子どもに自由を認めるとは、失敗する自由も含めての発想である。
教育論
奥地圭子『学校は必要か』NHK出版、1992
東京シューレをやるようになって、はっきりと見えてきたことだが、教師時代の研究授業や研修の方向は、四十人なら四十人の子ども全員を、一斉に、四十五分間いかにこっちを向かせるかの技術訓練だったのだと思う。(73頁)
子どもは何らかの強制力がないと勉強しないものだ、学ぶはずがない、だから子どものやる気を待っていてはダメで、大人が何かやらせないと、楽なほう(やらないほう)に流れるに決まっている、それでは生きていけるようにならない、と思っている大人は実に多い。「でもそれは違う」という私の考えはまちがっていなかった、と東京シューレ七年の実践で思えるのはうれしいことだ。(89頁)
野村幸正『「教えない」教育』二瓶社、2003年
本書のサブタイトルは「徒弟教育から学びのあり方を考える」。心理学者の立場と、仏師に弟子入りしている立場両面から「徒弟教育」という「教えない」教育のもつ意義についてを語る。暗黙知・正統的周辺参加などのキーワードを元に説明をする本である。
いま、教育に人の働きが発揮されると、単に教える者から教わる者へと教授すべき内容の情報が移動するだけではない。その情報を取り巻く世界が共有され、それを学ぶ意味あるいは喜びといったものが、教える者と教わる者とが一体化したかかわりのなかで共有されていく。そして、それがそれぞれに分化し対象化されてゆくなかで、情報が情報として伝達されてゆくことになる。それはもはや情報の伝達云々以上のものであり、情報の創造と言ってもよいほどのものであろう。そして、この人の働きをもっとも強調した教育が、すでに言及した徒弟教育である。さらには正統的周辺参加である。(105〜106頁)
教師としての職業を遂行してゆくこともまた難しい。ましてや教えることを仕事とする教師が「教えない」とまで言い切ることは、余程の力量と自信があってはじめてできることであろう。そして時には、この教えないことが教えることよりもはるかに重要な意義をもつこともある。過剰教育が問題となるのは、単に知識を与え過ぎる云々を超えて、せっかく子どもが直面した生の体験を自らの言葉で表現してゆく機会をも奪ってしまうからである。教えられるがゆえに、子どもたちは自らの言葉で考えぬくことを放棄してゆくこともあるに違いない。それを放棄した子どもがその後どういう道を辿るかは言うまでもない。(130〜131頁)
大学生がアルバイトをするのは何のためか?
最近、新聞で「いま大学生に貧困が増えている。仕送りも3割減っている」「だから、アルバイトをする学生が増えている」、との報道を目にする。前段は「まあ、そうだな」と私は思うが、後段の記述には「本当か?」と思ってしまう。
質問1 | あなたは学生ですか? |
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回答 | 大学生です。 (21) 大学院生です。 (3) 社会人です。 (5) 高校生です。 (0) |
質問2 | あなたはアルバイトをしたことがありますか。 |
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回答 | はい (29) いいえ (0) |
質問3 | 「はい」と答えた方に質問します。アルバイトを行った動機はなんですか? |
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回答 | 生活費や学費を稼ぐため。 (18) 趣味にお金を使うため。 (20) アルバイトで自己実現をするため。社会勉強のため。 (8) ただ何となく。暇だから。 (6) その他。 (6) |
質問4 | 「その他」と答えた人にお聞きします。あなたがアルバイトを行った動機は何ですか? |
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原ひろ子『子どもの文化社会学』(晶文社、1979)
我々は教育というものはあらゆる人間社会に普遍的に存在するものである、と考えている。本書はヘヤー・インディアン社会をもとにして、人々の思い込みを打ち砕いてくれる。
ヘヤー・インディアンの文化には、「教えてあげる」、「教えてもらう」、「だれだれから習う」、「だれだれから教わる」というような概念の体系がなく、各個人の主観からすれば「自分で観察し、やってみて、自分で修正する」ことによって「○○をおぼえる」のです。(180頁)
現代の日本を見るとき、「教えよう・教えられよう」という意識的行動が氾濫しすぎていて、成長する子どもや、私たち大人の「学ぼう」とする態度までが抑えつけられている傾向があるのではないかしらという疑いを持つようになりました。(175頁)
「教える」、「教えられる」という概念がない、ひいては「師弟関係」などが成立しないという、このヘヤー文化の基礎には、「人間が人間に対して、指示・命令できるものではない」という大前提が横たわっているのです。ここどえは、親といえども子に対して指示したり命令したりすることはできない、と考えられているのです。人間に対して指示を与えることのできる者は、守護霊だけなのです。(187頁)
漫画『ONE PIECE』は何故これほどまで支持されるのか。
橋本努『自由に生きるとはどういうことか』(ちくま新書)。そこには「1960年代後半の自由論」として漫画『あしたのジョー』が取り上げられていた。「矛盾を引き受けて『燃え尽きる』ことに『自由』を見い出し」、「真っ白な灰になる」(101頁)ことの美学が、その当時の「自由論」であるとまとめられている。
子どもにとって「夕暮れ」とは何か?
『学校の現象学のために』には「行き暮れる実在」としての子どもが描かれる。
少年のび太が「ドラえもん」にサヨナラする日
子どもは無根拠に「自己全能感」をもっている。その象徴がドラえもんだ。「自分は何でもできる」、それは「あんなこといいな/できたらいいな」の世界である。子どものような「自己全能感」を捨て(あきらめ)る、つまり「自分は何でも出来る」という思いを失うことが「大人になる」ことではないか。
「あんなこといいな/できたらいいな」。その夢にあきらめを感じる時、そのときこそ我々がドラえもんを卒業する時である。
まず自分が楽しもう、元気になろう。
村上龍の書いた『「教育の崩壊」という嘘』(NHK出版、2001年)を読んでいる。
そこに心理カウンセラーの三沢直子との対談が掲載されている(厳密には妙木浩之もいるため鼎談である)。次に引用するのは三沢の発言だ。
子供が生まれると必死になって自己犠牲的にやらなければいけないんじゃないかという気持ちにとらわれてしまうのです。(…)「目から鱗」だと思ったのは、いくら献身的に親がやっても、それで鬱々としていたり、つまらなそうな顔をしていたりするのを見せるのは決して子供にとっていいことではない、ということです。自分の人生をもっていて、人生は生きる価値があるんだ、楽しいんだというモデルを示すことこそ大事なんだと言われて、そうなんだよなと、もう一度思い直したんです。(153~154頁)
そのために三沢は「2年ぶりに映画に行き、3年ぶりにコンサートに行き、7年ぶりに海外旅行」に行く。1週間のニューヨーク旅行から帰ってきたとき、子どもは「お母さんはお姉さんのようになって帰ってきた」と言った。生き生きとして、楽しそうな姿から子どもはこのような発言をしたのであろう。旅行で母が不在の間は寂しくても、「お母さんが生き生きとしてくれるならば行ったほうがいい」と子どもが語ってもくれたそうだ。
この部分からは子育てだけではなく、人生の智慧についても読み取ることが出来る。自分が楽しんでいないと、まわりも楽しくなくなる。たとえばレストランのウェイターがすごく不機嫌に働いていると食事も不味くなるが、すごく楽しそうに働いているとき味も良くなるように思える(マクドナルドのハンバーガーがいくら不味くても食べられるのは、店員さんが笑顔だからだろう)。
自分自身が楽しく生きていないと、子どもを育てたり、人を励ましたりすることができない。
「つらいけど、頑張ろう」というのは禁句にして、まず帰り映画館に行って「自分が楽しむ・元気になる」ことを優先すべきではなかろうか。
これからの時代に必要な知識について。
昨日、友人たちと読書会。自発的な「学びの共同体」の実践は面白い(逆に言えば、制度的な「学びの共同体」は時に地獄となる)。広田照幸の『教育』をもとに話し合った。
第三に、分配に軸足を移した経済システムという前提のもとでは、知識重視型の教育が必要なのではないかということである。(93頁)
その特徴を一言で言えば、文化的な創造を求めてあらゆる努力を惜しまない人々、ということになるだろう。ボボズは「創造としての自由」を人生最大の価値とする。(220頁)