大大学 その傾向と対策

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吉本隆明は山本哲士との対談の中で「大大学」を話す。学歴社会の進行が、「大学」ではなくその上の「大大学」を要求するようになる、と。いま、大学院生の数は10年前の2倍。「大学院大学」と「専門職大学院」も普及した。吉本の「大大学」が大学院の形で広まってきている。もはや人は大学に行くだけでは差がつかなくなり、「大大学」である「大学院」にいくことが普及するであろう。学歴社会は「大学全入時代」で幕を閉ざすわけでない。今以上に進行するであろうと思う。このことが本当に「輝かしい」ことか、教育学者は考えなければならない。






 この引用はTwitterの中で、私がIshidaHajime名義で書いた文章だ。吉本隆明と山本哲士の対談『教育 学校 思想』(日本エディタースクール出版、1983)から、元の文章を見てみよう。

(石田注 吉本の発言)一般的に学問とか知識とか芸術とかいわれているものが、もう少し時代が進んで大きな観念の空間を占めるようになるとするでしょう。そうしたら、いまは小学校から大学まであって、中学まで義務教育になっていますが、やがて大学まで行ってもまだ間に合わない。そこで、大大学というものまでできるという発想になりますか。(91〜92頁)

 私の記憶違いで、どうやら必要とされる知識が増大するために「大大学」が要請されるようになる、という文脈であった。学歴社会が進行すると本来学歴が必要なかった職種に高学歴をもった人物が入って来、パイを奪い合うようになる(R・P・ドーアの『学歴社会 新しい文明病』冒頭には「学士タクシー」の話があった。これはもともと高卒程度の学歴があれば良かったタクシー運転手に、大卒の人間が入ってくるようになる、という話である)。いま、「大卒」で仕事にあぶれる人が多くいる時代である。この本が出てから27年が経ち、当時より遥かに多くの大学と大学院が作られた。吉本が危惧する「大大学」化は次第に現実化しつつあるように思える。
 そうなった場合、人間がさらに幼稚化すると吉本と山本は続ける。中卒で働くのが普通だった時代と、高卒で就職が普通であった時代、大卒就職が普通となる時代とでは、同年齢の人間でも「幼稚さ」が高まってくる。もっとさかのぼると、「学校」がなかった遥か昔、子どもたちは「小さな大人」として遇されていたことを考えれば、「学校」が人類の幼稚化をもたらしているように思える。
『対話 教育を超えて』の中で、イリイチは言う。

ぼくは、教育なんてものは、西洋の中身のないからっぽの機構、つまりもっとも異端的な教会でしかないと思っている。ぼくが子供について話すのを避けてきたのは、全世界の民衆が幼児化されるという危険がつきまとっているからなんだ。今この瞬間にも、あらゆる政府や国際組織、さらには教会でさえ、教育的な治療を広めようという政策でのぞんでいるわけだ。ぼくが、ここにやって来たのは、ただ、子供時代を社会的に拡張することに対して警告を発し、それに反対の態度を示そうと思ったからなんだ。(122頁)

 さきほど私は「幼稚化」をあげたが、イリイチも「幼児化」ということで説明をする。学校が人間を成熟させるのではなく、逆に「幼稚化」(「幼児化」)させるのであれば、そんな学校にいかほどの意味があるのか。

追記
●「過剰教育」という言葉がある。竹内洋らの『教育社会学』では次のように説明されている。「労働者の教育水準が職業の資格要件を上回っている状態。たとえば、雇用市場の不況から大卒者が専門的な仕事につけずに不熟練職に回る場合など」(252頁)。いま大卒の価値は急激に低下している。過剰教育の結果として、「大大学」が普及する可能性は十分にあるのだ。

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