教育論

内発的意志と外発的意志

 子どもに自由を認めるとは、失敗する自由も含めての発想である。

 たとえ失敗してその人のためにならなかったとしても、「外発的に与えられたものに人は納得しない」ということを肝に銘じなければならない。内発的な意志による決断でないと、「あのとき、自分の本当に行きたかった道を選べば良かった」と後悔することになる。
 進路選択。四大に行ける「学力」を備えた高校生が「職人になりたいから大学に行かずに就職する」ということを言い出しても、「いや大学は行っといたほうがいいよ」と教員は邪魔をする。親からも「社会」からもそういわれ、結果「やっぱそういうものかな」と大学受験をしてしまう。
 やがて大卒でサラリーマンになった彼は、満員電車に揺られ、外の景色を見つめている。或るとき線路沿いに見える個人経営の店を見つける。そこで働く職人たち。「俺も、あの道を選んでいても良かったんじゃないかな」とふと思う。その時、10数年の時を経てあの進路指導室での一コマが頭によぎるのである。
 無論、自分で道を選んだ結果、失敗することもある。けれど自分で選んだことであるならそれなりに納得できるはずだ。外発的な動機で道を選択した場合、ルサンチマンだけが高まっていく。
 
追記1
 これに近い状況は、大学院に行くか行かないかの選択時にもある。
「君くらいの学生なら、院で研究をしたほうがいいんじゃないか」
 仮にそういわれても、いい内定先を得ているなら学生は迷わずに企業に向かう。
 大学院に行くかどうかの選択時と同じ状況が、高校の進路指導の際に起きれば面白いのだが。
追記2
 この話にはさらに反論が可能である。
 twitterに流れていたが、2ちゃんねる管理人のひろゆき氏が「若者の起業は失敗しやすい」という旨で文章を書いていた。それへの反応として「いや、これはひろゆき氏のフリであって、《こんな文章を読んで起業を諦めるのなら、起業してもまずうまくいかない》というメッセージを伝えているだけなのだ」、というものがあった。本文中の進路指導室の話はまさにそれである。「この道はやめとけよ」と言われても、《にもかかわらず》自分で道を選ぶという姿勢が重要なのだ、と言うことも可能である。

奥地圭子『学校は必要か』NHK出版、1992

 東京シューレが出来て7年目に出た本。その時点での奥地の著書に『女先生のシンフォニー』(これは教員時代の1982)、『登校拒否は病気じゃない』・『東京シューレ物語』・『さよなら学校信仰』・『お母さんの教育相談』・『登校拒否なんでも相談室』があり、手記収録に『学校に行かないで生きる』・『学校に行かない子どもたち』がある。シューレ発足からわずかの間にかなりの関連書が出されていることがよく分かる。当時、東京シューレという存在は非常にもてはやされた。現在はあちこちに「フリースクール」が出来たため、東京シューレそれ自体への注目度は人々の間で下がったのではないか。
 「不登校」と言わずに「登校拒否」と言っている所に時代を感じる(奥地が後に書いた本は『不登校という生き方』である)。
 本書は「学校離れを起こしている子どもたちを『直そう』とするのではなく、子どもが背を向けていく学校を問い直すことの方が必要である」(222頁)との発想から《「どんな学校なら必要か』を考えてほしいという問題提起》を起こす、という目的のもとで書かれている(あくまで目的の一つであるが)。学校へ行くことで個性が失われたり、子どもが無気力になったり、(いじめなどで)傷ついたりしてしまう。それでも大人(親・教師・一般人)は「それでも学校へ行け」と子どもを責める。重要なのは学校のあり方を考えることであるにもかかわらず、子どもをムリに学校に適合させようとする。これはベッドに合わせて人を引っ張って伸ばしたり、足を切断したりするというプロクルステスのベッドと同じである。
 印象深い点を引用。

東京シューレをやるようになって、はっきりと見えてきたことだが、教師時代の研究授業や研修の方向は、四十人なら四十人の子ども全員を、一斉に、四十五分間いかにこっちを向かせるかの技術訓練だったのだと思う。(73頁)

子どもは何らかの強制力がないと勉強しないものだ、学ぶはずがない、だから子どものやる気を待っていてはダメで、大人が何かやらせないと、楽なほう(やらないほう)に流れるに決まっている、それでは生きていけるようにならない、と思っている大人は実に多い。「でもそれは違う」という私の考えはまちがっていなかった、と東京シューレ七年の実践で思えるのはうれしいことだ。(89頁)

 奥地が指摘する点、結構多くの人が話す内容である。子どもに自由を与えるのは危険だ、などなど。これ、子どもを不信の目で見る立場である。ニイルほど信用するのも危うい気がするが、それでも現在の日本では子ども(さらに言うなら若者)への根強い不信感が漂っているようである。だから子どもを縛るためにココセコムやら改札を通るたびの「お知らせメール」やらの技術開発が要求されるのだろう。まさに「学校身体の管理技術」が発達し、子どもがどんどん不自由になっているのだ。
 私たちはもっと子ども(や若者)を信頼してもいいのではないだろうか。そう思う。

野村幸正『「教えない」教育』二瓶社、2003年

 本書のサブタイトルは「徒弟教育から学びのあり方を考える」。心理学者の立場と、仏師に弟子入りしている立場両面から「徒弟教育」という「教えない」教育のもつ意義についてを語る。暗黙知・正統的周辺参加などのキーワードを元に説明をする本である。

いま、教育に人の働きが発揮されると、単に教える者から教わる者へと教授すべき内容の情報が移動するだけではない。その情報を取り巻く世界が共有され、それを学ぶ意味あるいは喜びといったものが、教える者と教わる者とが一体化したかかわりのなかで共有されていく。そして、それがそれぞれに分化し対象化されてゆくなかで、情報が情報として伝達されてゆくことになる。それはもはや情報の伝達云々以上のものであり、情報の創造と言ってもよいほどのものであろう。そして、この人の働きをもっとも強調した教育が、すでに言及した徒弟教育である。さらには正統的周辺参加である。(105〜106頁)

 ここにあげた「あえて、教えない教育」を実践するのはいささか難しい。けれどその中に日本の教育(公教育も私教育も入る)の改善点があるのではないか。ちょうど原ひろ子『子どもの文化社会学』にあった「教えられることに忙しい」子どもが日本に多く存在しているのだ。

教師としての職業を遂行してゆくこともまた難しい。ましてや教えることを仕事とする教師が「教えない」とまで言い切ることは、余程の力量と自信があってはじめてできることであろう。そして時には、この教えないことが教えることよりもはるかに重要な意義をもつこともある。過剰教育が問題となるのは、単に知識を与え過ぎる云々を超えて、せっかく子どもが直面した生の体験を自らの言葉で表現してゆく機会をも奪ってしまうからである。教えられるがゆえに、子どもたちは自らの言葉で考えぬくことを放棄してゆくこともあるに違いない。それを放棄した子どもがその後どういう道を辿るかは言うまでもない。(130〜131頁)

 著者の野村は「教えない」教育である徒弟教育に最大限の評価をする。けれど、広田照幸も言っているが、徒弟教育は「あわない」個体(子ども)を排斥するなかに成立した制度であることについてを忘れてはならない。仕事に不適応な子どもが自主的/他律的にいなくなっていくからこそ、効率的ではないが「技」の習得/仕事による自己形成という教育作用が徒弟制度にあったのだろう。
 それゆえ、現在の公教育のように《分からなくても、とりあえず教員が語り続けるのをじっと聞く》ことの意義も、不適応な子どもの排斥が無い分、一定程度評価しなければならないだろう。

大学生がアルバイトをするのは何のためか?

 最近、新聞で「いま大学生に貧困が増えている。仕送りも3割減っている」「だから、アルバイトをする学生が増えている」、との報道を目にする。前段は「まあ、そうだな」と私は思うが、後段の記述には「本当か?」と思ってしまう。

 確かに大学生に貧困が増えているのは事実だろう。けれど学生がアルバイトをするのは決して貧困だけが理由ではない。社会勉強のためであったり、人間関係構築のためであったりするのだ。
 それを知るために、私は主にTwitter利用者を対象にアルバイトに関する意識調査を行った(設問は文末参照)。回答数は30(2010年3月28日23:30現在)。インターネット上で行った点と、母数が少ない関係で優位差が得られているかには問題があるが、大まかな傾向をつかむことはできるだろう。
 回答者は大学生が21名、院生が3名、社会人が5名であった。合計29名のうち、アルバイトをしたことがあると答えたのは29名全員であった。
 アルバイトを行った動機の各項目を見てみよう。なおこの項目は複数回答可能であった。
「生活費や学費を稼ぐため」18
「趣味にお金を使うため」20
「アルバイトで自己実現をするため。社会勉強のため」8
「ただ何となく。暇だから」6
「その他」6
 回答者に貧困層が少ないのかどうかは不明であるが、「生活費/学費」よりも「趣味にお金を使うため」の回答数の方が多い点が興味深い。「自己実現/社会勉強」8という点も面白いが、「何となく/暇だから」の回答が6もある点も印象的だ。
 次に「その他」の中身を見ていく。
①周りがしてたので
②他大学の知り合いが増える
③親から自立するため。
④人間関係構築のため。
⑤所属している学生団体の活動に使うため。最も多額だったのは、台湾へのスタディツアー。
⑥友達、恋人作りのため。
⑦まわりが「アルバイトしてる?」と聞いてくるので、「自分もアルバイトしないとな…」と強迫観念にかられたため。 
※「その他」を選ばずに本項目を記述した人もいるので、記述は7つになる。
 幅広い人間関係をつくるため(①②④⑥)という回答と、特定の目的実現のために費用を稼ぐため(③⑤)という回答が目立つ。⑦の「強迫観念」というのは、設問3の「何となく/暇だから」に通じるものがある。
 本調査から言えることとして、新聞報道にあるような「大学生がアルバイトをするのは貧困が増えているから」とは言い切れない、ということである。その点がより鮮明になったということが上げられるであろう。
 
 反省点としては設問2に「社会人の方は大学生/院生時代のことを思い起こして回答ください」と書き忘れた点と設問3に「複数回答可能」と書くことを失念していた点が上げられる。また母数自体も少なく、設問3の各項目もベストと言える項目のカテゴリ分けではなかった。
●参考 アンケート項目一覧
 アンケートはアンケートフォームクリエイターhttps://enquete.web-pr.net/index.htmlにて作成。

質問1 あなたは学生ですか?
回答 大学生です。
(21)
大学院生です。
(3)
社会人です。
(5)
高校生です。
(0)
質問2 あなたはアルバイトをしたことがありますか。
回答 はい
(29)
いいえ
(0)
質問3 「はい」と答えた方に質問します。アルバイトを行った動機はなんですか?
回答 生活費や学費を稼ぐため。
(18)
趣味にお金を使うため。
(20)
アルバイトで自己実現をするため。社会勉強のため。
(8)
ただ何となく。暇だから。
(6)
その他。
(6)
質問4 「その他」と答えた人にお聞きします。あなたがアルバイトを行った動機は何ですか?

 

原ひろ子『子どもの文化社会学』(晶文社、1979)

 我々は教育というものはあらゆる人間社会に普遍的に存在するものである、と考えている。本書はヘヤー・インディアン社会をもとにして、人々の思い込みを打ち砕いてくれる。

 ヘヤー・インディアンの話すヘヤー語には「だれだれから習う」「だれだれから教えてもらう」という表現が存在しない。

ヘヤー・インディアンの文化には、「教えてあげる」、「教えてもらう」、「だれだれから習う」、「だれだれから教わる」というような概念の体系がなく、各個人の主観からすれば「自分で観察し、やってみて、自分で修正する」ことによって「○○をおぼえる」のです。(180頁)

 彼らの世界には「教えてもらう」ということはなく、「自分で学ぶ」ことしか存在しないのだ。狩猟の仕方も皮のなめし方もカヌーの作り方も、大人がするのを見て自分で試行錯誤して学ぶ。自律的・自発的・能動的な学びが実現しているのだ。
 現在の日本社会では、この自発的な学びが無くなり、「他律的・強制的・受動的にさせられる行為に転化していく状態」(イリイチ『脱学校の社会』)となっている。言葉をかえれば、「学習のほとんどが教えられたことの結果だ」(『脱学校の社会』32頁)と勘違いをしてしまっている。教えられない限り学ぼうとせず、逆に「自分で学ぶのは危険だ」というメンタリティーになってしまう(通信教育が溢れているのは「自分で学ぶのは危険だ」との思想の表れであろう)。この日本の状況を原は次のように説明する。

現代の日本を見るとき、「教えよう・教えられよう」という意識的行動が氾濫しすぎていて、成長する子どもや、私たち大人の「学ぼう」とする態度までが抑えつけられている傾向があるのではないかしらという疑いを持つようになりました。(175頁)

 まさにイリイチが批判した「学校化」が日本で起きているのだ。原は日本社会をみて《子どもも、青年も、「教えられる」ことに忙しすぎるのではないかと思うようになりました》(201頁)とも書いている。本来、「教える」のは一人で生きていける/一人で学んでいけるようにするために行う行為であった。けれど、「学校化」され「制度化」された日本社会では皆が「教えられる」ことに忙しすぎるようになってしまっているのだ。だからヘヤー・インディアンのように「学ぶ」ことを重視した生き方が必要ではないか、と原は提案している。
 最後に、私にとって興味深かった点を紹介しよう。

「教える」、「教えられる」という概念がない、ひいては「師弟関係」などが成立しないという、このヘヤー文化の基礎には、「人間が人間に対して、指示・命令できるものではない」という大前提が横たわっているのです。ここどえは、親といえども子に対して指示したり命令したりすることはできない、と考えられているのです。人間に対して指示を与えることのできる者は、守護霊だけなのです。(187頁)

漫画『ONE PIECE』は何故これほどまで支持されるのか。

 橋本努『自由に生きるとはどういうことか』(ちくま新書)。そこには「1960年代後半の自由論」として漫画『あしたのジョー』が取り上げられていた。「矛盾を引き受けて『燃え尽きる』ことに『自由』を見い出し」、「真っ白な灰になる」(101頁)ことの美学が、その当時の「自由論」であるとまとめられている。

 社会学では流行している文化から、その社会の特徴を見いだす手法をとることがある。1960年代後半が『あしたのジョー』という漫画に象徴された歴史であったならば、いまを象徴するものは何か? 
 私は『ONE PIECE』であると思う。
 『あしたのジョー』は一匹狼・矢吹ジョーの物語である。それに対し『ONE PIECE』のルフィは、シャンクスや海賊への「あこがれ」を持ち、仲間を集めながら冒険をする。友情がテーマとなり、友人のために熱く戦う物語が展開される。
 一人自分と向き合うジョーに対し、『ONE PIECE』の中では友達を大事にする・協力をするということの重要性が描かれている。この協力や友情をテーマとする漫画が多くの人々に支持されるのは、時代が要求する価値観を描いているためではないだろうか。
 
 「リストラ」が騒がれはじめた90年代後半に連載がはじまった『ONE PIECE』。勝間和代的「インディな生き方」がもてはやされる現在でも人気がある。私のサークルやボランティア先では、来週の『ONE PIECE』がどうなるかを心待ちにする人々が一定数存在している。まさに『あしたのジョー』と同じ展開の仕方だ。ジョーの戦いに、多くの日本人が狂喜乱舞をしていた。ジョーの姿に、自分の姿を見た。いま、『ONE PIECE』のルフィ達に共鳴をする人々が多いということは、ジョーと同じくルフィ達に自分の姿を見ているのだろう。
 核家族やセパレート化・孤独など、いまの社会は人々がバラバラになっている。『ONE PIECE』がもてはやされるのは、そんな孤立化する人々が再びルフィ達のような熱いつながりや助け合いを希求している証拠なのではないだろうか。

子どもにとって「夕暮れ」とは何か?

 『学校の現象学のために』には「行き暮れる実在」としての子どもが描かれる。

 映画『家族ゲーム』において一家の弟はノートに「夕暮れ」という文字ばかりを何時間も描き続ける。
 「たま」というアーティスト(たち)は『夕暮れ時のさびしさに』を歌う。少年時代の思いも込めて。
 この三つは「夕暮れ」ということをテーマに共通点を持っている。そしてこの共通点は3つの作品にかぎらず、少年一般に言えるのではないか。つまり、少年は(そして少女は)「夕暮れ」を志向するものではないだろうか。昼と夜の間という不安定な時間。不安定ゆえに心惹かれるものがある。もっと遊びたいのに、「もう5時だ、家に帰らないと」という思いにかられる。「夕暮れ」には少年にしか感じられない特異な思いが存在するのだろう。
 『夕暮れ時のさびしさに』のように、夕暮れは不安で、寂しい時間。子どもから「夕暮れ時のさびしさ」を奪うのが塾や制度的習い事や少年野球(あるいはサッカークラブ)である。子どもだった私は夕暮れ時には自分をさらいにくるモンスターがいるように思えていた。
 子どもにとって不安な時間帯である「夕暮れ」どきを、大人が奪っているのではないだろうか。「たま」が『夕暮れ時のさびしさに』を歌うのも、『家族ゲーム』の少年が「夕暮れ」でノートをいっぱいにするのも、奪われた「夕暮れ」への郷愁があるからではないか。
 『家族ゲーム』の松田優作演じる家庭教師は少年の「夕暮れ」のノートを見て、少年を殴る。「夕暮れ」を志向する少年は否定され、現実に立ち返るのだ。これが一般的ならば、奪われた「夕暮れ」を誰が少年に与えてくれるのだろうか。
 

少年のび太が「ドラえもん」にサヨナラする日

子どもは無根拠に「自己全能感」をもっている。その象徴がドラえもんだ。「自分は何でもできる」、それは「あんなこといいな/できたらいいな」の世界である。子どものような「自己全能感」を捨て(あきらめ)る、つまり「自分は何でも出来る」という思いを失うことが「大人になる」ことではないか。

 

 少年のび太が成長するには、全能感を捨てることが必要だ。そして「にもかかわらず」に生きれるようになったとき、のび太は大人になることができる。
 マンガ『ドラえもん』は、ドラえもん(という「自己全能感」を与える存在)を不要にするプロセスを描いたマンガなのだ。
 内田樹もいうように、「自らの存在を不要にする」行為を続ける人は美しく見える。ドラえもんが少年のび太の成育史において一時の輝きをもつのは、ドラえもんという「全能感」を与える存在がやがてなくなることを、子どもたちが薄々感じているからだろう。
 我々はドラえもんのいない日々を生きざるをえないのだ。自己の万能感を捨て、社会システムの構成員として日々を過ごす。
 宮台真司が言っていたが、キリスト教における「隣人愛」の本当の意味は、〈親を捨て、友も捨て、隣人を捨てて、それでも「他者」を愛する〉潔い魂の姿勢のことである。



 少年のび太が成長するには,やがてジャイアンやスネ夫のいる地域の少年コミュニティや「兄弟」や「全能感」(「兄弟」と「全能感」はドラえもんのもつロールモデルである)を捨てなければならないのだ。
 石原千秋も言っているが、大人になるとは誰かを/何かを精神的意味で殺すことであるのだ。これを無事に行い、大人になったのび太はドラえもんや地域コミュニティでの懐かしき日々を「あんなことも、こんなこともあったな」としみじみ回想することができるのだ。輝かしい日々は一瞬の命を持つ。ドラえもんとの日々に、「止まれ時間よ、お前はあまりに美しい」と叫んだファウストこと少年のび太は、我に返り、いつもと同じ会社勤めを行う。子どものノビスケにドラえもんとの思い出を語るのが趣味となっているのである。

 「あんなこといいな/できたらいいな」。その夢にあきらめを感じる時、そのときこそ我々がドラえもんを卒業する時である。

 ドラえもんの存在は、自らを不要にするためにある。けれどそれをしたくないため、ドラえもんはのび太を甘やかす。「しょうがないなあ」と言いつつ。あるいは無意識に。ドラえもんは矛盾した存在なのである。それはしかし、教育の不可能生の比喩でもある。
 学校の目的は、子どもが一人で学んでいけるようにする、つまり「社会化」のためにある。けれど「学校化」した学校は、本来個人的営みであった「学び」を、他者に依存させるものに変えてしまう。ドラえもんは自らを必要としてくれる年数が長ければ長いほど、長くのび太と過ごすことができる。
 『ドラえもん』の中で時間が動かないのは、ドラえもんが密かに「無限の日々」を過ごさせる道具を使っているためではないか。それこそ、「終わりなき日常」を永遠のものとするために。映画『うる星やつら ビューティフルドリーマー』も、荒廃した社会でそれなりに楽しく過ごすこと、つまり「終わりなき日常」をヒロイン・ラムが願ったことで成立した物語である。
 けれど我々はそれこそどこかで目を覚まし、「ドラえもんは不要だ」と高らかに宣言する日が必要だ。ドラえもんと違い、人間は「時間」というストックを食って生きている生物だからだ。
 少年のび太がドラえもんに「サヨナラ」する日。それは止まっていた時間が動きだし、のび太が急速に成長し(子どもは段階的にでなく、「一気に」成長するものなのだ)、ドラえもんは寂しさを感じるが少し微笑み、涙を流しつつタイムマシンに飛び乗るのである。のび太が「サヨナラ」を告げるまで、『ドラえもん』は終らない。仮にドラえもんに最終回があるのなら、それはのび太が自分の成長のためにドラえもんに「サヨナラ」を告げる場となるはずだ。
 あらゆる創造は、「別れ」からはじまる。




追記
 ドラえもん研究者の間では、ドラえもん―のび太の「契約関係」は2度結び直されている、という通説がとられる。一度目はセワシが〈できの悪いご先祖を改善するため〉にドラえもんをのび太の元につれてきたとき(コミックス1巻「未来の国からはるばると」)に契約される。それはのび太の合意に関係なく、未来の子孫が一方的にドラえもんと言う世話人をのび太に引きつけるという契約であった。
 2度目の契約。それは6巻「ドラえもん、帰る?」において未来に戻ってしまったドラえもん(「どうしても未来に帰らないと行けないんだ」とドラえもんは語る。セワシに何かあったのだろうか)の次の話が舞台である。7巻「帰ってきたドラえもん」において契約が結ばれる。それは「ウソ800」というウソが本当になると言う道具を使い、のび太は「ドラえもんは、もう戻ってこないのだ」という「ウソ」をつぶやく。それにより、ドラえもんは戻ってくるということになるのだ。このとき、ドラえもんーのび太の関係にセワシは介在していない。そのため、「帰ってきたドラえもん」以後のドラえもんはのび太の「兄弟」「友達」として描かれる。それ以前は「世話人」というドラえもん像なのだ(一部例外の箇所もある)。
 よくいわれる点だが、大長編ドラえもん(要は映画のことです)はドラえもんの「全能」を否定する所からはじまる。役立つ道具がなかったり(『大魔境』)、ポケットが無くなったり(『夢幻三剣士』)、ドラえもんが壊れたり(『雲の王国』)様々なことが起こる。ドラえもんの映画を始めるには、全能の神であるドラえもんをどこかで否定しなければならないのだ。
 これはのび太の人生においても同様である。のび太の物語は、『ドラえもん』では無時間モデルで描かれる。のび太はいつまでも小学校4年生のまま(アニメでは5年生のまま)いつまでも成長しない。この物語を再び動かすには、大長編を始めるのと同じプロセスが必要だ。それはドラえもんの「否定」である。
こちらもどうぞ!

まず自分が楽しもう、元気になろう。

 村上龍の書いた『「教育の崩壊」という嘘』(NHK出版、2001年)を読んでいる。
 そこに心理カウンセラーの三沢直子との対談が掲載されている(厳密には妙木浩之もいるため鼎談である)。次に引用するのは三沢の発言だ。

子供が生まれると必死になって自己犠牲的にやらなければいけないんじゃないかという気持ちにとらわれてしまうのです。(…)「目から鱗」だと思ったのは、いくら献身的に親がやっても、それで鬱々としていたり、つまらなそうな顔をしていたりするのを見せるのは決して子供にとっていいことではない、ということです。自分の人生をもっていて、人生は生きる価値があるんだ、楽しいんだというモデルを示すことこそ大事なんだと言われて、そうなんだよなと、もう一度思い直したんです。(153~154頁)

 そのために三沢は「2年ぶりに映画に行き、3年ぶりにコンサートに行き、7年ぶりに海外旅行」に行く。1週間のニューヨーク旅行から帰ってきたとき、子どもは「お母さんはお姉さんのようになって帰ってきた」と言った。生き生きとして、楽しそうな姿から子どもはこのような発言をしたのであろう。旅行で母が不在の間は寂しくても、「お母さんが生き生きとしてくれるならば行ったほうがいい」と子どもが語ってもくれたそうだ。
 
 この部分からは子育てだけではなく、人生の智慧についても読み取ることが出来る。自分が楽しんでいないと、まわりも楽しくなくなる。たとえばレストランのウェイターがすごく不機嫌に働いていると食事も不味くなるが、すごく楽しそうに働いているとき味も良くなるように思える(マクドナルドのハンバーガーがいくら不味くても食べられるのは、店員さんが笑顔だからだろう)。

 自分自身が楽しく生きていないと、子どもを育てたり、人を励ましたりすることができない。
 「つらいけど、頑張ろう」というのは禁句にして、まず帰り映画館に行って「自分が楽しむ・元気になる」ことを優先すべきではなかろうか。

これからの時代に必要な知識について。

 昨日、友人たちと読書会。自発的な「学びの共同体」の実践は面白い(逆に言えば、制度的な「学びの共同体」は時に地獄となる)。広田照幸の『教育』をもとに話し合った。

 そのなかに、広田は個人化とグローバル化の教育界の「一つの代案」として、次のように語っている。

第三に、分配に軸足を移した経済システムという前提のもとでは、知識重視型の教育が必要なのではないかということである。(93頁)

 このあと暫く説明が続くが、どのような「知識」を重視すべきなのかという言及はないままだった。この部分を読書会では話し合ったのだが、本稿では私の考えを述べよう。
 これからの時代に必要な知識。それは3R’s(読み書き計算)と「学び方を知る」ことだと思う。前に「これからの時代における大学受験の意義」という一文を書いたが、まさに「学び方を知る」ことが必要なのだ。
 時代はどんどん変わる。一之瀬学『誰も教えてくれない[学習塾]の始め方・儲け方』には、自分の指導法に絶大な自信を持つあまり、自分のやり方が時代に合わなくなってもそれに拘泥し、結果どんどん塾が廃れていくという個人塾経営者の話が出てくる。かつて栄光を放った「自分のやり方」に固執する限り、食えない時代になったのだ。「万物は流転する」。ゆえに自分を変革させ続けねばならない。
 変革には何が必要か? それが「学び」である。例えば塾経営者ならばどんな教材を用いえるべきか。どのようなやり方で授業をするか。それらは経営者自身が学ぶことで可能となる(コンサルタントに頼りすぎるのはある意味での「学校化」。自分で何もしなくなり、結局はコンサルタントのサービスを受けることしかできなくなる)。ネットでは情報がある触れている。それらをどう活用して知識を得、生かしていけるか。それらもすべて「学び方を知」っていることによって決まるのである。
 必要なのは学びを実現させる学びの方法論を習得することである。
 注意すべきは、「学び」は強制的に行わせるものではないということだ。イヤな人は別に無理して学ばなくてもいい。けれど、「学ばない」人間が生きにくい世の中になっているため、少なくとも「学び方を知る」ことだけは皆が習得していなければ、路頭に迷う人々が出てくる。
 ボボスという生き方について、橋本努の『自由に生きるとはどういうことか』に描かれている。

その特徴を一言で言えば、文化的な創造を求めてあらゆる努力を惜しまない人々、ということになるだろう。ボボズは「創造としての自由」を人生最大の価値とする。(220頁)

 「創造としての自由」を求める彼らは、常に自分を磨くこと/向上させることに余念がない。フィットネスやスポーツだけでなく、学習もひたすら行う。その結果、ボボスは新たなエリート階級になろうとしているのである。
 
 これからの時代、「学び方を知る」ことの意義が一段と高まっていくことであろう。