教育論

バイト

バイトを再開した。教師にたいする授業アンケートを集計するバイトだ。

中高生の教師観がくっきりと現れ、怖くなった。普通に「あいつウザイ」「担当替わってくれ」と書かれている。

しかし、反面プラスのアンケートもある。「~~先生のお陰で地理が好きになりました」など。

また、折衷の形でこんなものもある。ある教師には「話がつまらん」「無駄」と書いているアンケートに「~~先生の授業は聞いてためになる」とあった。教師というだけで、生徒が反発するのでない。ちゃんとその教師個々人で判断しているのである。

延々と続く打ち込みをしつつ、思索は深まる。3点、思いついた。

1点目。ある教科の好き嫌いは、たいていは教師の教え方にあるのではないか、ということ。

2点目。いまの子どもは授業を聞かないというけれど、面白い授業・ためになる授業はきちんと聞いているという事実を、受け止めるべきだということ。

3点目。教え方の工夫・教師の自己研鑽しだいで正当に評価を受ける教師という職業像をしったこと。教師という仕事が、自分の転職かもしれないと、まじめに考えたこと。

バイトで金をもらいながら、教育に対する思索や、「生徒から見た、あるべき教師像」を探る訓練をさせてもらえる。いいバイトを見つけたと、つくづく思った。

とはいえ、アンケートは「かける限りかいてください」といって渡される。一生懸命書く。しかし、それを打ち込む側からすれば「げ、こんなに書かなくてもいいのに」といやになる。アンケートの持つ「データ管理のため、打ち込まないといけない」特徴は、多大なマイナス要素かもれないと感じた。

学問という暇つぶし

夏休み、何もしないのは暇である。一人暮しではなおさらだ。

否定的意味合いが大きいが、逆にプラスの面もある。
古代ギリシャでは「暇=学問」であった。学問の原語のスコレがもともと暇を意味したのだ。

この有り余るヒマを、じょうずに使いたい。学問をするに限る。これは「サヨナラ、学校化社会」で上野千鶴子氏が語ったことでもある。学問は効率のよい暇潰しだ、と。やってもやってもおわりがないからだ。

ヤンキー、やはり議員になる

吉報に一転「ほっと」 当選のヤンキー先生

https://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2007072901000896.html

予想通り、義家先生が当選した。

うーん、今週の義家のラジオ、聞かないとな。

 「ヤンキー先生」で知られ、安倍首相が唱える「教育再生」の看板役を務めた自民党比例代表の新人義家弘介氏(36)は、黒いスーツ姿で東京都千代田区の選挙事務所に姿を見せた。「当確」が一向に出ずに重い雰囲気が一時漂ったが、待ちに待った吉報にほっとした雰囲気に。

 その間、義家氏は複数のテレビ局のインタビューに応じ、選挙戦を振り返って「失業問題、年金問題という雲に、教育問題が隠されてしまった」と答えていた。

(共同)

本読むバカが私は好きよ

本読むバカが私は好きよ

との名キャッチ。糸井氏が考案したものだ。

本を読むのって、現代という時代から見れば馬鹿な行為かもしれない。他に楽しいものが沢山あるから。勉強もしかりである。

それでも、あえて本を読み、勉強をする。この「あえて」という部分が、自己形成の上で重要なのであろう。何故なら勉強・読書で困難に耐える力を身につけ、強い自分になれるから。世の動きを半ば超越した形で、大きなスケールでものを見れるようになるから。

フランスの「行動する文化人」アンドレ・マルロー。彼は第二次対戦下、いつ空襲が来るかわからない夜道で、壮大な文化論を語った。文化は地中海からヨーロッパ大陸に広まった。次はここから太平洋に文化の中心は移るであろう、と。日常の事柄をはるかに越えた地点からものを見る。そこに読書や勉強の重要性がある。

飲酒と小学生

小学生の10人に1人が定期的に飲酒=英メンタルヘルス財団
https://www.jc-press.com/kaigai/200707/072601.htm

 海外は、飲酒に対して甘い。下を読むと、「こいつはひどい」と思われるだろう。
 
 しかし、ビールは酒ではない、という国もある。軽いアルコールはほぼ黙認されているところもあるのだ。

 下の状況、ひょっとすると日本的感覚で「飲酒」にあたる行為が含まれていないのかもしれない。

英国メンタルヘルス財団は23日、小学生の10人に1人が定期的にお酒を飲んでいるというShools Health Education Unit(SHEU)の調査結果を明らかにした。
  調査は10~15歳までの生徒6万8千人を対象に実施。10~11歳では10%、12~13歳では19%が少なくとも1週間に1回は飲酒をしていた。 14~15歳の10人中4人が1週間続けて飲酒をしていた。お酒の購入先はスーパーや酒屋。調査マネジャーのデビッド・レジス博士は、「このようなこと (未成年に酒を売ること)は違法」と指摘するが、未成年へのお酒の販売は続いているようだ。

(2007年7月26日発信)

銭湯の持つ公共性

【コラム・断 講談師・神田茜】銭湯は教育の場https://www.sankei.co.jp/shakai/wadai/070727/wdi070727001.htm

 銭湯のよさを、ここまで語る。でも、下の引用文でいっているのは、「銭湯で公共性を学べる」ことのみであって、「銭湯でないと学べない」と書いていない。
 
 たしかに、教育のためには多くの事物が必要だ。「教育のための社会」にとってなおさらである。が、あくまでこの事物は絶対性を持つわけではない。

 感覚で教育を語っているような気がして、しかたない。重要なことではあるのだが。

 銭湯が減っている。ここ数年で近所の銭湯が2軒なくなり、大変なショックをうけた。わが家ではたまに行く銭湯が、子どもたちの社会勉強の場所でもあったからだ。

 そこで他人とのかかわり方を知ることができた。体を洗ってから湯船につかる。立ったままお湯を掛けない。走らない。騒がない。体を仮拭きしてから上がる。それらの公共性を自然に身につけられ、自分の行動で迷惑をかけるひとがいるということを、実体験で学ぶことができた。

  勝手に水を入れて湯をぬるくすれば、怒鳴りつけるお年よりもいる。よく顔を会わせる大人たちとは叱ったり叱られたりが許される信頼関係ができる。電車の中 でいきなり知らないひとに怒られるのと、顔見知りに叱られるのとでは大きな違いだろう。地域の子供とかかわりたいのに機会がないという大人だって結構いる ものだ。

 子供にとっても、よその大人とふれあうことができる格好の場所ではないだろうか。男の子で あれば、大人の男をそこで学び、女の子もしかり。親としては生活をさらけ出すようなうっとうしさも感じるのだが、家庭内の親子だけの空間で道徳心や公共性 を教えることがどんなに難しいかも、身をもって感じている。しつけがなっていないことを親はせめられてばかりだが、親たちも公共性を学ぶ機会がなかった世 代なのだ。

 最近子供たちへの道徳教育の必要性が叫ばれているが、銭湯こそ子供にとって必要な場所ではないかと思う。流行(はや)りのスパや健康ランドのように、何も地下深くから温泉を汲(く)み上げなくても、近所で気軽に行ける銭湯がまた復活してほしい。(講談師・神田茜)

(2007/07/27 07:43)

これでよいのだろうか…

最近、いろんなことをしている。高校の部活の手伝い、友人との対話、学校ボランティアなどなど。

その中で、いつも「自分はこれでいいのだろうか」と考えてしまう。

自分の行動は、本当に意味を持つのか。人の役に立っているのか。邪魔になっていないか。他にもっとすべきこと・自分に相応しいものがあるのじゃないか。

その度、次のことを思い出す。「目の前の課題から逃げるな」「何もしないより、何かをしたほうがいい」「行動の中で少しずつ直していけばいい」

上記のように、バカボンのパパ的思考法も必要だ。これでいいのだ。なにもしないより、やったほうがいい。失敗は後の成功に繋がる。

とにかく前向きに。とにかく何でもいいから、やっていくべきなのだ。

ヤンキー先生は議員先生になるか

昨日、高田馬場駅前でヤンキー先生こと義家氏が演説していた。

普通の議員と違い、「とにかく動くぞ」との勢い・情熱を感じた。

「ヤンキー、母校に生きる」も「母校北西余市を去るまで」も、自分は読んだ経験がある。なかなか、いいこと言うなー、と感心したのを覚えている。

しかし、教職と政治は違う。仮に議員になったとき、義家氏はどれだけ働けるのだろう。

義家氏は、周りがいうほど、無責任な人間ではないと思う。

だから結果を残すだろう、とは思う。

「私は教育に救われた人間です」
「子ども達が安心して失敗できる社会に」
「教育再生を」
この3つしか連呼していなかったのは気掛かりではある。設計図をもってるのかな?

握手してもらった義家氏の手は、当たり前だが他の人間の手と同じく、温かくもなく、やわらかくもなかった。

電車

電車内では異様に本が読める。逆に自由時間が沢山あっても本はあまり読めない学習も出来ない。

「自由からの逃走」との本がある。自由すぎると逆に不自由をもとめる内容だ。暇過ぎると学問は出来ないのかも知れない。

朝に勝つと気持ちがいい。陰山英夫氏が

早寝・早起き・朝ご飯

を提唱するわけも、単に気持ちいいから、なのかも知れない。早く寝て、早く起き、朝を食べると頭が良くなることには、単に「きちんとした生活習慣のある家庭かどうか」くらいしか意味がない、ときいたことがある。また「朝食をやめて健康になる」との本もある。

陰山氏の活動も、単に気分でやっている、ということはないだろうか?