教育論

中井孝章『学校身体の管理技術』

管理システムの浸透は、日常の生活環境だけにとどまらない。山田陽子が指摘するように、「現在の精神医療の現場では薬物療法や生物学主義への変調が色濃く、精神的な苦悩や人生における迷いに診断名をつけ、薬物によって解決する傾向が顕著になっている。(pp7~8)

パウロ・フレイレ『被抑圧者の教育』より

 未来とは受け取るべく与えられるものではなく、人間によって創造されるべきものである。
 いずれのタイプのセクト主義者も、同じように歴史を独占的にとりあつかい、けっきょくは民衆不在で終ってしまう。(pp7~8)

 銀行型概念では、暗黙裡に人間と世界の二文法が仮定されている。すなわち、人間は世界や他者とともに存在するのではなく、たんに世界のなかにあるにすぎない。人間は再創造者ではなく、傍観者にすぎないのである。(p73)

 要するに、銀行型の理論と実践は静止させ固定化する力であり、人間を歴史的存在として認めることができない。課題提起型教育の理論と実践は、人間の歴史性を出発の原点とする。課題提起教育は、何ものかになりつつある過程の存在として、すなわち、同様に未完成である現実のなかの、現実とともにある未完成で未完了な存在として、人間を肯定する。実際、未完成であるが歴史をもたない他の動物とは対照的に、人間は自分自身が未完成であることを知っている。かれらは自分の不完全さに気づいている。この不完全さとそのことの自覚にこそ、一人人間だけの表現としての教育の根がある。
 この人間の未完成な性質と変化しうるという現実の性質が、教育がたえず進展する活動でなければならないことを不可避的に要求する。
 教育はかくして、実践のなかでたえずつくりかえられる。(pp88~89)

小浜逸郎『先生の現象学』(1995、世織書房)

近代ヒューマニズムの信奉者が自明なことと考えている「教育は子どものためにある」というテーゼは、別に少しも自明なことではないといいたいからである。
 教育は、もともと子どものためを思って意図されたのではない。それは発生的には共同体の維持の必要から生まれたのであって、子どもを共同体のシステムに引き込むのが目的だったのである。
 もちろん、発生期の事情が、複雑な社会構成をもつ現代にもまったくそのまま単純に当てはまるというわけにはいかない。その複雑さを考慮に入れた上で強いていうなら、「教育は、大人(の作っている社会)と子どもとの関係のためにある」ということになるだろうか。ただ、それは、近代社会が生み出した人間の実存の分裂したありかたに対応して、一つに絞り切ることができずに、「国家や社会のため」と、「個人の自由と幸福の追求のため」という二つに分かれて追求されざるを得ないのである。(pp100~101)

→内田樹のいう「既に始まっているゲームに参加させられる」状況に類似している。

神前悠太ほか『学歴ロンダリング』(2008年、光文社ペーパーバックス)

 『ドラゴン桜』では、「バカとブスこそ’東大’へ行け!」と力説いていた。
 本書では、この言葉をパロディにして、「バカ」と「ブス」そして「人生の負け組」こそ、’東大大学院’へ行け! と力説したい!(p11)

 この本は恐ろしい本である。「東大大学院は入りやすい!」を何度もいうことで「大学院で学歴を’東大’という最高のブランドに変えよう」と提言する。東大などの諸大学院が「大学院重点化」という失策を行っていることを逆手にとっての提言である分、ラディカルながら本書は大学院政策のあり方を読者に訴えかけるものとなっている。
 本書の白眉は「どうやればカンタンに東大大学院に行けるか」という箇所ではない。東大の傲慢さを徹底的に批判するChapter 8が肝心なのである。

はっきり言って、大学院の定員数の急激な拡大は、単純に大学の予算拡大を狙って行われたものです。学問の発展や社会の要請、果ては人材の育成云々と言った理由はまったくの建前です。
 少子化に伴って自然減少していくことが明白な学生数を、一時的に増大させるのに最も効果的な方法は、定員の拡大です。
 大学院の定員の拡大は、学部の定員をまったく増やすことなく大学全体の定員を拡大させる魔法でした。なにしろ大学院は大学とは「別」なのですから。
 この戦略を真っ先に実行したのが東大法学部です。
(中略)
 東大は、日本の大学の中では絶対的な存在なのです。そうであるからこそ、東大が改革を行えば、必ず他大学も改革せざるをえない事態になるのです。(p323)

 ところで『新・大学教授になる方法』という本がある。この本には「10年間の無収入時代を耐えることができれば大学教授になれる」ことを謡っている。『新・大学教授になる方法』と『学歴ロンダリング』は同じ事実を肯定的/否定的に評価しているだけなのだ。『新・大学教授になる方法』は「しばらく食えないけれど、耐えれば大丈夫」といい、『学歴ロンダリング』は「食えない期間は非常にキツい」ことを言っている本なのである。厳密には書かれた時期の問題でポスドク問題などの現代特有の問題が起きており、『新・大学教授になる方法』はポスドク問題などには対応していない。その点での問題点はあるようだが、基本的に研究者という生き方は「若いうちは食えない」ものなのであろう。

 私は幸運にも、文系の中では比較的就職率の高い教育学を先行している。これはいざとなったら「教員」というカードを切れるということが大きいようだ。看護学校の必須科目でも「教育学」の授業があるなど、「教育」分野には潜在的需要が存在しているのだ。ありがたいと言ったらありがたい話である。
 
 この本を読み、人生プランについて改めて考えてみた。「修士にいくのはお勧め。でも博士課程はやめといた方がいい」とのメッセージを受け、「本当に俺は博士課程にいくべきなのだろうか?」と思ったからである。
 いろいろあって、最終的な結論として、

①修士課程は行く。できれば東大。
②修士を終えたら、一度社会に出る。それは教員や出版関係である。
③働きながら社会人枠で博士課程に入る。

 こういうルートを考えていないと、研究者として生きていけない。博士課程卒は食えないからだ。
 それにしてもニコニコ動画「創作童話 博士が100人いる村」のラストシーンは印象的だった。

抜粋 パウロ・フレイレ『被抑圧者の教育』

 信頼のおけない言葉は、構成要素が二分させられるときに生まれる。それは現実を変革することができない。言葉が行動の次元を失うときには、省察も自らその影響をうける。そして言葉は、無駄話、空虚な放言、疎外されかつ疎外するたわ言に変えられる。それは世界を告発することのできないうつろな言葉になる。なぜなら告発は変革への積極的関与なしにはフナこうであり、変革は行動なしにありえないからである。
 逆に行動が極端に強調されて省察が犠牲にされるならば、言葉は行動至上主義に変えられる。行動至上主義、すなわち行動のための行動は、真の実践を否定し、対話を不可能にする。いずれにしても二分化は、偽りの存在形態をつくりだすことによって偽りの思考形態を生み、それが先の二分化をさらに強めるのである。
 人間存在は沈黙していることはできず、偽りの言葉によって豊かにされることもない。それを豊かにしうるのは真の言葉だけであり、人間はそれを用いて世界を変革する。人間らしく存在するということは、世界を命名し、それを変えることである。いったん命名されると、世界は再び課題として命名者の前に表れ、新たな命名をかれらに求める。人間は沈黙のなかでではなく、言葉、労働、そして行動―省察のなかで自己を確立するのである。(p96)

村上陽一郎『新しい科学論』(講談社ブルーバックス、1979年)

古い本である。しかし、手元のものを見ると2008年5月に
43版が出ている。驚異的な本だ。

ある時代、ある社会のなかである考え方が有力な底流を形成しているとき、
それは、その社会共同体のメンバーたちに共通の、広い前提になるわけです
し、そうした共通の前提の上にたつ限り、多くの人びとが、その前提と構造
的同型性や意味の連関性をもつような同一の理論に、独立に到達することは、
ある意味では当然のことになりましょう。(195頁)

村上は、科学は「中立性」や「客観性」をもつという考え方を「科学につい
ての常識的な考え方」であるという。
そして「新しい科学観」を提示していく。それは’そもそも科学に中立性や
客観性というものはない’ことを形をかえて主張していくのである。
そもそも近代科学の父であるニュートンもキリスト教に基づいて、
キリスト教の見方(偏見)にしたがって研究を進めたのだから。

要するに、現代の科学は、その長所も欠点も、わたくしども自身のもって
いる価値観やものの考え方の関数として存在していることを自覚すること
から、わたくしどもは出発すべきではないでしょうか。今日の自然科学は、
今日のわたくしども人間存在の様態を映し出す鏡なのです。今日の科学者の
考えていることは、わたくしどもの時代、わたくしどもの社会の考えている
ことの、ある拡大投影にほからないのです。(201頁)

この本、1979年時点では斬新な本であっただろう。けれど、ここに書か
れた「新しい科学観」はある意味の「常識」となってしまっている。
科学の中立性について何かを言うのは高校の教員くらいであろう。
学校での科学教育は今だ村上の言う「常識的な考え方」に縛られている
ようだ。

学問とお笑いの間

今ではすっかり売れっ子になった漫才師・オードリー。私も好きなコンビである。冷静に話を進める若林と、途中理不尽なツッコミをいれる春日。「ズレ漫才」の名にふさわしく、絶妙にずれあって話が進まないまま時間となる。

彼らは順調にお笑い界を生きてきた訳ではない。NHKのお笑い登竜門「爆笑 オンエア・バトル」では史上初の「7連敗」を喫している。ここまで評価されないのも珍しい。それでも彼らはめげずにやってきた。M1では敗者復活で勝ち抜き、決勝トーナメントまで進む。惜しくも優勝は逃すが、彼らのキャラクターが理解され、各種バラエティやトーク番組に引っ張りだこである。筆者としたら「消える芸人」にならないことを祈るばかりである。

お笑い芸人たちはたとえ売れなくても、真剣に闘い続けている。小さなステージや番組の前セツなどを経て、ようやく番組に出られるようになる。それまでの苦労は半端ない。
 ここまで見てきてふと、お笑い芸人の精神と学者の精神の一致点に気づいた。学者は食えない。大卒後、職を得るまで長い長い下積み生活がある。その間、バイトをしながら自己の学問の研鑽に励む。芸人も食えない。やはりバイトをやりながらネタを作り、練習に励む。
 ようやく自分に非常勤の口がやってきた。あるいは助手でもいい。これは芸人では前セツをできるようになったことに相当する。ようやく助/准教授。これはレギュラー番組を持つことにあたるか。
 そして自分の冠番組を持ち「天下を取る」。学者ならば教授のポストに就くことにあたる。

こうしてみると、芸人の上を目指すハングリー精神は、学者の精神性とも一致する。いまは全く理解されなくとも、常に研究に励む。

 だから私は芸人的真剣さを持って教育学の研究に精進したい。

 最後に下手ながら歌をひとつ。
「芸人と/学者のつながり/深しかな/ともに理想を/めざす仲なら」

英語版wikipedia

英語版wikipediaは色々と面白い。「Japan」で調べると非常に興味深い。
https://en.wikipedia.org/wiki/Japan

Education and health」の欄では、次のことを言っている。

The two top-ranking universities in Japan are the University of Tokyo and Keio University.

この並びなら「東京大学と京都大学」や「早稲田大学と慶応大学」が適切なはずだが…。早稲田生として納得がいかないのである。

free skool

英語版のwikipediaでfree schoolを引いてみた。

A free school, sometimes intentionally spelled free skool, is a decentralized network in which skills, information, and knowledge are shared without hierarchy or the institutional environment of formal schooling. The open structure of a free school is intended to encourage self-reliance, critical consciousness, and personal development.

何やら、free skoolという言い方もあるようだ。

英語で教育学をやると、日本語では見えない点が見えてくるはずだ。

言語はメディアである。言語は自らの心情を単に示したものではない。言語を使うことで見えてくるものもある。
日本語という言語に限定せずに使っていく必要があるようだ。

脱学校と脱フリースクール

脱学校会議室(https://groups.yahoo.co.jp/group/deschooling-oriented/messages/1?expand=1
このサイトは面白い。

脱学校の急先鋒が、フリースクールであり、オルタナティブスクール実現の最善の方法だと思っていた。

しかし、人間は多様である。フリースクールの運営者も善人ばかりでない。

フリースクールゆえに人生をめちゃめちゃにされた人もいるのだと、このサイト(厳密にはメーリングリスト)は教えてくれた。