三木清, 1954, 『人生論ノート』新潮社。

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三木清, 1954, 『人生論ノート』新潮社。

「幸福は徳に反するものでなく、むしろ幸福そのものが徳である」(18)

「日常の小さな仕事から、喜んで自分を犠牲にするというに至るまで、あらゆる事柄において、幸福は力である。徳が力であるということは幸福の何よりもよく示すことである」(19)
「他人を信仰に導く宗教家は必ずしも絶対に懐疑のない人間ではない。彼が他の人に浸透する力はむしろその一半を彼のうちになお生きている懐疑に負うている」(27)
「すべての人間の悪は孤独であることができないところから生ずる」(43)
「創造的な生活のみが虚栄を知らない。創造というのはフィクションをつくることである」(43)
「我々の怒の多くは神経のうちにある。それだから神経を苛立たせる原因になるようなこと、例えば、空腹とか睡眠不足とかいうことが避けられねばならぬ」(55)
「孤独は山になく、街にある。一人の人間にあるのではなく、大勢の人間の「間」にあるのである。孤独は「間」にあるものとして空間の如きものである」(65)
「嫉妬は、嫉妬される者の一に自分を高めようとすることなく、むしろ彼を自分の位置に低めようとするのが普通である」(69)
「一種のスポーツとして成功を追求する者は健全である」(75)
「期待は他人の行為を拘束する魔術的な力をもっている。我々の行為は絶えずその呪縛のもとにある。道徳の拘束力もそこに基礎をもっている。他人の期待に反して行為するということは考えられるよりも遥かに困難である。時には人々の期待に全く反して行動する勇気をもたねばならぬ。世間が期待する通りになろうとする人は遂に自分を発見しないでしまうことが多い。秀才と呼ばれた者が平凡な人間で終るのはその一つの例である」(90-91)
「現代人はもはや健康の完全なイメージを持たない。そこに現代人の不幸の大きな原因がある」(97)
「旅において人が感傷的になり易いのは、むしろ彼がその日常の活動から抜け出すためであり、無為になるためである。感傷は私のウィーク・エンドである」(110)
「行動的な人間は感傷的でない。思想家は行動人としての如く思索しなければならぬ。勤勉が思想家の徳であるというのは、彼が感傷的になる誘惑の多いためである」(110)
「生活を楽しむことを知らねばならぬ。「生活術」というのはそれ以外のものでない。それは技術であり、徳である。どこまでも物の中にいてしかも物に対して自律的であるということがあらゆる技術の本質である。生活の技術も同様である。どこまでも生活の中にいてしかも生活を超えることによって生活を楽しむということは可能である」(121)
「旅は過程である故に漂泊である。出発点が旅であるのではない、到着点が旅であるのでもない、旅は絶えず過程である。ただ目的地に着くことをのみ問題にして、途中を味うことができない者は、旅の真の面白さを知らぬものといわれるのである」(134)
「永遠なものの観想のうちに自己を失うとき、私は美しい絶対の孤独に入ることができる」(145)
「娯楽が芸術になり、生活が芸術にならなければならない。生活の技術は生活の芸術でなければならぬ」(124)
「我々が旅の漂泊であることを身にしみて感じるのは、車に乗って動いている時ではなく、むしろ宿に落着いた時である。漂泊の感情は単なる運動の感情ではない。旅に出ることは日常の習慣的な、従って安定した関係を脱することであり、そのために生ずる不安から漂泊の感情が湧いてくるのである。旅は何となく不安なものである。しかるにまた漂泊の感情は遠さの感情なしには考えられないであろう」(133)

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