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集団ぎらい

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集団ぎらい

 わかったことがある。最近の私は「三人関係」以上のものに慣れていない、ということだ。4人くらいでだらだら過ごす、ということに耐えられなくなっているのだ。そのことが私に飲み会やサークルなどの際に疎外感をもたらしていたのだ。

 基本的に私は一人でいるか二人でいる。話すのも酒を呑むのも多くて二人。そのため3人以上でいるとどうふるまっていいか分からなくなる。
 実家に帰るのが億劫なのも、家族というマスに埋没する必要があるからだ。家族という集団の幻想を維持する一員にならざるを得ないのが「キツい」ために帰省が嫌なのだ。同様に飲み会にあまり行きたくないのも、集団に埋没しなければいけないからだ。飲み会は「会」の維持が最優先になるイベントである。「会」が存在するという幻想を乱すもの(=私)は排斥されなければならない。
 そんなわけで私は集団が嫌いになっている。集団ぎらいを英語でいうと何になるのか。massphobiaとでも言うのだろうか。

昼モス

朝マック、昼モス、夜ロッテ。

R.セネット(1980):今防人訳『権威への反逆』岩波現代選書、1987。

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R.セネット(1980):今防人訳『権威への反逆』岩波現代選書、1987。

「権威の絆は、強さと弱さのイメージから造られている。つまり、権力の情動的表現なのである。孤独は、他の人々から切り離されていること、つまり絆の喪失の知覚なのである。友愛は、同類のイメージに基礎を置いている。同一の国民として、同性として、同じ政治的立場として「われわれ」という感覚によって引き出される情動なのである」(2)
「自由は幸福ではない。それは分裂の経験であり、暴君と奴隷がどの人間にも宿っているという最終的な承認である。この事実を承認して初めて決闘者以上のものになれるという希望は常に抱けるのである。自由は私があなたに与える承認が私自身からある何かを差し引かない時に、最終的に存在するのだ」(178)
「感情移入は他人の生活へのなにほどかの探求を要求するのに対し、共感はもっと控え目で、必然的に理解しようとする試みを伴わない関心の表現である。感情移入の想像は、二つの自分自身であるドッペルゲンガーの創造とも異なる。そうではないく、他の誰かの身体や環境のうちに想像される自分自身なのである」(197)
「われわれが18世紀から継承した民主主義のあらゆる観念は、権威は目に見え、読むことのできるものであるという概念に基づいている」「この共通の努力から、市民はある権力を指導者に委任するとともに、指導者がどれくらいその委任に値するかを裁定するという結果が生じる」(234)
「権威とはそれ自体本質的に想像力のしわざである。それはものではない。他人の強さの中にあり、もののように見える堅固な保障の探求である。この探求を達成できると信じるのはまさに幻想であり、しかも危険な幻想である。暴君だけがその要求を満たす。しかし、この探求を全く行うべきでないと信じることも危険である。その時、いずれであれ、絶対視が起きるからである」(273)
訳者あとがきより。
「権威者は畏怖を引き起すだけでは不十分である。養育なき権威こそ否定されるべきなのである」(279)
☆アレントも『過去と未来の間』において教育に権威が必要である点を述べる。フーコーやアルチュセールの権力論には「呼びかけ」に答えることで主体subjectが形成される、とあるがそれを「養育」と見ることもできるのではないか。

R.セネット(1980):今防人訳『権威への反逆』岩波現代選書、1987。

鷲田清一(2006):『「待つ」ということ』、角川選書。

「〈待つ〉ことはしかし、待っても待っても「応え」はなかったという記憶をたえず消去しつづけることでしか維持できない。待ちおおした、待ちつくしたという想いをたえず放棄することなしに〈待つ〉ことはできない」「〈待つ〉とは、その意味では、消すことでもあるのだ」(16)
→☆教育とは待つこと、とはよくいうが、それは教育への期待を消すことでもある。
→☆次の文章を思い出す。『寺山修司名言集身捨つるほどの祖国はありや』(2003)より
「さよならだけが/人生ならば/またくる春はなんだろう/はるかなはるかな地の果てに/咲いてる野の百合何だろう」(69)
「言葉は、ひとを「いま」から引き剥がしてくれるものである。言葉によってひとは時間の地平を超える」(23)

「現在の外へ出ること、それも〈時〉という持続のなかで現在から外出することが、「何かを待つ」ときには起こる」(113)

「「祈り」はあくまで〈待つ〉ことのひとつのかたちであって、「神さま」への要求なのではない」(139)
→☆これ、祈りが一見受動的に見えたとしても実は受動的な行為であることの説明ではないか。祈り自体は自らにかける暗示や期待の現れである。「自分が運命を変える」という主体の表れでもある。

「〈待つ〉は、人類の意識が成熟して付加的に獲得した能力なのではない。〈待つ〉ははじめから、意識を可能にするもっとも基礎的な位相としてあった。〈待つ〉ことから未来は生まれ、意識は始動したとすら言えるかもしれない」(188-189)
→☆では、動物に「待つ」は存在するのか、が不明点である。飼い犬は飼い主の帰宅と餌を「待っている」のだろうか。むしろそう見えるのは人間の観察によるだけであり、動物には常に「現在」しかない以上、未来の予測は不可能なのではないか(むろん、「動物」の種類にもよるが)。

「〈待つ〉のその時間に発酵した何か、ついに待ちぼうけをくらうだけに終わっても、それによってまちびとは、〈意味〉を超えた場所に出る、その可能性にふれたはずだ」(193)

→「待ちぼうけ」という歌は、来るはずのない兎を待つ男の物語であるが、「待つ」からこそ開けてくる世界観でもある。

☆所感:「哲学とは死ぬための準備」(ソクラテス)ならば、人生とは「死」を延々と待つ行為になるのであろうか。

種の分類

種の分類か1つだけ間違っている。
とうもろこしだけ、料理法が描かれている。

寺山修司(1974):『さかさま世界史 英雄伝』、角川文庫。

・「二宮尊徳」について。
「少なくとも、薪を背負って本を読むよりは、薪を下ろして本を読む方が頭に入ります。それに、読書は人生のたのしみであって、義務ではない。そのために、山道の二往復が一往復になったり、サボったといって叱られても構わないのではありませんか? 山道を歩くときには、本ではなくて山道を”読む”べきです。自然は、何よりも偉大な書物だというのが、私の考えです」(77)

・「毛沢東」について。
「私の考えでは、政治の言語はつねに「標準語」であり、人生の不安や性の悩みについて語るときだけ「方言」が生きてくるのであった」(131)

・「聖徳太子」について。
「犯罪が国家なしでは存在せぬ概念であることを思うとき、国家は犯罪の母体なのだと教えてくれたのも、聖徳太子であった」(169)

・「セルバンテス」について。
「ドン・キホーテの滑稽さを、「時と所」の読みちがえ、歴史感覚の欠落だったと言ってしまえば事は簡単だが、しかし、しばしば「時と所」の読みちがえが大きな過誤をのこすことに注目しないわけにはいかない」(216-217)

・「孟子」について。
「しかし、教育というのは半ばお節介の仕事ではありませんか? 自分の子さえいい環境に引越しさせれば、他の子のことは構わないというのでは、教育の本質から外れていると言わざるをえません」(234-235)
☆教育が結果的にエゴイズムをもたらす、という側面。ランドル・コリンズ『社会学の歴史』において、デューイらプラグマティストが批判されている。それは教育の拡大ということを「学歴インフレ」を考慮せずして手放しで賞賛した点にあるからだ、と。教育の拡大という個々人のエゴイズムの反映の政策が、意図せざる結果をもたらす好例である。

・「キリスト」について。
「しかしユダヤ小市民を軽蔑し、革命児たらんとした大工の倅で、娼婦、漁師、兵隊、前科者を集めて、家族制度の破壊を説き、放浪とフーテンの日々をおくっていたキリストは、メガネをかけたオールドミスたちの心の中のキリストさまとはべつの、やくざな、性的魅力あふれた男っぽい男だったと思われる」(249)

●小中陽太郎による「解説」より。
「電気に感激するとは、未開人なみの発想だが、闇の中に電気がともると嬉しい、と思うことが、戦後民主主義の根本であると私は思っている」(280)
☆いまの日本を見て、この言葉が胸に響いた。

ファシズム化

宮台や佐藤優は「ファシズム」に日本の可能性を見たが、いまの地震報道や地震に関する政府対応を見ると、すでにファシズム化しつつあるように思われる。ちょうど、今週のサンデー毎日の特集は「福島原発大本営発表の罪」であった。
 宮台や佐藤優は楽観視しすぎていたのではないか、と思われる。