パウロ・フレイレ『被抑圧者の教育』より

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 未来とは受け取るべく与えられるものではなく、人間によって創造されるべきものである。
 いずれのタイプのセクト主義者も、同じように歴史を独占的にとりあつかい、けっきょくは民衆不在で終ってしまう。(pp7~8)

 銀行型概念では、暗黙裡に人間と世界の二文法が仮定されている。すなわち、人間は世界や他者とともに存在するのではなく、たんに世界のなかにあるにすぎない。人間は再創造者ではなく、傍観者にすぎないのである。(p73)

 要するに、銀行型の理論と実践は静止させ固定化する力であり、人間を歴史的存在として認めることができない。課題提起型教育の理論と実践は、人間の歴史性を出発の原点とする。課題提起教育は、何ものかになりつつある過程の存在として、すなわち、同様に未完成である現実のなかの、現実とともにある未完成で未完了な存在として、人間を肯定する。実際、未完成であるが歴史をもたない他の動物とは対照的に、人間は自分自身が未完成であることを知っている。かれらは自分の不完全さに気づいている。この不完全さとそのことの自覚にこそ、一人人間だけの表現としての教育の根がある。
 この人間の未完成な性質と変化しうるという現実の性質が、教育がたえず進展する活動でなければならないことを不可避的に要求する。
 教育はかくして、実践のなかでたえずつくりかえられる。(pp88~89)

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