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後世への最大遺物

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後世への最大遺物

トインビーはボケが入っていても、本に目を通そうとしていた、という。

死ぬ間際に、その人の生き様や価値観が明解に描かれる。
花谷弁護士も言っていたように、私も死ぬ頃にも本に目を通そうとしていたい、と思う。
私は文をもはや理解できていないかも知れない。しかし、「読む」姿勢や「学究心」だけは後世に残すことが出来る。
「後世への最大遺物」は「良き生き様だ」とは内村鑑三もよく言ったものだ。
私も「後世への最大遺物」として、ぼけても本を読む姿勢を持ちたい。
それこそ、我が教え子への人生最後のメッセージではないか。

竹田青嗣, 2009, 『人間の未来−−ヘーゲル哲学と現代資本主義』ちくま新書。

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竹田青嗣, 2009, 『人間の未来−−ヘーゲル哲学と現代資本主義』ちくま新書。

 学部時代まで、私はイリイチをごく素朴に認識していた。
 いま、思想上の問題としてその傾向性を「精算」している。
 教育学関連でいえば、①「脱学校」といえば何らかの意味があった時代は1980年代に終わったこと、②いまは「学校」的でない「学校」実践が多く存在していること、③「脱学校」を超えた「再-学校」論とでも言うべき教育思想の構築が求められていること、④私自身がこの4月から教員として実践者となっていくことの4点が理由である。
 思想関連で言うと、①近代のすべてを否定する発想はもう時代遅れであるということ(ポストモダンも古くなった)、②反国家・反近代うんぬんの前に、皆が納得できる形での思想形成が求められていることの2点が理由である。
 イリイチ思想に染まった自分自身の精算が必要であるのは、端的にいえば竹田青嗣の著作および思想に触れたことがきっかけとなっている。イリイチは中世への回帰を訴えるばかりで、現実社会での実現可能な方策については各個人の「アンプラグ」を示す程度である。アンプラグとは、いわば現代の資本主義ゲームから自発的に「降りる」こと。「都市型狩猟採集生活」であったり、自給自足のライフスタイルを形成したりと、個人レベルでの運動にとどまる(いまの段階でもできることがある、という意味ではすごく好きな発想だ)。
 『人間の未来』は『人間的自由の条件』(2004)の続編。皆が納得できる形での社会設計の原理論を提示している。
 全部を紹介できるほど能力が高くないので、抜粋式に示す。

「「近代(市民)社会」の核心的理念は何かと問えば、社会から「暴力原理」を完全に排除し、これを純粋なルールゲームに変える試みだった、と答えるのがその本質をもっともよく表現する」(131)

「「国家」の本質は、なによりもまず普遍的暴力の制御という点にある。言いかえれば、一社会の共同的な自己防御ということが第一義である。どんな国家も一体的な「共同的幻想」を作り上げるが、それは本来「覇権の原理」が不安定であるために(それは最強者=王の原理だから、より強い者が現われれば現在の王の正当性は失われる)考えだされた、秩序安定のための工夫で合って、「一体性幻想」は国家の本質ではなく属性にすぎない」(162)
→国家は「暴力装置」である。しかし、これは「国家」がなければ存在した公的ルールに基づかない暴力・収奪を防ぐ働きがある。その側面をさしおいて国家の暴力性をのみ訴えるのはフェアではない。
「近代社会の根本理念は「自由の相互承認」にもとづく「普遍ルール社会」を目標とするところにあった」(272)
 本書ラストで著者は地球レベルにおいて「資源」の「希少性」による「普遍闘争」状態が起きる可能性を示す。その解決策として、国家レベルでの納得の行く資源配分のルールの措定を述べる。もはやポストモダン論を述べる時代ではなく、今後の社会を万人に「よい」社会とするために思想家・哲学者は智慧を集める時代である、という訴えである。
 読み間違いがあったらごめんなさい。

ネコ型人材の時代。

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ネコ型人材の時代。

ツリー状の時代において、イヌ型人材が求められた。

つまり、指示を忠実にこなす人材だ。
しかし、いまは時代が変わった。
大組織の時代ではなく、
少人数グループによるクリエイティブ能力の時代になった。
ネットワークを用い、
自分で仕事を作り、
自分で課題を見つけ、
自分の生き方を捜す
ネコ型人材の時代となった。
ネコは面倒くさがりである。
だからこそできるだけ無駄を省く。
ネコは気分屋である。
だからこそ自分が好きな事だけをやる。
自分の好きなことのプロフェッショナルである。
ネコはさみしがりやである。
だからいろんな場所に出入りし、いろんな人とネットワークを作る。
ネコは遊び好きである。
だからあちこちウロウロ、動き続けている。
私はネコ型人材になりたいと思う。
注 本内容はネコワーキングでの会話を基に構成しています。

ルドン展に行く。

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ルドン展に行く。

 友人の勧めで、丸の内の三菱一号館でやっている「ルドン展」にいった。

 ルドンをブリタニカ百科事典で引くと、次の通り。

フランスの画家,版画家。ボルドーで修業し,1871年パリに出る。 J.L.ジェロームや R.ブレダンの影響を受け,初期には単色のリトグラフ (石版画) で幻想的,神秘的な世界を生んだ。 S.マラルメ,J.K.ユイスマンス,E.A.ポーなど象徴主義作家の影響を受ける。 90年頃までもっぱら単色で制作したが,その後,夢幻的世界の効果を増すために色彩を採用し,文学的,神話的主題を華麗な幻想に高めた。晩年はパステル,水彩による作品を多く描き,特に花の絵でも名高い。世紀末の象徴主義者としてシュルレアリスムにも影響を与えた。主要作品はリトグラフ集『夢のなかで』 (1879) ,『ベニスの帆船』 (1906) ,『アネモネの花』 (08) 。


 ちなみに彼の自画像が下のもの。

 
ルドン(自画像,1904,個人蔵)

 展示の中では「初期」の「単色のリトグラフ」が興味深かった。
 目玉が画面中央に置かれ、危うい雰囲気を出している。
 危うい目玉が、ふわふわとした気球に描かれてもいた(タイトルは忘れた)。
 
 社会学と人類学と心理学の黎明期。そんなイメージを誘発する展示だった。

 たとえば「永遠を前にした男」はサルがヒトへと進化し、立ち上がる瞬間が描かれている。
 立ち上がるという「永遠の一瞬」が、今の我々に続いている。
 立ち上がることは文明の発展を招いたが、同時に人間の苦悩が招かれる結果にもなっている。
 そんなことも含めての「永遠を前にした男」なのだろうと思う。

 作品展の至る所に描かれた〈ダイスを背負った男〉のイメージは、
 運命を背負わされている人間の苦悩を感じる。

悩み事解決用アプリ

悩み事解決用アプリを誰かに開発してほしいなあ、と思う。それは、カーネギー『道は開ける』の4つのステップをただ打ち込んでいくだけのものだ。

誰かにフリーでマック用アプリを作ってもらえないだろうか。

to-doリストへの対応が出来ると、考えた対策をすぐリスト化できて便利だろうなあ。

参考;カーネギー『道は開ける』における「悩みの追い払い方」(78)

①悩んでいる事柄を詳しく書き記す。

②それについて自分にできることを書き記す。

③どうするかを決断する。

④その決断を直ちに実行する。

遠隔教育のパラダイム転換

 本日、戸田文化会館でおこなわれた「埼玉県県立高等学校学力向上基盤形成事業 平成23年度報告会」に参加した。協調学習について興味があり、この4月から教員になるものとして視野を広げようと思ったからだ。

 面白かったのはロボット(アンドロイド)を用いての学習、という内容だった。グループ学習において、遠隔操作するロボットを介入させると、学習効果が上がった、という点である(真新しいイベントだから、集中度が上がっただけの可能性も考えられるが)。
 はじめ、かなり違和感があった。それは「そこまでしなくてもいいのでないか」という発想からである。しかし「可能性としてはありだな」と話を聴いていて思うようになった。例えば、長期入院者もアンドロイドの遠隔操作によって授業に参加することも可能になるたえである。

 シンポジウムを見ていて、遠隔教育の新たな形として、アンドロイドやロボットを通しての学習があるのだなあ、と分かった。遠隔教育の新たな形態が出来つつあるのだ。
 いままでの遠隔教育は、eラーニングなどIT技術を用いて離れた場所で学習をすることを意味した。これからはアンドロイドの遠隔操作により、アンドロイドを介しての学習を行うことが「遠隔教育」のメインテーマになるかもしれない、と思った(実際、eラーニングを用いる大学の授業ではBBSを活用する。これは離れた場所での会議であるが、アンドロイドを集め一箇所でBBS的な議論が可能となるだろう)。
 このような遠隔操作による学習の場の形成。モチベーションを上げ、社会性を身につける機会があるのなら、物理的に集まるのも最小限でいい。イリイチの言う「脱学校」的な学習の場を、IT利用による遠隔教育によって成立させることが今まで以上に可能になったように思える。

 アンドロイドを用いる時代になると、通信教育の意味合いが一段と高まるように思われる。遠隔教育と、通常の学習(学校に行き一箇所に集まっての授業)の意味合いがそれほど変わらなくなっていくからだ。

注 現在、インターネット上で授業を受講する遠隔教育においても、時間を定めて(例えば火曜日20:00-23:00の間だけ受講できるなど)受講するシステムをもつところが多くなっている。各人が好きな時にテキストを用いて学習する場合、縛りが弱いため学習者がかえって学習できなくなるところがあるからだ。そのため、「いつでも・どこでも」学習できるということが、遠隔教育のメリットというよりも「学習が進まなくなる」という意味でデメリットだと考えられてきている。実質、「いつでも・どこでも」学習できるという「自由」の重みが個々人の負担になっている。

自分を支えてくれる「実践コミュニティ」の形成

仕事で「つぶされない」ために、自分を支えてくれるコミュニティを作っておこう。

これはウェンガーのいう「実践コミュニティ」である。勝間和代が『ズルい仕事術』で上げた「レバレッジ力」も、つまるところ自分を支えてくれる人びととの良好な人間関係の形成について述べたものだ。

「支え」というセーフティネットが日本にないことを批判する声が多い。ないならば少なくとも自分の周りにつくる。それが大切だろう。

瀧本哲史, 2011, 『僕は君たちに武器を配りたい』講談社。

「労働者の賃金が下がったのは、産業界が「派遣」という働き方を導入したのが本質的な原因ではなく、「技術革新が進んだこと」が本当の理由だからだ」(65)

1999年のiMacというカラフル+スケルトンボディのパソコン。
「アップルの苦境を救ったのもスペックや機能ではなく、「色」や「デザイン」だったのである」(142)

起業するなら、「自分が働いている業界について、どんな構造でビジネスが動いており、金とモノの流れがどうなっていて、キーパーソンが誰で、何が効率化を妨げているのか、徹底的に研究するのである」(172)

「起業家が新しいビジネスを見つけるときの視点として、「しょぼい競合がいるマーケットを狙え」という鉄則がある」(175)
→自分の会社について「その会社が潰れる前に退職し、その会社を叩き潰す会社を作るのである」(178)

☆イノベーション(技術革新)とは「実は「新結合」という言葉がいちばんこの言葉の本質を捉えた訳語だと私は考えている。既存のものを、今までとは違う組み合わせ方で提示すること。それがイノベーションの本質だ」(183)

「つまりリーダーには、優秀だがわがままな人をマネージするスキルも大切だが、優秀ではない人をマネージするスキルのほうが重要なのである。ダメなところが多々ある人材に、あまり高い給料を払わずとも、モチベーション高く仕事をしてもらうように持っていくのが本当のマネジメント力なのだ」(190)

「資本主義の社会では、これまで述べたように、自らが会社を興して事業を営むか、あるいは自分が株主として会社の利益に応じて報酬を得られる仕組みを構築することが大事となる。その場合に欠かせないスキルが、人をどうやってマネジメントするか、というリーダーシップのとり方なのである」(191-192)

「資本主義の国で生きる以上、株主(投資家)の意思のもとに生きざるを得ない、ということなのだ。それならば、自分自身が投資家として積極的にこの資本主義社会に参加したほうが良いのではないか、というのが私からの提案なのである」(217)

「「自分でリスクが見えて管理できる状態」とは、何らかの仮説に基づいて投資を行った後で、その仮設が間違っていると気づいたら、いつえも手仕舞いできる準備をしておく、ということである。
 自分がとろうとしているリスクの大きさを、正確に見極めよ。そのリスクに責任がとれると踏んだならば、臆せずに投資せよ。それが投資家として生きる上での鉄則なのである」(232)

「「売り物がある人」は必ず「武器」として英語を身につけるべきだ。まだ「売り」がない人は、英語の勉強をやる前に「自分の商品価値」を作ることが何より大切なのである」(266)

「社会に出てから本当に意味を持つのは、インターネットにも紙の本にも書いていない、自らが動いて夢中になりながら手に入れた知識だけだ。自分の力でやったことだけが、本物の自分の武器になるのである。資本主義社会を生きていくための武器とは、勉強して手に入れられるものではなく、現実の世界での難しい課題を解決したり、ライバルといった「敵」を倒していくことで、初めて手に入るものなのだ。そういう意味で、ギリシャ神話などの神話や優れた文学が教えることは、人生の教訓を得るうえでも非常に有効だと私は考えている」(281)

『僕は君たちに武器を配りたい』

「起業や商品で差をつけることは難しい。差をつけるには、ターゲットとなった顧客が共感できるストーリーを作ること」(瀧本哲史, 2011, 『僕は君たちに武器を配りたい』講談社.pp.145-146)

 教育も物語を共有することが一つのポイントだ。顧客満足度を上げることにもなるし、「高校時代」は繰り返せない。いわば、高校時代という思い出と学歴を購入するのが高校入学なのである。であれば、「この高校だといい物語を共有できる」というモデルを構築することが、高校にとって必要なことだ。わくわくする授業・楽しいイベントでの物語を作り上げる実践をしたいと思う。深夜アニメに高校ネタが多いのは、高校に「物語」を求める人がおおい証拠だろう。

小堀宗実, 2011, 『茶の湯の宇宙』朝日新書.

最近、アニメで『へうげもの』を観るのが好きである。その関係で茶道について若干ながら書物を読むようになった。

 本書はそういった流れで読んでいる。教員の仕事も茶道同様、「芸」である。そのため、本書は教員論として読んだ。

 茶道において、茶会において何が起きるかわからないからこそ、控えの道具など、問題があった時の用意を必ずしておく、という。たとえばお茶を立てるための茶筅(ちゃせん:お茶をかき混ぜ泡立てるのに用いるもの)を万が一落としてしまった時のため、新しい茶筅を予め用意しておく。その際、別の茶筅であることを明確にするため色の違う茶筅を出しているという。

「控えの茶筅や柄杓は、一度も使わないで済むことがよいことです。一生涯使わないかも知れないけれど、水屋(注 茶席の用意をする場所)に控えを用意しておく。これが備えというものです」(58)

 何事も用意が必要である。教育実践においても「用意」が必要だ。何も考えず授業をしてしまうことは1つの暴力である。

 そのため、いまのうちから教員実践の準備をしたいと思う。