脱学校論を、私はずっと研究してきたが、これはイリイチの「イイタイコト」ではなかった。あくまで、産業社会の「制度化」(価値の制度化)を批判するためのものであった。
これでずっと研究するのもいいが、いささか飽きてきた。
次のテーマとして、自主的・自律的学習を可能にするもの、要は「コンヴィヴィアリティのための道具」を研究していきたい。その例として、学習参考書をとりあげてみてはどうだろうか。
研究初めとして、手元にある『現代 教育学事典』(労働旬報社、1988)を見てみよう。
参考書予習・復習をふくめて学習を自主的に深めていくために副次的に用いられる、教科書以外の図書の総称。したがって、参考書は、本来、子どもの学習が主体的に行なわれるさいの手引書という性格をもつ。すでにこのような性格のものは、大正期の自由教育の展開のなかで用いられていた。しかし、参考書の利用が直ちに自主的な学習を意味するとはかぎらない場合もある。明治後期には上級学校進学のための参考書がすでに使われており、それ以降も国定教科書を学習するための安易な解説書が利用されていたのはその好例である。今日における受験参考書の氾濫も同様である。このような参考書とその利用は、暗記主義・教科書中心主義の傾向を招きやすい。むしろ、その弊を克服し自主的な学習を促す参考書とその利用が望まれる。同時に、学習における問題意識の喚起、学習のもつ面白さの体験の指導などを先行させたい。(久田敏彦)