教育論

N先生の思い出。

 高校時代。高三の後半はずっと受験対策に明け暮れていた。数学の時間に日本史をやり、地学の時間に日本史をやり、漢文の時間に日本史をやっていた。私が高校の授業の中で学んだことは、「授業だけ聞いていても、受験には受からない。もし自分の夢があるなら、他者に依存するのでなく、自分から進んで学んでいくことが必要だ」というテーゼである。要は〈内職なくして、主体的な学びなし〉というスローガンを内面化したのが高三の受験生時代だったのだ。

 さて、こんな私ではあるが高校の先生方には色々とお世話になった。それは内職をさせていただいたということだけではなく、個人的に会った際に多くのことを教わったということだ。教室での授業では私はほとんど学んでいなかった。
 特に現代文のN先生の話は非常に興味深かった。寡黙で規律正しいN先生のもとに、私は慶応大学法学部の小論文を解く度に添削してもらいに行っていた。デジタル/アナログの二項対立から小論を書いた際、一読して「面白い。」と言ってくださったことが、ものすごく私の支えになった。ブログで雑文を書きなぐるようになったのも、もとを辿るとN先生に褒めていただいたことが一つのきっかけかもしれない。

 N先生が小論文にコメントを下さる際、次の話をされたことを最近思い返している。実はこの指摘、非常に深い意味があったのではないかと考察しているのだ。忘れないために、ここに記すことにする。

「常に人類の社会は〈少数者による多数支配〉の図式で続いてきた。ギリシャの市民政治も多くの奴隷を支配していたし、ローマ帝国も中国の各王朝も日本の大和朝廷・天皇制も常に〈少数による多数支配〉であった。現代の日本においてもそれは続いている」

 高校時代、N先生からお話をうかがえただけでも意味があったように思える。

シュタイナー教育について学ぶ。

最近、子安美知子『シュタイナー教育を考える』を読んでいる。シュタイナー教育の概要が詳しくわかってくる本だ。

外から教えるのでなく、子どもの内側から発露してくるものを大事にする授業。それを実現するために、オイリュトミーやフォルメンを行う。子どもの内なるリズム・発育時間を大切にし、それに沿って少しずつ授業のやり方を変えていく。

ホリスティック教育といわれるものの中でも、一番ホリスティックな教育がシュタイナー教育であるようだ。

 ただ、1点、読み進める中で疑問を感じた。子どもの自然な発育を待ち、それに合わせて授業を行うというシュタイナー教育。これ、ものすごく周到な洗脳教育プログラムでもあるのではないか。
 むろん、シュタイナー教育のプログラムが邪悪な意図を持って作られたものでないことは確かだ。けれど、善なる意思を持って「その子のために」教育プログラムをつくることが構わないとするなら、公教育プログラムに対してもそう言えてしまう。
 シュタイナー教育やフレネ教育、モンテッソーリ教育など、「~~教育法」というものを色々私は学んできた。公教育よりよっぽどましな教育であることは確信している。けれど、これらの「~~教育法」は、子どもに対する押しつけ・洗脳・強制であるように感じられるようになってきた。よい教育プログラムを用意することは、そのプログラムに適応するようにしか、子どもは育つことができないことも意味する。あらゆる「~~教育法」というと呼ばれる存在に、私は「気持ちの悪さ」を感じてしまうのだ。本来、子どもという存在はそれ自体において価値がある存在であると考える。その存在に対し、他者が「よい教育をしよう」と言って何らかの教育プログラムを強制することは権力的作用ではないか。
 『フリースクールとはなにか』という本の中でも、次のようにある。

伝統的な学校教育ではなく別のものを求める、というとき、シュタイナー、モンテッソーリ、フレネその他、はっきりした教育思潮と方法論をもって世界的に広がっている教育もある。それらは、オルタナティブ教育と呼ばれても、フリースクールとは呼ばれない。フリースクールは、オルタナティブスクールのなかの一つであって、学校教育以外であればフリースクールというわけでもない。
 フリースクールが、他のオルタナティブ教育ともっとも違う点は、子どもを主体とすることであり、教育内容を自由につくりだす、ということであろう。○○を○○のために教える、活動させる、というのではなく、子どもの興味、関心、意欲に依拠して作っていくことになる。それは、子ども中心であるがゆえに、教師と生徒の関係を含め、あらゆる側面が変わることになる。(NPO法人東京シューレ編『フリースクールとはなにか』教育資料出版会、2000年、17頁)

 教育プログラムが優れたものであるほど、そのプログラムに子どもを(無理矢理でも)合わせようとする。イリイチの言葉を借りるなら、「制度化」である。「子どもが成長すること」という本来的な目標を忘れ、教育プログラムの遂行のみを目的と取り違えてしまうようになる。フリースクール以外のオルタナティブスクールでは、ともすればそういった価値の転倒(=価値の制度化)が起きてしまう可能性があるのだ。子どもを主体とする教育。それ以外のものに、私は「違和感」「気持ち悪さ」を感じてしまうようだ。

 そういえば宮台真司の『14歳からの社会学』にあったことを思い出す。世界が精密にプログラムされている現状。それに気付いた時、人は離脱しようとするのだ、と映画『マトリックス』などを基に説明をしている。教育に対してもそれは言える。教育プログラムが精密であればあるほど、「俺って、いなくてもいいのかもな。どうせ、誰に対してもこんな教育をするんだろうし」と「自己疎外」が発生する。学校教育における落ちこぼれや不良とされる人々は、「自己疎外」ゆえに教育プログラムを離脱しようとするのだろう。

追記
●ちなみに、70年代西ドイツで起こった「反教育学」という流れは、フリースクール的な教育機関と親和性があるようです。

レストランの比喩。

 何を食べるかを決めるのはレストランの側が「食べてもらいたい」人だろうか。そうではない。何を食べるべきか決めるのは、あくまで客である。
 同様に、「学ぶ」内容を決めるのは学ぶ人である。学校に行っている/いないに関わらず、あくまで「学びたい」ことを学ぶべきだ。

 その昔、フリースクール関係者が『脱学校の社会』を読み合った時代があった(80年代ごろ)。その際「学び(教育)の主体は誰か?」という読み方をしていたそうだ。「学ぶ」内容を決めるのは国家ではなく、学びたい人ではないか、という読み方である。
 国家は教育主体ではない。主体性を持つべきはあくまで「知りたい人」「学びたい人」である。
 
 …こんな話をシューレ大学の朝倉さんに伺った。

ボウルズ/ギンタス著『アメリカ資本主義と学校教育2』(岩波現代選書、1987)

 上・下2巻に渡るこの本で、著者は何を明らかにしたかったのか。

経済の変革と教育の変革とが対応した過程を通じて起こるという、この歴史的な解釈にもとづくとき、教育制度とイデオロギーの主要な転換は必ず、生産構造、労働力の階級的構成、抑圧されている集団の性格の変移によって惹き起こされてきた。(182頁)

 教育社会学において、〈教育〉の使命は単純明快。「選別」と「社会化」である。社会が要請する人材を選び出し(「選別」)、とりあえず社会の構成員になってくれるよう育成する(「社会化」)のが〈教育〉なのだ。ここでいう社会の要請とは、要は経済界の意向なのである。この主張はボウルズとギンタスがネオ・マルキストであるために起こっているのだろう。マルクスは経済の規模やシステムの変化が、社会構造の変化を招いたと説明する。経済が政治体制・社会構造を決めるのであって、その逆でない。ゆえに〈教育〉も経済の構造から抜け出すことはできないのだ。
 教育を語るなら、経済を知らなければならない。

何故、わが国の青少年に対して権威主義的な学校という重荷を負わせようとするのであろうか。何故、若い人々が、その日々の大部分を無力感、人間の尊厳を犯すような独裁的な規律、絶えざる退屈感、行動の矯正という雰囲気のなかですごさなければならないのであろうか。何故、民主主義的な社会で、各人が最初に公的な機関と接触するのがこのような徹底的に反民主主義的なものにならざるを得ないのであろうか。
 最近多くの人々がこのような疑問を投げかけてきた。ここからフリースクールという新しい運動が起きてきたのである。(177~178頁)

 この部分の後、しばらくフリースクールの話が続く。近代教育批判者の一団として、「ジョージ・デニスン、ジェームズ・ハーンドン、ハーバート・コール、ジョナサン・コゾールの私的日記から、ジョン・ホールトのプラグマティックな主張、チャールズ・シルバーマンの本格的な社会的分析」(178頁)と名前を挙げている。非学校論者として、私もこれらの人々の本を学んでいくこととしよう。
 ボウルズとギンテスはフリースクール運動に必要なこととして、≪運動のなかに、学校が社会から独立したものであるという考えをはっきり否定し、学校をその社会的、経済的な文脈の中で具体的に位置づける分析的立場の展開がなされなければならない≫(179頁)。これは、本書において経済が教育を大きく変化させてきたことを述べていることと関係が深い。つまり、「よい教育をしよう」としても学校だけで教育を成り立たせることの不可能性を知らなければならない、ということである。『日本を滅ぼす教育論義』において著者が主張したのも、教育と経済との密着不可分性を認識することの重要性であった。

 この本は、結論的に社会主義革命によってしか社会変革を根本的に行えないことを主張する本である。ネオ・マルキストの本であることを認識しておかないと、誤読をしてしまう。

 気になる部分を抜き書きして、本稿を終えよう。

教育制度は人々を教育して、経済生活で地位を得て仕事をすることができるようにするわけであるが、教育制度自体の社会的関係は、事務所や工場の社会的関係に合うようにつくられている。したがって、学校教育の抑圧的な側面は決して非合理的ないしは邪道なものではなく、むしろ、経済的現実を、体系的、普遍的に反映したものとなっている。解放された教育ということだけでは職業的なミスフィットと職場ノイローゼの蔓延をもたらすことになる。それだけでは、教育の自由化には役立たない。抑圧の原因が学校制度の外部に存在しているからである。かりに、学校がより人間的な形態をとるべきであるとするならば、職場もまたより人間的なものでなければならない。(179~180頁)

基本的には、教育制度は、経済の分野から起こってくる不平等や抑圧の度合いをつよめたり、弱めたりすることはない、むしろ、教育制度は労働力の教育と階層化の過程においてすでに存在しているパターンを再生産し、正当化する。このことはどのようにして起こるのであろうか。このプロセスの核心は、教育的な体験の内容あるいは情報伝達の過程にあるのではなく、その形態、教育的体験の社会的関係にある。これは、経済の分野における支配、従属、動機づけの社会的関係に密接に対応している。各個人は教育的体験を通じて、成人して労働者となったときに直面する、無力感の度合いを受け入れるよう誘導される。(205~206頁)

追記
●本書はフリースクール運動の欠点の指摘(180頁など)をしている。またイリイチの『脱学校の社会』に対するコメントも本書には掲載されているので、修士論文を書く際には読み返すこととしよう。

ボウルズ/ギンタス著『アメリカ資本主義と学校教育1』(岩波現代選書、1986)

 教育制度を変革することを意図するならば、経済制度も考慮しなければならない。この本はこのことを主張する。アメリカで学校教育が成立した歴史を振り返り、常に経済的影響を教育が受けてきたことを説明するのだ。

要するに、われわれがここで展開するアメリカの教育制度にかんする分析は、教育改革の運動が挫折したのは、経済分野における所有と権力の基本的な構造を問題とすることを拒否したからであるということを示唆している。(…)教育制度が平等主義的、かつ人間解放的となるのは、社会生活のなかでの全面的な民主的参加を可能にし、経済的成果の平等な配分を受けることができるように若い人々を教育することができるときだけである。(…)このように考えれば、教育改革の戦略は、経済制度の革命的変革の一部をなしていることになる。(23〜24頁)

 以下、気になる点の抜き書き。

教育と資本主義経済との間に存在する決定的な関係を、どのようにすればもっともよく理解できるであろうか。まず始めに、学校が労働者をつくりだすという事実から出発しなければ、十分な説明にはならないであろう。(16頁)

経済制度の構造に対して疑問をもたないかぎり、現行の学校教育制度はきわめて合理的なものであると言えよう。したがって、制度改革は、一般の人々に対して論理的または道義的な論点を訴えるだけでは不十分である―オープン・クラスルームを首唱する人々の大半より一般の人々の方が、社会の現実をよく理解していると言ってよいであろう。(15頁)

 フリースクールに関する考察も多い本である。

頑張らなくても、認めてね。

 24時間テレビ、私は大嫌いだ。

 一番イヤなのは、「障害を持っているけれどそれに負けずに頑張っている子」のドラマである。それをみて、「ああ、私も頑張らないとな!」と思ってもらえるよう、お涙ちょうだい型ドラマになっている。
 あまりにもこういうドラマを見ると、「障害者って、頑張っているんだ」という認識になる。現実にいる障害者を目にしたとき、その人が「頑張っていない」なら「なんだよ、コイツ」と思ってしまう。
 障害者は頑張らないと認められないようである。そういうウラの意図が「障害を持っているけれどそれに負けずに頑張る」という認識に込められているのだ。
 個人は個人であるだけで、その存在を認められるべきである。頑張っていようが、頑張っていなかろうが、自分を受け止めてくれる居場所が必要だ。
 要は「頑張らなくても認められる空間」が必要なのである。アーレントの言う公共性の議論ともつながりが深い。
 フリースクールを「居場所」ということがあるが、それもある意味では「頑張らなくても認められる空間」ということなのである。

〈世界〉とは何か。

 その人にとって見える世界しか、〈世界〉ではない。進学校に通った人間の〈世界〉では、大学に行かない人はアブノーマルなのだ。けれど、中堅高校に通った人の〈世界〉において、大学は「半分くらいの人が行く所」という認識になる。

 私(=進学校に行った人)は勝手に、「いま大卒でも仕事が無くなってきており、大学院に行くことが要請されている」と軽々しく言ってしまう(大大学 傾向と対策)。しかしそれはあくまで「私」の見た〈世界〉であり、日本全体を見た話・地球全体を見た話ではない。
 知識人やマスメディアの人間は「大卒」ばかり。自然と大卒人間の見た〈世界〉観を維持する報道を行う。けれど〈世界〉はもっと本来豊かなものなのだ。アーレントの他者概念の中にも、そのようなものがあった。
 自分の見ている〈世界〉だけが世界ではない。そう考えていくと、異なる他者への理解がおよぶはずだ。自分の〈世界〉がいかに狭いかを知ることが必要だ。それ故にこそ、若者は旅に出るのだろう。自分の知らない〈世界〉と他者を通じて触れ合うことができるからだ。フリースクールに通う子どもたちも、不登校時代に海外放浪旅行や「四国のお遍路」を踏んだ経験を持っている人がしばしばいる(『ボクらの居場所はここにある!』)。それにより、不登校や学校を相対的に見れるようになる。「あ、なんだ不登校でも生きていけるんだ」と気づくのである。
 

佐藤公治『認知心理学からみた読みの世界』(北大路書房、1999)

 学びとは、個人的な営みなのだろうか? 私は最近、それを考えている。結論的には「個人的な営みだ」と考える。しかし、本書では「集団の営みだ」と主張されている。

 あとがきから見てみよう。 

本書では、学習者の主体的な理解活動や知識構成の過程に焦点をあてながら、同時に学習はまさに社会的な過程であるという社会的構成主義の立場から、個々人の理解や知識が、いかに対話と社会的相互作用のなかでその影響を受けながら形成されるかを明らかにしていくことがめざされた。いまなぜ、対話や協同的な学びなのかということは、本書のなかで述べたことなので繰り返さないが、学校教育のなかで学びがともすると個人の自立を強調して、自分の力だけで学びを完遂していくこと、そのための能力の育成といったことに目標がおかれがちであることに対して、学びというものは本来、個人の閉じた系ではなく、もっと他者との相互交流、相互の支え合いのなかで行われる開かれた系としてとらえ直していくことが必要なのである。(240頁)

 このことが、「本書で私が読者の皆さんに伝えたいメッセージであ」ると述べられている。
 確かに学びは集団の営みである点であることは否めない。しかし、近代社会において個人が所属する集団は年々変化する。ずっと同じ学校の同じメンバーで学びを進めるわけでないのだ。集団による学びは基本的には一期一会。教室の中でずっと続くようでも、数年したら全く違うメンツと関わるようになる。会社内でも部署移動はしょっちゅうだ。そのように、集団による学びは構成メンバーが常に変化する。
 とすれば、重要なのは「一人で学べる」力ではないか。特定の人がいるから学ぶ、というのでは常に学び続けることは出来ない。現代の社会においては、いつリストラされるか、いつ別の業種を行うことになるか、だれも予想できない。そんな時代では、必要な時に必要な能力を身につける/学ぶ力が必要不可欠だ。「一人で学べる」力がないと生活できなくなることもあるのだ。
 おまけに、「みなで学ぼう」とすると、無責任になってしまう。
  
 そのため、集団的学びの重要性は非常に良く分かるが、結局「一人で学べる」力を身につけないと後々困ることになるのは事実だろう。「一人で学べる」力がないと、イリイチのいう「制度」に依存した人間になってしまう。いまも、ユーキャンなどの通信教育が流行ってますよね? 本当はそんなサービスに頼らなくても、自分で学べるのが本当の人間のはずである。
 
 「一人で学べる」(「一人立つ」とも言えるか?)人びとが集まったとき、集団的学びがさらに発展するであろう。

学参の研究〜コンヴィヴィアリティのための道具を目指して〜

 脱学校論を、私はずっと研究してきたが、これはイリイチの「イイタイコト」ではなかった。あくまで、産業社会の「制度化」(価値の制度化)を批判するためのものであった。

 これでずっと研究するのもいいが、いささか飽きてきた。
 次のテーマとして、自主的・自律的学習を可能にするもの、要は「コンヴィヴィアリティのための道具」を研究していきたい。その例として、学習参考書をとりあげてみてはどうだろうか。
 研究初めとして、手元にある『現代 教育学事典』(労働旬報社、1988)を見てみよう。
参考書
予習・復習をふくめて学習を自主的に深めていくために副次的に用いられる、教科書以外の図書の総称。したがって、参考書は、本来、子どもの学習が主体的に行なわれるさいの手引書という性格をもつ。すでにこのような性格のものは、大正期の自由教育の展開のなかで用いられていた。しかし、参考書の利用が直ちに自主的な学習を意味するとはかぎらない場合もある。明治後期には上級学校進学のための参考書がすでに使われており、それ以降も国定教科書を学習するための安易な解説書が利用されていたのはその好例である。今日における受験参考書の氾濫も同様である。このような参考書とその利用は、暗記主義・教科書中心主義の傾向を招きやすい。むしろ、その弊を克服し自主的な学習を促す参考書とその利用が望まれる。同時に、学習における問題意識の喚起、学習のもつ面白さの体験の指導などを先行させたい。(久田敏彦)

池谷壽夫(いけがや・ひさお)『〈教育〉からの離脱』青木書店、2000

 この本を、私は大学の図書館で借りた。久々に、「購入したい!」と思う本と図書館で対面することができた。
 例によって、アンソロジー的に紹介したい。
 なお、池谷のいう〈教育〉とは、≪近現代に特有な教育のあり方を、それ以前のいわば共同体に埋め込まれて営まれていた教育と区別する意味で、〈教育〉という言葉で表現≫(9頁)するために、岩崎弘昭の『講座学校1 学校とは何か』(柏書房、1995)にならって持ってきた概念である。それにより、「人間が生きていくうえで不可欠な活動様式のひとつである教育一般」(同)と「近代に特有な教育のあり方」(同)とを区別できる。その上、≪〈教育〉を否定しそのオールタナティブを求めたとしても、それは教育一般を否定することにはならない≫(同)という良さがある。そこに続く≪近代的な〈教育〉は、人類が生き延びていく上で、資本主義的生産様式のもとで作り上げてきた活動様式とシステムのひとつの選択であり、そのあり方こそが今問われているのである≫(同)という指摘も興味深いものだ。

近代日本においては、公教育の成立と同時に、まずは家庭とそこでの教育が学校教育を補完・強化するものとして位置づけられる。次いで、家庭は国家社会の基礎をなすものとして積極的に位置づけられる。ここでは、家庭の親のいっさいの行動と文化が「卑猥か清浄か」という〈教育〉的規範に基づいて点検され、〈教育〉的なもの(「健全な」「清浄な」もの)となるように促されるばかりでなく、性別役割分業にもとづいた「スウィートホーム」の中で、積極的に子どもに「服従」「愛情」「責任」「公徳」などの徳を涵養することによって、家庭は「小国民」を教育する場とならなければならない、とされるのである。まさに近代社会にあっては、家族とそこでの教育は国家の戦略のうちに組み込まれているのである。(33頁)

「愛情」の名のもとで生徒を保護し指導しようとする〈教育〉のあり方を、「〈教育〉的パターナリズム」と呼ぶことにしよう。このパターナリズムのもとでは、教師は生徒のことを思って一生懸命努力し生徒を一定の方向に導こうとするが、その〈教育〉的な世話に対して、生徒は反逆することもできない。教師のこうした世話を受ける代わりに、「受身の黙認」(R.セネット『権威への反逆』)を余儀なくされるからである。「先生が一生懸命僕のことを思ってやってくれるのだから、その期待に応えなくては」というふうに考えてしまうのである。(49頁)

近代社会は、タテ・ヨコ・ナナメといった多様な人間関係を破壊し、人間関係を「親―子」関係と「教師―生徒」関係というきわめて単純な人間関係、しかもタテの垂直的な関係に還元してきた。しかもそこでは、他者に依存せず「自立」することが目標とされている。(…)つまり、子どもは教師の言うとおりに行動するように強制されながら、たえず「自立」的であることが自分のライフスタイルや自己価値を規定するものとしえ求められる、という矛盾した生を生きることに案る。文部省の言う「自ら主体的に判断し行動するために必要な資質や能力の育成を重視する教育」、すなわち「新しい学力観」は、まさにこうした矛盾した心性を生徒に引き起こすことになる。(57~58頁)

(石田注 母親と娘の会話を池谷は紹介する。娘の「汚い」言葉を母親が「そんな言葉はいい子は言わないわよ」と言って注意する。それにより、娘の「いい子」の部分は≪今後はうそをつかないで母親を裏切らないようにしようとする。しかし、もうひとりの自分はこう考える。「お母さんがわたしが悪いと言うのはあたっている。お母さんが好意的に考えてくれても、わたしは悪いことをしちゃうし、お母さんがだまそうとさえしちゃう。わたしはそんなにいい子じゃないもの」と。こうして、この子はしだいに「悪い子」を実現してしまう≫(70頁)に続けての引用。
〈教育〉的関係のもとでは、親や教師が今ある子どもを価値評価したり断定したりして、ある特定の「よりよい」方向へと変えようと望めば望むほど、子どもは逆にその価値評価や断定を実現しようとしてしまう。結局のところ、〈教育〉はその当初の目的さえも遂げることができない。(70頁)

世俗での子どもの「成功」を求めれば求めるほど、大人たち自身と現実世界が汚れていく。だからかえって逆に、世俗にまみれない純粋さや「無垢さ」が、汚れた自己を清めてくれるものとして、あるいはそうした自己から解放させてくれるものとして、大人の側から子どもに求められもすることになる。
 このように見てくると、「無垢なる」子ども像は、大人の〈教育〉的願望とその目標であると同時に、大人の側の強制的な〈教育〉行為をいわば「免罪」し浄化してもくれる、そうしたものとして要請され求められた、と言うことができよう。(95頁)

→灰谷健次郎的「子ども尊重」思想には、この池谷の指摘が当たっているような気がしてならない。

親の愛情は〈教育〉目的達成の手段であり、子どもは〈教育〉操作のたんなる客体であり、大人も〈教育〉のためにすべてを犠牲にしなければならないという点では、〈教育〉の奴隷にほかならない。しかもこの中で子どもは、親に呪縛され、そこから逃れることもできなくなる。(123頁)

80年代にかつてない高度情報・消費社会が到来し、子どもの世界を襲ったことである。今や子どもたちは、一方では、資本(大人たち自身)によって仕掛けられたこのサブカルチャーの世界に入り込むことによって、大人世代から自らを隔離しつつ(隠れつつ)、消費・情報を通じて同世代としての自己確認をしている。しかし同時に他方では、学校や社会では市民的権利への通路は保障されていないとしても、いわば「消費・情報的な市民」としては、大人との境界を越えて大人世界へと参入してもいる。(181頁)

→ポストマンは「子どもはもういない」を書き、「子ども期の消滅」の理由をテレビの普及に求めた。池谷は「消費・情報的な市民」という概念で「子ども期の消滅」を描いているようである。

子どもが大人と共同する場所があれば、意図的な〈教育〉がなくても、何らかの学習がそこでは行われるということである。すなわち、意図的な〈教育〉がなくても学習は存在するし、学習は〈教育〉から相対的に自律したものとしてある、ということである。たとえば、ヘアー・インディアンの社会のように、子どもの自発的な学習があっても、大人の側に〈教育〉的な営みがない社会もある。ここでは子どもたちは大人がしているのを見よう見真似で学んでいるのである。(195頁)

 この本の後半部は「性教育」を人々がどのようにとらえてきたかの時代史が語られる。
 昨年の8月にフリースクール全国ネットワーク主催の「子ども交流合宿 ぱおぱお」が早稲田大学早稲田キャンパスを舞台に行われた。オープニングのセレモニーの際、あるフリースクールの代表として壇上であいさつした子のセリフが印象的だった。
 「ここでは、普通に下ネタが話せるから、いい」
 学校において、下ネタはタブーである。それが自然に・普通に話せる環境であるということは、池谷が終章でも書いているように、フリースクールが子どもにとっての「居場所」であるからだろう。