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本川達雄, 1996, 『時間ーー生物の視点とヒトの生き方』NHKライブラリ.

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本川達雄, 1996, 『時間ーー生物の視点とヒトの生き方』NHKライブラリ.

 時間の多元性を生物学の観点から語った本。子どもは大人と違う時を生きている等、なかなかに興味深い。
 人間は「本能の壊れた動物」であると岸田秀は言う。本書でもそれを証明しているようだ。
「東京ほどの高密度で住んでいる哺乳類は、どの程度の大きさのものになるのでしょうか。計算すると体重が六グラム、哺乳類として一番小さいトガリネズミのサイズです。では日本の全国平均の人口密度で住んでいる動物はどうかというと、体重が一四〇グラムですから、ドブネズミ程度。いずれにしても日本に住めばネズミ小屋暮らしになってしまうのですね」(11)
「生きものには生きものの時間があるのです。ならば当然、生きものを理|解するには、その時間を使わなければいけないでしょう」(46-47)
「子供はエネルギーをたくさん使って時間が速く進むから、一日二四時間という同じ絶対時間の間に、子供は大人よりもいろいろなことをやってたくさんの経験がもてます。だから逆に子供では一日が長く感じられるのではないでしょうか」(154)
→これは生き物全般、赤ちゃん-幼児-子ども-若者-大人-老人の時間の違いを認識することの指摘でもある。
 動きまわるのが少ない生物ほど、エネルギーの消費が少なくて済む。また寿命も伸びる。そういったエネルギー的観点から、人間の生き方を探った本である。
「日本の人口密度はネズミ程度だと冒頭で申し上げましたね。ネズミ小屋の中でゾウなみのエネルギーを使っている、これが日本人の生活ということになります」(121)
「現代人も縄文人も、体自体に大きな違いはなく、私たちの体のリズムは昔のままなのです。とすると、体の時間は昔と何も変わっていないのに、社会生活の時間ばかりが桁違いに速くなっているのが現代だということになります。
 そんなにも速くなった社会の時間に、はたして体がうまくついていけるのでしょうか? 現代人には大きなストレスがかかっているとよく言われます。そのストレスの最大の原因は、体の時間と社会の時間の極端なギャップにある、と私は思っています」(140)
→人間の動物性である。
 読んでいて思うのは、動物の悲しさである。動けば動くほど、エネルギーが必要になり多くを食する必要がある。そのため、一生に費やすエネルギーを早く使いきってしまい、寿命を迎える。一方、ほとんど動かない動物(ex. ナマケモノ)や植物はエネルギー消費が少ない分、長く生きれる。頑張ることや一生懸命さというものを問い直すことが必要だと思った。

映画『地球に優しい生活』(原題: No Impact Man アメリカ2009)

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映画『地球に優しい生活』(原題: No Impact Man アメリカ2009)

 新宿武蔵野館でトークショーも含めて、本日見に行った。初日というのは映画のエネルギーを強く感じる。

 さて、この映画は1年間地球に負担をかけない(No Impact)生活をニューヨークの都心のアパートで行う、というものだ。田舎ならいくらでも自給自足ができる(こっちも大変だけど)。それを都会で、奥さんが働きつつ、家族3人で行うという点で「大変」なのである。
 いままで私が観てきたドキュメンタリーとの違いは、本作の主人公は「成長」・「変化」していく点だ。一般的なドキュメンタリーは固定的で迷いのない主体として描かれる。代表例は『ゆきゆきて、神軍』。主人公の奥村謙三は最初から最後まで「変な人」であり、活動家である。何かを経験してもそこからの学習や変化は描かれない。一直線のモデルである。このように描かないと、ドキュメンタリーでとりあげるべき人物ではなくなってしまうからだ。最初から最後まで、環境運動家は変化せず、批判に屈せず、やり切るのが一般的なドキュメンタリーである。
 一方、本作の主人公は意外に弱い。自らの生活を綴ったブログへの批判にヘコみ、いろんな人からの批判・指摘を受けて「自分が間違ってるかもしれない」とアッサリ認めてしまう。また、単に自らの活動を誇示するのではなく、他の運動家や農場・地域の人々から学んでいく姿勢が挙げられる。夫・妻との会話・対立を経験しつつ、なんとか1年過ごすという映画である。ある意味確たる主体性が消滅した、ポストモダン的なドキュメンタリー、と言えるだろうか。主人公たちの会話や「地球に優しい」主張も、よく聞くと矛盾しあっている。エレベーターはダメだが、遠くの牧場への電車は構わない、本は読むけれどトイレットペーパーはNGなどなど。混乱・葛藤・矛盾を描き出している。
 一般的なドキュメンタリーとの違いは、おそらく編集の仕方である。編集はすべての映像を撮ったあとに完了する。その際、「変化しない」部分を組み合わせて作ると一般的なドキュメンタリーになる。しかし、それをあえて混乱・矛盾したまま描くと本作のようになる。編集の力はすごいものだと思う。
 私は本作のように「変化」する主体を描いたドキュメンタリーを好む。だって私は弱い。他者の声に簡単に影響される。また以前と違う考え方にいきなり変化することがある。おそらくほとんどの人の生活もこういうものだろう。それゆえ、本作は変化・矛盾している自分のような弱い主体でも、何かができるのではないかと考えさせることに成功しているのである。面倒くさく言うと、本作は共同主観性の立場で描かれたドキュメンタリー映画だ、ということができるだろう。
 

坂本佳鶴恵, 2005, 『アイデンティティの権力−−差別を語る主体は成立するか』新曜社.

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坂本佳鶴恵, 2005, 『アイデンティティの権力−−差別を語る主体は成立するか』新曜社.

「他者は、自己にとって自己と同じように独自の仕方で世界を認識し意味構成する認識主体として、あるいは逆に自己によって意味づけられる認識の単なる対象として、現れる。他者を「対象」として知覚する限り、他者の存在は私と世界の諸事物との関係を変えることはないが、他者を認識主体として認めるや否や、私はもはや自分を中心に世界を構成することができなくなる。世界のもう一つの中心としての他者の出現は、同様の意味作用の中心として権利づけられた他の身体による現実構成の中で、現実構成の主体から対象へと堕してしまう。ここには自己が自由な意味形成の主体から単なる状況的現実の一項にすぎない状態へと陥る恐怖が描かれている」(46)

「役割距離は、このように特定の役割期待の中で要求されるものもあるが、役割を遂行する個人についての一定の情報を与えることに利用される場合もある。いずれにしろ、役割距離は、遂行している役割以外の真の自己の存在を他者に呈示する。しかし、スティグマをもつ人々にとって、スティグマという役割から距離をとってみることは不可能である。スティグマを余裕をもって不真面目に演じることなどできないのである」(58)

「障害者は、障害を隠すことで健常者とみなされたり(パッシング)、「障害者」の役割を意識的に演じてみせたりするなど、自己表出をコントロールすることができる。こうした作業は、社会規範に基づいた一方的な自己規定に対して、自らの意志でコントロールできる部分を、少しでも見いだそうという、自らを「主体化」する努力といってもよい」(187)
→パッシングとはやり過ごすこと、みたいです。
「関係論的自我論では、自己を変えるためには、関係を変えなければならないが、関係を変えようとすれば、その前に自己を変えなければならないという循環に陥る。主体性重視の、ミード的自我論では、主我が客我を変えることになるが、主我は、客我に対する反応であるから、帰る対象が自らの前提になってしまう。そこで浅野が提示する物語論的自我論は、自我の変容を自己物語の書き換えとして考える。物語は、他者=セラピストに対して語り、その他者が物語の裂け目、非一貫性を指摘していくことで、新た|な物語が形成されていく」(196-197)
「語るという行為は、聴くという行為がなければ成立しない。自己についての語りは、他者による認知がなければ成立しないのである。では、自己はどのようにして他者に認知されるのか。どうすれば、「私」を認知させることができるのか。私を認知する〈聴く主体〉は、どのようにして成立し存在するのか。
 ポストモダンの、パロディやアイデンティティの流動化の戦略は、結局のところ、この〈聴く主体〉が存在しなければ、意味がない。換言すれば、〈聴く主体〉がいかに成立するかが、パロディなどの撹乱の戦略に先立つ重要な課題なのである。〈聴く主体〉は、一方的な啓蒙によってできるのではない。|それは、語る者との間の相互作用によって、成立する。語る者と聴く者が、主体となる以前の、流動的なアイデンティティの相互の変容に共同で取り組むこと、ともにマジョリティのアイデンティティとマイノリティのアイデンティティの間を往還していく、そうした準備ができていることが必要なのである。周縁的アイデンティティやその主体性という、語る主体の視点からばかりでなく、〈語る-聴く〉相互行為という視点からのアイデンティフィケーション論の構築が必要である」(坂本佳鶴恵, 2005, 『アイデンティティの権力−−差別を語る主体は成立するか』新曜社.229-230)
→アイデンティティは受容する他者・「聴く主体」がなければ成立しない。
「したがって、女性の立場を否定するのではなく、「女性」を女性(いま女性である人々)だけでなく、誰もが(現実にあるいは想像的に)」採りうる立場として開放し、相対化していくこと。社会に規定された女性という立場に依拠しつつ、その問題点を変革し、女性の価値を劣った価値としてではなく、男性とも共有できる価値として定義し直していくこと。自らのからだや欲求を、自らに対しても他者に対しても、積極的に肯定していくということ。そうしたことが必要になってきているのではないか」(295)

G・H・ミード『社会的自我』,船津衛・徳川直人編訳, 1991, 恒星社厚生閣.

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G・H・ミード『社会的自我』,船津衛・徳川直人編訳, 1991, 恒星社厚生閣.

 ある意味ミード入門としても読める本。

「意味とは、対象が引き起こす、表示された反応のことである」(22)

「人間が自分自身に対して対象となるのは、まさに、自分の行為にかかわる他者の態度を取得する自分自身に気づくからである。人間が自分自身に立ち戻ることができたのは、他者の役割を取得することによってだけである」(57)
「もし、人が「机」という言葉を発音し、その発音を自分自身で聞いた場合、その人は、机という対象に対する組織化された反応態度を、他者に引き起こすのと同じ仕方で、自分自身のうちに引き起こしたことになる。このようにして引き起こされる組織化された態度は、普通、観念(idea)と呼ばれている。われわれが述べていることについての観念が、有意味な発話(significant speech)すべてに伴っているのである」(64)
「われわれは、自分に対する他者の態度を取得でき、そして、他者の態度に反応でき、また実際にそうするかぎり、まさに、そのかぎりにおいて、自我をもつのである」(65)
「思考とは内的会話のことである。そこにおいて、われわれは、自分自身と対峙する特定の知り合いの役割を取得している。しかし、普通、われわれが会話しているのは「一般化された他者」と名づけられたものとである。それによって、抽象的思考のレベルに到達することになる。そしてインパーソナル性、われわれの考えるような、いわゆる客観性というものを獲得するようになる」(66)

水たまりと鬱病について。

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水たまりと鬱病について。

人は5センチの深さの水たまりで窒息死することができる、という。でも、そこで窒息死するのはなかなか難しい。酔ってそのまま、ということくらいじゃないと、なかなか出来ない。センスが必要だ。

鬱病というのも、他の人にはたいしたことない環境でも、発症できる人はいるのだろう。
だとすれば、鬱病になるのはひとつの才能、ひとつの能力、ひとつのセンスではないか、と思う。だって、他の人ができないことをしているわけだから。

ホームドア

この写真のように黄昏てる人がいる時点で面白い、と想像した。

ひろさちや, 2007, 『「狂い」のすすめ』集英社新書。

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ひろさちや, 2007, 『「狂い」のすすめ』集英社新書。

「つまり、目的意識があると、われわれはその目的を達成することだけに囚われてしまい、毎日の生活を灰色にすることになるのです。失敗したっていいのです。出世できなくてもいいのです。下積みの生活でもいい。それでも楽しく生きることができるはずです。|

 要するに、繰り返しになりますが、現代日本の社会は狂っています。こんな狂った社会で、社会が考えるまともな生活をしてはいけません。こんな社会でまともな人間になれば、われわれは奴隷になってしまいます。
 だから、狂いましょうよ。狂うことによって、わたしたちは本当の人間らしい生き方ができるのです。わたしはそう思っています。」(55-56)
「わたしたちは世間、世の中に役に立つ人間になる必要はありません。いや、わざわざわれわれが世の中に役に立つ人間になろうとしないでも、人間は生きているだけで世の中の役に立っているのです」(61)
「わたしたちはたまたま人間に生まれてきて、生まれたついでに生きているだけだ。別段、それ以上の意味なんてない」(73)
「笑えるときは笑っていいのですが、泣いて苦しむときは泣き苦しめばいいのです。苦しみを楽しむことができれば、あなたの人生はすばらしい人生になります。それが「現在」を楽しむことです」(85)
「ともあれ、釈迦の言葉は、あのホラティウスの「カルペ・ディエム(今日を楽しめ)」と同じです。わたしたちは、自分は自分であって他人ではありません。現在の自分をしっかりと肯定し、その自分を楽しく生きればいいのです。それが仏教的生き方だと思います」(100)
「人間ができることは、ただ現在をしっかりと生きることです。そして、現在をしっかりと生きるために、人間は病気になると、負けることを承知の上で病気と闘って生きます。それがキリスト教徒らしい生き方です」(104)
「だからわれわれは、
ーー孤独を生きねばならないーー
のです。いいですか、孤独に生きるのではなしに、孤独を生きるのです」(127)

鬱気味な日々。

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鬱気味な日々。

なんかうつ病気味だ。これを、「うつ病になってしまった」と捉えるなら、「以前」「普通」の状態が想定されるだけである。
しかし、うつという視点でものを見るチャンス、「頑張らなくてもいいんじゃないか」と考える発想のチャンスを貰った、ということもできる。
人生は長い。寄り道をわざわざ作らせるために、こういった「うつ」という状態になるのだろうと思う。
現代人に欝が多いのは、実は精神を病んでいる、ということではなく前期近代的(あるいは高度経済成長期的)なガンバリズムから身を守るための社会的セーフティネット、あるいは人間の身体的防衛システムの起動である、ということができるのではないか。

新宿の反原発デモ

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新宿の反原発デモ

 新宿の脱原発デモに行った。心情的に私は現状維持→漸次廃止だから即時撤廃を言う人に違和感を感じつつ歩いた。

 …といっても、新宿三丁目の交差点から歌舞伎町のそばまで。実質200メートルくらい。本当はもう少しやるつもりだったが、警察とデモの人たちがもめ始め、怖くなって抜け出てしまった。

 デモをやる人は、下手したら警察に捕まる可能性がある。そんな当たり前のことを、デモ隊と警官のやり取りを見ていて実感した。だからこそ、危険を顧みずヴァルネラブルの姿勢でデモをやれる人は尊敬する。私は軽く考えすぎていた。

 警察はデモがあっても交通を通し、社会混乱を防止することが仕事。だから僕の歩いていた周りも警察官が歩道側・車道側ともに車や人との接触がないようガードしていた。しかし、これはデモ隊に加わることと、デモ隊から出すことを防ぐという裏の意味がある。私はまだ離脱可能なタイミングだったからデモ隊から出ることができた(警察が周りをガードしているから、なかなか途中参加・途中離脱ができない。トイレに行きたい人はデモを完全に離脱しないと行けないのだ)。
 ちょうど『〈民主〉と〈愛国〉』を読んだ後だったので、安保闘争ないし大学紛争の気持ちが少しだけ分かった。なつかしい「日大全共闘」の幟を持って歩いているおじいさんがいた。歩いている途中、後ろで各種右翼系団体への批判を隣同士している人がいた。ある意味、純粋な反原発の意図のみならず、左翼系活動のシンボルとして脱原発が利用されているのであろうと思う。
 自分はかなりせこい参加の仕方をしており、いろいろ反省した。
 私がデモに参加しても、誰も発砲もしてこなければ機動隊に殴られることもないだろう、という予期ゆえに軽い気持ちで参加していた。しかし、本当はそこまで考えないといけないのかもしれない。
 

トイレ男子

メガネ男子とか、草食系とか、いろいろあったなあ。