教育論

映画『容疑者Xの献身』

 今日、久々に映画館に行った。友人とともに。

 容疑者Xの献身であるが、あの結末はいかがなものかと。

 別にあの人を殺さず、バラバラ殺人にしていればよかったのではないか。(ネタバレ注意)

 暗いだけの石上の人生に、ひとときでも輝きをもたらせてくれた。この感謝の思いが、別の形で表現されることはなかったのであろうか。

 教育学徒として一言、ふたこと。
 その一。石上、授業にやる気なさ過ぎ。教師であるならば、生徒の理解水準まで降りて授業をするべきだ。自らの自己満足の授業であってはならない。
 その二。研究者になる道は厳しい。石上は、「その一」でもいったが教員になるべき人間ではなかった。学者としてなら、本当に大成できたはずだ。研究志望者が研究者となれないところに、この世の不幸の一つがある。もっと大学院生に資金の提供をしていくべきかもしれぬ。
 鷲田小彌太は《研究者になるなら、10年間研究し続けることに耐えなければならない》といっている。10年間無収入に近いなか、いかに戦い抜くか。ここに研究者になることの厳しさを思う。

教育に関するすべての希望を捨てよ

 人びとは、教育に何か有能感をもっている。それは自分のいるなんともならない状況を、「未来になれば解決している、ゆえに未来を作る子どもの教育が大切だ」と安易に考えるからだ。バカをいっちゃいけない。僕らの世代も、上の世代から何かを期待された世代である。それはおそらくは「戦後日本の社会を構築する」ということだったであろう。高度経済成長で、すこしは解決した。しかし、水俣病をはじめ未解決、あるいは新たに出てきた問題もある。ネット社会に、人は適応できていないのに、ネット空間では犯罪が多発している。
 また思想界の発展により、近代や進歩といった物自体、価値があったのか、という問い直しがされている。こんな社会状況の中、教育だけが希望を持って語られる。政治も、経済も、環境も、平和も、何もかもぐしゃぐしゃ。希望を持って語られていない。なのに、教育には期待感をもって話がなされている。「今の教育は駄目だ」というのも、その人の頭の中の「理想の教育」と照らし合わせて、のものに過ぎないのだ。所詮、みんな教育に期待を持っている。
 教育に期待が持たれ始め、どれくらいがたったのだろう。未だに人類が教育に期待し続けるのは、成長が無いといえるのではないか。もう待ってても無理だ。あらゆる学問や言論のうち、教育だけは常に未来形で語られる。おかしなことだ。

灰谷は「すべての怒りは水の如くに」において、教育権の独立についての話をしている。社会のどんな部分からも、干渉されない、ということである。

教育は、社会に影響されてはならない。また、学校はなるべく教える量を減らし、学校の存在自体を小さくしていくべきだ。

託児所たるのであれば、ただ「自由」の時間を置けばいい。いやでも読書させる授業もいい。

ダンテの『神曲』ではないが、地獄の門の言葉を思い出す。
《一切の望みは捨てよ 汝ら われをくぐる者》(神曲地獄編 第三歌)

教育に関する「一切の望みは捨てよ」。そして、そこからものごとを考えていくことだ。そのなかに、教育に何かできることがあると、まあ幸せですね。教育では、何もかわらない。まずはそれを自覚していくことからはじめるべきではないか。
そして、「教育に何かできることがあれば」それをやっていくことである。

教育に関する言説は、一見するとペシミスティックだが、実際は違う。「今の教育はよくない」というのは、「このようにすれば教育はよくなる」というその人の持論の言い直しに過ぎない。そういうのを、ユートピアという。ユートピアはどこにも無い。考えるだけ無駄だ。「教育しよう」ということだけで、子どもにプレッシャーをかけているところもある。
 なら、子どもの負担をなくせばどうだろう?
学校教育では読み書き数と情報、コミュニケーションスキル習得のみでいいじゃない。余った時間はサッカーなり読書なりさせようよ。子どもも楽しいはずだ。

俺がペシミスティックだって? そう、私はペシミスト。底抜けの。

自由研究の研究

小学生のとき、皆やらされた夏の課題「自由研究」。

 私は教育学部で学んでいるが、「自由研究」という課題の歴史やねらいをまだ学んだことが無い。
 
 この「自由研究」の研究を、行って行きたい。

私のスタイルを変えた本

ごく短い人生経験しか持ちえていない私。そのため、「自分の座右の書」や「座右の銘」など、聞かれても出てこない。「私を変えた一冊」なんて、何だろう。
 しかし、話をミクロにかえよう(私はよくマクロ視点とミクロ視点を交互に使おうとしている。マクロで話が詰まればミクロ、と逃げているところもある)。私の人生それ自体を変えた一冊や、何度も読みたいという本はまだ思い浮かばないが、自分の読書スタイルを変えた本なら、一冊ある。それが齋藤孝著『三色ボールペンで読む日本語』である。
 この本はベストセラーとなったので、御存知の人も多いであろう。本を読み、「まあ重要」というところは青、「すごく重要」には赤、「面白い」箇所には緑で線を引くというやり方を提唱した本である。私の読書の仕方は、この本を契機に大きく変わった。まず、「本を買って読もう」と思うようになった。線を引き、自分の形跡の残った本を座右に残しておくために。これは続編の『三色ボールペン情報活用術』に影響されたことでもある。‘よく情報をカードやパソコンに打って活用しよう、という人がいるが、本それ自体を残しておくほうが、情報は活用しやすく、またなくなりにくい’といった内容が書かれていた。
 また、ペンを片手に、本を読む習慣がついた。「お前、こんなに線引いて意味ないだろう」といわれようが、わが道を淡々といけるようになった。本を携帯する習慣がついたため、常にペンも携帯しようと思うようになった。それで私の携帯にはミニ・ボールペンのストラップがついている。
 齋藤氏の著書には、批判もいろいろ寄せられているが、私は『三色』の本がなければ今の自分のスタイルは成立していなかったであろうと実感している。その意味では、齋藤氏に感謝の念でいっぱいである。まんまと齋藤氏の主張にのせられているが、齋藤氏の言う「読書の型」を習得できたことは、自分の財産になっているような気がする。
 齋藤氏以外の読書法の本を、私は死ぬほど読んできた。速読術という怪しげなものにも挑み、それに対抗した「遅読術」なるものにも興味を持ったこともある。「ワルの読書術」は名前に引かれ、「私の読書法」なる本は暫く私の制服のポケットにあった。けれど、結局は高校受験の帰りによんだ『三色』に行き着いてしまうのだ。それだけ、私にマッチしていたのだろう。最近も、少し浮気をしていたが、新たな読書法を教えてくれる本を三色ボールペン方式で読んでいる自分がいて、浮気は駄目だと実感した。
 本を読むときに、ペンを持つ。これだけで、本に対し、意識的に向かえるようになる。意識的にならない読書は、漫然とテレビを見ることに等しい。何か見たような気はしても、結局何も残らない。ついにはコマーシャルや作り手の意図的な編集が、無意識層に残り、私の生活を裏でコントロールするようになる。
 何ももたずに本を読むことは、私にはできない。そんなときでも本の角を折ることで、意識的に本に対抗する。存在論ではないが、本はそれ自体に意味はないと思う。読む側である「私」の存在なくしては、本は単なる所有物やオブジェに過ぎない。「私」が書を開き、そして意識的に読むときに、初めて本は「本」になることができるのであろう。

 先ほどの言を訂正。この本は読書スタイルだけでなく、私がノートを多色ペンで取るようになったきっかけを築いた。また、メモの地色を青にする契機にもなった。私は、小中学生はともかく、高校生にもなってシャーペンを振りかざして学習するのは能率的でないといつも考えている。消しゴムで消したところで、どうせ自分以外誰もこのノートを読まない。だいいち、ノートをユダヤ系三宗教の信者のバイブルの如く、何度も読むなんてことは恐らく無いはずだ。ならば、ボールペンでシャッと二重線で訂正する。このほうがシンプルだ。

対談集『21世紀への対話』より、教育関連の項目の整理。

対談集『21世紀への対話』より、教育関連の項目の整理。

(上)128項 第三章 知的生物としての人間
1 学問・教育のあり方

(1)教育のめざすもの
・「学問・教育の本質は、実利的な動機に基づくものではなく、宇宙の背後に存在する‘精神的実在’との霊的な交わりを求めること」トインビー
・学問や教育、ある意味宗教的なものにまで迫る。人間としていかにあるべきか、人生をどのようにいきるべきか。
・しかし、実利のみを動機とし、目的とするのは、教育のあるべき姿ではない。現代の技術文明の社会では教育が「実理性の侍女」に成り下がっている。「欲望追求の具」に。
・「教育は、人生の意味や目的を理解させ、正しい生き方を見いださせるための探求でなければならないのです」トインビー

・「知的職業の訓練を受けたすべてのものが‘ヒポクラテスの宣誓’を行うべきです。」「自分の専門的な知識や技能を、人間同胞の搾取に向けることなく、彼らへの奉仕に用いる旨を誓うべきでしょう。」「最大限の利益ではなく、最大限のサービスこそ、知的職業人が目的とし、身を尽くしていくべきものです。」
・現代の教育は、実利主義に陥っている(「宗教的なもの」だから、実利主義は否定すべき、と解すべきか?)
→二つの弊害。
①「学問が政治や経済の道具と化して、その本来もつべき主体性、したがって尊厳性を失ってしまったこと。」
②「実利的な知識や技術にのみ価値が認められるために、そうした学問をする人びとが知識や技術の奴隷に成り下がってしまっていること」→人間の尊厳性の失墜が起こる。
まとめ…「知識や技術に人間が奉仕し、政治や経済に操られるようになった学問・教育を、本来の、人間としての基本的なあり方や人間存在の根本を明らかにする学問、また、それを伝えていく教育へと転換することが、どうしても必要だと思います」

(2)生涯教育について
・「知識が常に増大し、しかもその解釈がたえず変化している今日の世界では、フルタイム(全日制)の青少年教育だけでは十分であはありません。引き続いて、生涯にわたるパートタイム的な自己教育をしていく必要があります。
・学校教育にも、社会との接点を作って人生の経験を踏ませる方法を考えるとか、課外活動や共同生活の経験を持たせられるよう、なるべく多くの機会を設けるべき。
→「現在求められている教育のあり方として、私は、この全体人間を志向した人間教育の必要性を強調したいと思います」
・「成人期に教育を続けることの利点の一つは、成人者は自分の個人的な経験を、学問的に、―つまり間接的に―学ぶ事項に関連付けることができるということです」トインビー
・パブリック・スクールの事例。「年長の生徒たちに実際に権力を行使させ、責任感を養う機会を与えています。」「生徒会長は常に、‘権力は人格の試金石である’というギリシャの格言で戒められていました」トインビー
まとめ…「人間の能力は多種多様であり、これら多種多様な能力はすべて社会的に価値があるものです。各個人がもつ独自の能力というものは、すべて発掘し、育成すべきです。それを可能にするには、学生たちに、実際に経験を積み、それを生かす機会を与えてやらなければなりません。また、理論と実践とが互いに補足し合い刺激しあうような、一体化した教育を、生涯続けることが必要です。(ドイツのディアルシステムは、これに近い。また牧口の『創価教育学体系』の「半日学校制度」も近いといえる)」トインビー

(3)教育の資金源について
・「私は、あらゆる国のあらゆる機関が、撤回不能の土地の寄贈を受けて、学生の学費を安く、教職者の給料を高く維持できるようになってほしいと思います。これによって初めて、国家や大企業によるコントロールからの自由が保障されることでしょう。」トインビー

(4)男女共学の得失
・男女教学
メリット
デメリット「性の紊乱」「妊娠の問題があり、生命の尊厳という問題が関わってきます」
・男女別学
メリット
デメリット「同性愛などの性的な問題」
→「二つの制度の長所と短所のバランスをとることは、きわめてむずかしいこと」
まとめ…「私は、学校なり、公共の機関が個人に教えるべきことは、個人の自由な判断を尊重できるような、それぞれの人格を磨くことであり、正しい判断のための素材を与えることだと考えます。個人の判断の結果が誤っていたとすれば、それは学校がその任務を十分に果たしていない証拠であって、個人の自由に干渉することは、自らの無能と怠慢をあらわにすることにほからならないでしょう。理想主義的にすぎるかもしれませんが、私は、学校教育とは、そうあるべきだと考えています。」

(5)教育者と研究者 →むしろ、対談集『学は光』に詳しい?
・「大学教育の役割は、学生に自己教育のやり方を教えるところにあります。私は、これを効果的に教えようとするなら、まず教授陣自らが自己教育を続けていかなければならないと考えます。そして、教職者にとっての自己教育とは、研究活動にほかならないのです」
・「最も想像性豊かな研究者というのは、常に研究を何か他の活動と結びつけてきた人々でした。」
・研究者が、人間の実際生活にふれることによってこそ、生き生きとした力を得て、自分の専門分野の研究を、より豊かに進めていくことができる。
・まとめ…「専門研究というものが、人間の実生活における感情や行動から遊離することによって、研究成果がきわめて危険なものになりうるという傾向を、是正する手がかりにもなろうかと思います。」「非常に専門化された分野の研究者も、自分の研究課題やその結果を学生や一般市民に理解できるように伝達し、あるいは教育しうるようでなければなりません(私は、ドキュメンタリー映画で、教育学の理論を伝えたい)。それによって初めて、自己の研究を人間的な眼で見つめ直すことができ、研究への新しい視点を見いだすことができるでしょう。それがまた、危険への暴走を食い止めるブレーキにもなり、その軌道を正しく修正することにもなると思うのです。」

碩学の印象

2週間前の日曜、東京シューレ葛飾中学校へいった。1年間の活動報告会だ。

教育学の大家・大田尭先生も来ていた。

90になってもかくしゃくとして、教育のあるべき姿を語る。吾人も、かく老いたし、と感じた。

放浪学習

放浪学習。

モンテーニュは、

本よりも旅行からの学びを主張した。

うろうろし、いろんなものを見聞し、自分の学問を作っていく。

私の学習も、こうありたいものである。

教育と漫画

教育の現場に立つなら、ペスタロッチらの本も大切だが、読むべきは子どもにウケている漫画である。

スラムダンク、ドラゴンボール、バキなど子どもが好きな漫画を読み、子どもと話をする。そこから開けるものもあるのではないか。
教育ボランティアでも大事なことであろう。

ある思想家のことば

未来を開き、未来を育むといっても、その主体は「人間」にあるといってよい。「人間」をつくりあげる事業こそ、すなわち教育にほかなりません。「人間」の内なる無限の可能性を開き鍛え、そのエネルギーを価値の創造へと導くものです。いわば教育は、社会を開き、時代を決する「根源の力」であります。

ペリンスキーの言葉

人間性とは、人類愛のことである。それは、自覚や教育によって育まれるものである。