほうがよっぽどコミュニケーション力がないと思う。

 たとえば取引先が麻雀に詳しいなら誰でも麻雀を勉強してからコミュニケーションしにいく。しかし、若者と会話が上手くいかない時、「若者と会う話題は何か」学ぶ努力をせず、自分の側の努力を棚に上げ、相手がコミュニケーション力がないと決め付ける。

 社会学ではこういった片方が一方的に不利な側を押し付けられることを「権力」と呼ぶが、まさに権力的状況がそんざいしているのである。

マイケル・S・チウェ, 2001, 『儀式は何の役に立つか−−ゲーム理論のレッスン』(安田雪訳, 2003, 新曜社)。

アメリカではアメフトの試合の視聴率はものすごく高い。プロのアメリカン・フットボールチーム全米一を決めるのがスーパーボウルである。毎年2月に開催され、現在までなんと21年連続で視聴率40%を獲得している恐ろしいスポーツイベントとなっている。

 アップル社の戦略について本書はこう述べる。「スーパーボウル放映中にテレビ・コマーシャルを打つことによって、アップル社は、単に視聴者に新型マッキントッシュのことを知らせただけではない。同時に、多くの他の人々も新型マッキントッシュのことを知らされたということを、視聴者に伝えたのである」(13)。
 このように本書では、宣伝というものが「自分以外の人もこれを目にしている」という想像が成立する場合に効果的である、という事実を伝える。「他の人も同じ物を目にしている」という想像こそ、人びとに強烈なメッセージを与えている。そういった意味で宣伝を同じ時に見るということは現代の儀式なのだと本書は述べる。
 「電話を受けた人は、他の人々も同じような電話を受けたか、どれくらいの人が受けたかを知らない。一方テレビ・コマーシャルは、少なくともある程度は共通知識である。なぜなら、テレビ・コマーシャルを見ている人は、他の人々も同じテレビ・コマーシャルを見ていることを知っているからである」(16-17)。

 宣伝というのは個人に打てばいいものではない。むしろ、「他の人も同じ宣伝を見ているのだ」という想像が成立することに意味があるのだ。

カール・シュミット『政治的なものの概念』

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カール・シュミット『政治的なものの概念』

Schmitt, Carl, 1927, "Der Begriff des Politischen", Euncker & Humblot. München.(=1970, 田中浩・原田武雄訳『政治的なものの概念』未来社)

シュミットの有名な「友・敵関係」について述べた書。国家は敵を定めることで「我々」国民を形成する。
「諸国民は、友・敵の対立にしたがって結束するのであり、この対立は、こんにちなお、現実に存在するし、また政治的に存在するすべての国民にとって現実的可能性として与えられているものである、ということは、道理上否定できないのである」(18)
「政治的な対立は、もっとも強度な、もっとも極端な対立である。いかなる具体的な対立も、それが極点としての友・敵結束に近づけば近づくほど、ますます政治的なものとなるのである」(20)
→対立を擬制することで政治はなされる。「だれを敵とみなし、敵として扱うかを決定的に判定する」(52)ことが国家や政治団体の立場である。
「「戦争を追放する」ことは、そもそも不可能である。追放できるのはただ、特定の人びと、国民・国家・階級・宗教等々であって、これらは、「追放」によって敵であると宣言されるのである。このように、厳粛な「戦争追放」も、友・敵区別を解消するものではなく、国際的な敵宣言という新たな可能性によって、友・敵区別に新しい内容と新しい生命を与えるものなのである」(57)
「人類そのものは戦争をなしえない。人類は、少なくとも地球という惑星上に、敵をもたない|からである。人類という概念は、敵という概念と相容れない。敵も人間であることをやめるわけではなく、この点でなんら特別な区別はないからである。戦争が人類の名においてなされるということは、この単純な真理となんら矛盾するものではなく、ただとくに強い政治的な意味をもつにすぎない」(63)
 世界政府の可能性など、なかなか興味深い。シュミットは世界政府が出来、名称としての「戦争」がなくなっても、例えば「平和維持活動」などの名称などの形で戦争がなされることを指摘している(102)。
◯解説より
「シュミットは、「政治的なもの」の究極的な識別徴標を、「友か敵か」すなわち「友・敵関係」として捉える。道徳においては善・悪が、美的には美・醜が、経済において利・害(もうかるかもうからないか)が、それぞれ固有の識別徴標であるように、政治に固有の識別徴標は、「友・敵」関係だ、というわけである」(121)
「シュミットが、例外状況においては、国家は、既存の法体系や慣行・ルールを徹底的に破壊しつくしてしまうことをリアルにえがきだしていることははなはだ興味深い」(127)

コンビニに群れる高校生。

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コンビニに群れる高校生。

 教員採用の関係上、福島県いわき市に行く。帰りに少し時間ができたので(東京での予定がキャンセルされたので)湯本駅まで行った。

 居場所のない高校生たちが駅前コンビニに群れている。

 都会が巨大な娯楽空間になっているなら、田舎においてもその代補的空間が要求されてしかるべきであろう。
 田舎において居場所のない彼らが自ら「居場所」を空間に作り出す。それがコンビニであろう。人間には「清」の姿だけでは生きられない。「清濁あわせのむ」ではないが、「濁」を許す空間も必要なのだ。「濁」的空間が排斥される場合、人々は是が非でも「居場所」を創りだそうとする。

 
 コンビニの前に高校生たちが群れているというだけで批判をするのは、社会の問題点を忘れた姿である。
 帰りの電車でそう考えた。

「おわり」を言う権力性

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「おわり」を言う権力性

 昨日、野田首相が原発事故の収束宣言を出した。今日、たまたま福島県に行ったが、『福島民報』は「ふざけるな」という内容ばかりだった。「おわり」を宣言すると、もうこれ以上の「再建」はなくなる。「おわり」といって終わりにしてしまう暴力性を訴えていたのである。

コンビニに群れる高校生。

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コンビニに群れる高校生。

 教員採用の関係上、福島県いわき市に行く。帰りに少し時間ができたので湯本駅まで行った。

 居場所のない高校生たちが駅前コンビニに群れている。

 都会が巨大な娯楽空間になっているなら、田舎においてもその代補的空間が要求されてしかるべきであろう。
 田舎において居場所のない彼らが自ら「居場所」を空間に作り出す。それがコンビニであろう。人間には「清」の姿だけでは生きられない。「清濁あわせのむ」ではないが、「濁」を許す空間も必要なのだ。「濁」的空間が排斥される場合、人々は是が非でも「居場所」を創りだそうとする。

 
 コンビニの前に高校生たちが群れているというだけで批判をするのは、社会の問題点を忘れた姿である。
 帰りの電車でそう考えた。

三木清, 1954, 『人生論ノート』新潮社。

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三木清, 1954, 『人生論ノート』新潮社。

「幸福は徳に反するものでなく、むしろ幸福そのものが徳である」(18)

「日常の小さな仕事から、喜んで自分を犠牲にするというに至るまで、あらゆる事柄において、幸福は力である。徳が力であるということは幸福の何よりもよく示すことである」(19)
「他人を信仰に導く宗教家は必ずしも絶対に懐疑のない人間ではない。彼が他の人に浸透する力はむしろその一半を彼のうちになお生きている懐疑に負うている」(27)
「すべての人間の悪は孤独であることができないところから生ずる」(43)
「創造的な生活のみが虚栄を知らない。創造というのはフィクションをつくることである」(43)
「我々の怒の多くは神経のうちにある。それだから神経を苛立たせる原因になるようなこと、例えば、空腹とか睡眠不足とかいうことが避けられねばならぬ」(55)
「孤独は山になく、街にある。一人の人間にあるのではなく、大勢の人間の「間」にあるのである。孤独は「間」にあるものとして空間の如きものである」(65)
「嫉妬は、嫉妬される者の一に自分を高めようとすることなく、むしろ彼を自分の位置に低めようとするのが普通である」(69)
「一種のスポーツとして成功を追求する者は健全である」(75)
「期待は他人の行為を拘束する魔術的な力をもっている。我々の行為は絶えずその呪縛のもとにある。道徳の拘束力もそこに基礎をもっている。他人の期待に反して行為するということは考えられるよりも遥かに困難である。時には人々の期待に全く反して行動する勇気をもたねばならぬ。世間が期待する通りになろうとする人は遂に自分を発見しないでしまうことが多い。秀才と呼ばれた者が平凡な人間で終るのはその一つの例である」(90-91)
「現代人はもはや健康の完全なイメージを持たない。そこに現代人の不幸の大きな原因がある」(97)
「旅において人が感傷的になり易いのは、むしろ彼がその日常の活動から抜け出すためであり、無為になるためである。感傷は私のウィーク・エンドである」(110)
「行動的な人間は感傷的でない。思想家は行動人としての如く思索しなければならぬ。勤勉が思想家の徳であるというのは、彼が感傷的になる誘惑の多いためである」(110)
「生活を楽しむことを知らねばならぬ。「生活術」というのはそれ以外のものでない。それは技術であり、徳である。どこまでも物の中にいてしかも物に対して自律的であるということがあらゆる技術の本質である。生活の技術も同様である。どこまでも生活の中にいてしかも生活を超えることによって生活を楽しむということは可能である」(121)
「旅は過程である故に漂泊である。出発点が旅であるのではない、到着点が旅であるのでもない、旅は絶えず過程である。ただ目的地に着くことをのみ問題にして、途中を味うことができない者は、旅の真の面白さを知らぬものといわれるのである」(134)
「永遠なものの観想のうちに自己を失うとき、私は美しい絶対の孤独に入ることができる」(145)
「娯楽が芸術になり、生活が芸術にならなければならない。生活の技術は生活の芸術でなければならぬ」(124)
「我々が旅の漂泊であることを身にしみて感じるのは、車に乗って動いている時ではなく、むしろ宿に落着いた時である。漂泊の感情は単なる運動の感情ではない。旅に出ることは日常の習慣的な、従って安定した関係を脱することであり、そのために生ずる不安から漂泊の感情が湧いてくるのである。旅は何となく不安なものである。しかるにまた漂泊の感情は遠さの感情なしには考えられないであろう」(133)

池上俊一, 2007, 『イタリア・ルネサンス再考−−花の都とアルベルティ』講談社.

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池上俊一, 2007, 『イタリア・ルネサンス再考−−花の都とアルベルティ』講談社.

 筆者は近代の個人主義意識の起こりを万能人アルベルティ(レオナルド・ダ・ヴィンチが劣等感を感じたほどの人物)を参照しつつ論を進めている。

「イタリアで、かように急速に印刷術が普及したのは、ものを書く学者・作家が多く、字の読める層が広範にあり、しかも学校や個人的勉学での使用のほか、仕事(法律家・医者・聖職者)、趣味、敬神などで大量に書物の需要があり、産業として成立する素地があったから|であろう」(76-77)
ルネサンスにおいて「女性が公的空間から排除されたのは、女性の〈名誉〉を守るためでもあった。彼女らの〈名誉〉の中心要素とは、貞淑・純潔えあり、それを失うことは深刻な社会的結果をもたらす。なぜなら〈名誉〉は、個人のそれにせよ家族のそれにせよ、自力だけでどうなるものではなく、他者から見られた社会的価値の相対であったから」(151)
「彼(☆アルベルティ)は、子供は、乳児期には父親の手ではなく、優しく静かな母親に育てられるべきであるとするが、その後の教育は、父親の務めだとしている」(177)
「ルネサンス分化の精華を生み出した芸術家や思想家の伝記、とりわけアルベルティやギベルティの自伝に表れているのは、とてつもない、己の天賦の才と美徳への賛嘆と自恃であり、これは、「個人主義」の宣言として、ブルクハルトのように読むことがたしかに可能である」(229)
「アルベルティにとっての〈美徳〉は、人間の地上での健全な活動を保障するが、その活動の領域が〈時間〉である。『家族論』のジャンノッツォ(☆アルベルティ『家族論』の登場人物)は〈時間〉について、身体・|魂とならんで、人間が自分の占有物だといえるものだ、としているのは興味深い。ところが他人に与えることのできぬ、という意味ではたしかに自分のものだが、その「使い方」は、その人の意志いかんにかかっている。だから〈時間〉とは、行動の可能性、文化・教養の運用そのものであり、したがってそれは、〈美徳〉の活動領域なのだ。
 〈勤勉〉は、もっぱら市民関係のなかで行われ、家族や国家の繁栄をもたらし、富の花を咲かせる。人間の価値は〈勤勉〉のなかにのみ存する。人間は人間のために役立つよう生まれたのであり、いつも社会で活動しつづけるために生を享けたのであり、怠惰以上の罪はなく、高邁で崇高な目標に向かって努力することで、自らのうちに完全な〈美徳〉を実現できる。〈勤勉〉が実現する〈美徳〉。
 だが、〈無為〉にもじつは二種類あり、悪しき怠惰のほかに、ユマニストのための〈無為〉=〈閑暇〉がある。〈勤勉〉のうち最高のものは、文学研究であり、それは、まさに〈閑暇〉においてしかありえない。自由時間は、〈無為〉でありつつ〈勤勉〉なのだ。こうした〈時間〉の質についての差異化は、ユマニスト特有の考え方だろう」(266-267)
「アルベルティの拠り所は、政治ではなく、家族だけだった。そして自ら家族に与えた新理念のおかげで、権威主義へと落ち込む危険を免れていた。彼の最終的なメッセージは何か。それは家族と都市を同到させること、そして世界中に〈自然〉を模範とする人工の美を押し広めることによって人類を救出することだった。「家族イデオロギー」と「都市イデオロギー」に深くコミットすると見せかけながら、〈普遍〉と〈多様性〉の理念を梃子に、芸術の|〈装飾〉と言葉の〈修辞〉であらゆるイデオロギーを骨抜きにする、これが彼の人生と思考を貫く方法であった」(291-292)
「他のユマニストと異なり、大学で教鞭をとらず、パトロン(権力者)にすがって生きることもなく、最後まで私人として公に尽くす道を探ったアルベルティ、経験主義者であると同時に理想主義者でもあり、深刻な問題を論ずるときも快活で機知に富み、しかも威厳を失うことがないアルベルティ、彼の生き方は、わたしの理想でもあると、告白しておこう」(303)
●解説 山崎正和
「じつは自己顕示は個人主義の産物ではなく、逆に個人主義こそ自己顕示のなかから生まれてきたという経緯だろう。最初に確立した個人があって、それが自己をみせびらかしたのではなく、むしろ見せびらかしの競争のなかで、個人は見せびらかすべき自己を発見して行ったのにちがいない」(319)
→ウェブレンの『有産階級の理論』を思い出す。

大村敦志・東大ロースクール大村ゼミ, 2011, 『22歳+への支援 ロースクールから考える大学院生の「支援システム」』羽村書店.

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大村敦志・東大ロースクール大村ゼミ, 2011, 『22歳+への支援 ロースクールから考える大学院生の「支援システム」』羽村書店.

大村敦志・東大ロースクール大村ゼミ, 2011, 『22歳+への支援 ロースクールから考える大学院生の「支援システム」』羽村書店.

修士課程2年 藤本研一
 良くも悪くもロースクールの院生がつくった、という感じが強い本。この程度の水準・内容で出版できる事自体驚きであるが、帯紙に「ロースクール白書」と書いてしまうことに笑ってしまう。
 アンケートも、例えばパーセンテージや総数を表示していないなど初歩的ミスが目立つ。また、東京大学ロースクールのゼミの有志で作成されているため、自分たちへの支援を呼びかける口調となっている。ゼミ調査の文献でなければ読まなかった本である。
 内容はインタビュー集である。普段、どのように生活しているかわからないロースクール生に対し、勉強の仕方・学費・生活費・子育て支援など、院生目線で見たリサーチである。
 インパクトが強いのはロースクールのシステムの特異性である。「司法試験を目指すロースクール生にとっては、終了後の5月に試験、9月に合格発表というスケジュールになっており、修了後の住居をどうするのか、その間の住居費はどうやって捻出するのか等の問題を抱えてい」(74)る点が特に大きい。学生寮の場合、大学院修了とともに出ていくことが必要である場所も存在するため、大学院生向けの住居支援の仕方に再考を促す内容となっている。
 また、専門職大学院の一つであるため、社会人経験者や子育てを平行して行う院生も存在するため、保育園設備の重要性を訴えるなどの内容が記載されている。
 細かく見ていくと冗長なため、結論部分のみを見ていく。
「本書で見てきた支援制度を前提にすると、ロースクール生に対する公的な支援は、学生一般または研究者養成のための支援の一環として行われているにすぎない現状があります。そしてその結果として、新しい法曹養成制度との関連で支援の空白期間(藤本注 上記のロースクールの日程を参照)が生じることになったり、支援不足のためにロースクールに通いたくても通えない人がいる可能性があります。一方、財団による奨学金に代表されるような私的な支援はそれぞれの理念に基づいており、ロースクール生に対象を絞った法曹関係者による支援なども存在します。これらの私的支援制度が公的支援の不足部分を穴埋めしているという側|面があると考えられます。(…)新しい法曹養成制度と連動し、ロースクール生のための公的支援が必要であると言うことはできないでしょうか」(118-119)
 ロースクールは通常の大学院と異なる、という指摘である。そのため今までの大学院生支援と同じ発想で考えてはならない、という主張をしている。同様の主張には次のものもある。
「ロースクール生は修了後すぐに法曹として働き収入を得るということができません。にもかかわらず、大学院を修了しているため奨学金の返還義務が生じます。したがってロースクール修了後、法曹になるまでの間、奨学金を返還しながらどのように生活していくのかが大きな課題となります」(70)
 ロースクールの特殊性を鑑みた上での奨学金制度の設備が必要であるようだ。
 その後、筆者たちはロースクールの知見を広げ、大学院生一般に話を敷衍する。
「他の分野の大学院まで見渡したうえで、「大人」ではあるけれど経済的自立のできていない大学院生とはどのような存在であるか、それに対する現在の支援制度はどのように作られているのか、今後さらなる検討が必要です」(122)
 なんとも私にとって耳の痛い内容であるが、疑問も感じる。ロースクールは本書にもあるように、学業に追われるためアルバイトをしにくい状況にある。その点、(われわれ)一般の文系大学院生とは少し異なっている。
 大学院生に対する支援、という発想を本書から私は得ることができた。しかし、本書は院生目線のため、「支援しなければならない」という主張をしている。その支援理由は社会的弱者にも法曹になる「機会の均等」の実現から論を導いている。この論理から、例えば殆ど就職先のない大学院(哲学・倫理学など)に対しても「機会の均等」の上から支援が必要であると本当に述べることが出来るのか疑問である。大学院生への支援が本当に社会的に必要であるのかの議論が更に必要であろう。「モラトリアム」として大学院に入る院生が存在する(66)ことを想定する必要がある。
 他の本書の不備として、基本的情報の記載がなされていない点があげられる。例えば東大ロースクールの学費が幾らかは当然視されているためか記載されない(筆者は110万円前後であったと記憶している)。
 本書は東大ロースクールを目指す人にとっては代え難い貴重な資料集となるであろうが、私にとってはミニコミ誌にすぎなく感じられた。
 以上。

坂口恭平, 2010, 『ゼロから始める都市型狩猟採集生活』太田出版.

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坂口恭平, 2010, 『ゼロから始める都市型狩猟採集生活』太田出版.

 カウンターカルチャー性が面白い本。ホームレスのほうが実は「自由」で素敵に生きている、という事実を赤裸々に示している。それは炊き出しやゴミのなかから資源を捜すという「都市型狩猟採集生活」が現代日本で可能であるという事実による。なお本文では「ホームレス」とは使わない。
 映画『ダメジン』を思い出す。イリイチ的なコンヴィヴィアルな生活を示した内容。
 ドロボウ市。「開催場所は、南千住駅から徒歩で行ける、山谷地区の玉姫公園周辺だ。山谷地区というのは、台東区泪橋交差点を中心とした日雇い労働者たちが滞在する簡易宿泊所が集中する地域の通称であり、俗に言う「ドヤ街」である。
 市場は、雨の降らないかぎり毎朝五時〜七時の二時間だけ開かれる」(80)
 われわれはどの電化製品がどれくらい電気を食うか、殆ど知らない。しかし「都市型狩猟採集生活における電気との付き合い方は、まるで正反対だ。/一二ボルトで動く小型テレビは、自動車用バッテリー一台を使えば、一日五時間見たとして一〇日間ぐらいもつ。そんな具体的な数字がすらすら出てくる。つまり、電気をモノとして捉えているのである」(94)
「冬の間は、自分でお酒もつくります。スーパーで麹を買ってきて、米を四合炊く。少し水を入れ、そのあとに麹を入れて、場合によってはイースト菌も入れます。それらをかき混ぜ、蓋をしておく。一週間も置いておけば、おいしいどぶろくができあがりますよ」(128)
 なんか伊丹十三の『タンポポ』に出てくる浮浪者集団のようだ。
「水といえば、朝方、植物の葉の上に溜まっている朝露は、ぜひとも一度飲んでみてほしいです。昼は暑くて蒸発してしまいますが、夜になって気温が下がると水分は蒸発せず、朝方になって溜まって出てくる。これは完全に濾過された水であると同時に、植物の体内を通過する際にその栄養分も吸収していて、おいしいんです。これがどういうことかというと、たとえ天変地異が発生して、都市の水道機能が断たれたとしても、飲み水を手に入れる方法はいくらでもあるということです」(133)
「ぼくが繰り返し言う都市型狩猟採集生活というのは、ただの路上生活のことではない。最終的な目標は、自分の頭で考え、独自の生活、仕事をつくり出すことにある。(…)違法行為にならないように距離を取りながら自分なりの本質的な生活を見つけるという作業は、現代の冒険といっても過言ではない」(146)
「彼ら(藤本注 都市型狩猟採集生活者)は、暗黙の了解あってのことではあるが、公有地に住みながらも撤去されることなく、家を建てることに成功している。すでに、ぼくにとって、公園や川沿いに建つ〇(ゼロ)円ハウスはただの路上生活者の家ではなくなっていた。それらは、権力を持たない、力のない人間であっても、都市の中に独自の空間を獲得できるという証明そのものであった。
 ぼくはまた、彼らがそこで生活することの持つ意味や可能性に対して、自覚的であることにも感銘を受けた。
 彼らは、何一つシステムを変えることなく、すべてを自らで決断するという勇気によって、自分だけの家、自分だけの生活を手に入れているのである。つまり、社会がどんな状況になろうとも、そこから独立した生き方をしているために、常に主導権は自分自身の手を離れることがない」(174)
 イリイチ的主張を現代日本で実現すると、そのひとつの形態が「都市型狩猟採集生活」ということになるのかもしれない。
 若干、美化しすぎの気もするが、「カウンター・カルチャー」の初めはそういう過度な美化から「こちらのほうが実はいいのではないか」という感覚を広める必要がある。まあ、仕方ないか。