書評

森毅『気まぐれのすすめ』ちくま文庫、1993

著者は数学者。数学の専門書とは別に、軽妙なエッセイを多数書いている。氏の文章は高校時代にハマった(無論、エッセイの方)。〈受験当日はマンガを読んで余裕をアピールしろ〉、〈受験とはごまかしの技術。全く勉強していなくても、さも勉強してきたかのように解答すればいい〉。受験についての考え方がラクになった。曲がりなりにも現役で早稲田に合格できた理由の一つに、森氏の本を読んでいたから、という点がある。

森は京大教授。けれどイバる感じが全くない。少なくとも文章には現れない。

どうも、教育界で「問題解決」と聞くと、ソッポを向きたくなる習性が、ぼくにはある。人生の問題が解決されるなら、それはけっこうに違いないが、たかが教育ごときで、そんなことのできるわけがない。しかし、なにかしら、そうした幻想を与えようとする癖が、学校にはある。「生きる力」とか「生活のために」などと聞かされるときの、イカガワシサに似ている。(31頁)

「たかが教育ごとき」。いい言葉だ。教育学者はあまり口にしない。
 
 私が森に注目する理由に、脱学校論的発想をよく口に出しているという点が上げられる。次の文は「価値の制度化」を語っているところと読むことができる。

一般的にいって、管理主義というもののおそろしいのは、管理者が管理主義的になること以上に、被管理者が管理主義的になるところだ。実際に京都大学でも、さまざまの手続きが管理主義的になるにしたがって、手続きにだけ熱中する学生が増えはじめた。大学でなにかを学ぶことよりも、教室に出席しているという手続きが重視される傾向については、京都大学はまだマシなほうなのだそうだ。もっと「民主主義的」な大学になると、出席やなにかの手続きだけ勤勉にオツトメすると、だれでも「民主主義的」に単位のとれる仕組みになっているらしい。
「みんな平等に抑圧されましょう」「みんな民主的に管理されましょう」というのが、民主管理主義教育のスローガンで、このごろ少し目にあまるものがあるのだが、ぼくはそれほど心配していない。こんなアホラシイ状態が続くはずがないと、人間の英知にいくらか期待しているのだ。(114頁)

以下は、いろんな抜粋。

本来の自由というものは、だれかれなしにウロチョロするから、当然にイヤな奴ともつきあうことになるものだ。ケージのなかで安心しているのは、自由ではなくて自閉である。(121)

人間が成長するというのは、なにかの殻をまとうことではなくて、裸のありのままの自分であることによって、さまざまの人間と影響しあい、結果的に成長してしまうのだと思う。それを恐れて殻をまとったところで成長なんかするまい。(…)教師のほうが成長することなしに、生徒を成長させようと思うなんて、あつかましい。それも、成長した結果ではなくて、成長する過程を見ることによってだけ、生徒に影響しうるのだ。(139頁)

考えてみれば、教育にとって、塾の歴史は二千年以上あるが、学校の歴史は二百年ほどなのだ。むしろ、学校というものも、塾の一つの形態にすぎない。
そして、こうした塾について、学校との連係が強くないかぎり、年齢的な制限はない。べつに「子ども」でなくても、お茶や生花の稽古に行く。(143頁)

なんでも説明したがり、そして説明さえすれば相手は納得するはず、と思いこみがちなのも教師の悪癖だろう。それでたいてい、ふだんでも教師は説明癖にとらえられている。
本当のところは、納得というものは、自分の心のなかでなにかがなじんでいく過程であって、教師なりなんなりの説明がたすけになることはあるものの、説明されたから納得するというものでもあるまい。(146頁)

→〈学んだことは教えたことの結果ではない〉という脱学校論に近い。

現在の塾は、まだ学校に従属し、学校に寄生している。それが将来に、学校とは別個のカリキュラムで、学校と同じ時間帯に、学校と競合しあうことを期待しているのだ。現在は過渡期であって、無力な学校の強力な支配があるために、学校の成績を上げるための塾や、学校へ進学するための塾が繁昌している。そのうちには、学校の成績など問題にせず、学校へ進学などしなくてもよいという、独自の文化的価値を主張する塾が多くなるのではなかろうか。(151頁)

→フリースクールというものを見越しての発言であるようだ。いまのフリースクールは「独自の文化的価値」を主張するようになっている。
 この文には印象に残るパーツが幾つもある。手元の文庫本には「無力な学校の強力な支配」というところに、赤丸が何重にも書かれている。
 ちなみに本文章は1984年のもの。奥地圭子が東京シューレを始める前年だ。

人間は異界なしには薄っぺらな存在になってしまうし、まるごと異界に魅せられっぱなしでは仕方ない。(266頁)

人間が人間にものを教えて、教える側がかしこくなれないようなら、教育なんてしんどいことをしなければよいのだ。自分が数学をよくわかるようになるために、数学を教えるのであって、自分がかしこくなれないような教え方は、相手のためにもならない。(242頁)

→森の『ひとりで渡ればあぶなくない』(ちくま文庫)にも遠山啓のことばとして「子どもという、こんなおもしろい動物をタダで貸してくれるんだから、教師というのはいい商売だ、というのが彼の口癖だった」(176頁)とある。

医師とか教師とかを、一種の芸人であるとぼくは考えている。芸の巧拙を問題にしているのではない。その芸にどんなつらいことがあっても、お客の前では笑顔であらねばならぬから、芸人なのだ。芸の苦労は表に出さずに、さりげなく舞う。苦労がにじみでたりするのは、芸人の恥だ。(243頁)

追記
●森の関西弁あふれる文章を読んでいたら、懐かしくなる。京都や大阪の大学に行けばよかったかな? まあそのときは、教育学者を目指さなかったろうけど。
 ちなみに2時間後に早稲田大学教育学研究科(つまり教育学の大学院です。わかりにくいですね)の推薦試験面接に行ってきます。森氏のいうように、余裕を示しとかないと、ね。

『学校では絶対教えてくれない「どうして勉強しなくちゃいけないの?』藤田徳人、2004、PHP

著者は医者。独特の「勉強をする理由」が描かれている。

男子には「モテるために勉強する」ことを説き、女子には「女性が勉強して、社会に進出することは、男性選びの選択範囲を大きくすることにつながるわけです。これは子孫繁栄という意味において、重要なことです。モテるために勉強をするのではなく、配偶者の選択範囲を広げて、よりよい遺伝子を構成に残すために勉強にはげむという理屈が、現代社会では筋道が通るのです」(205頁)と説く。

個人的に「なるほど」とは思うのだが…。確かに人類が動物である以上、動物の生殖と同様の要素があることは事実だろう。けれどそれが無条件で人間社会に適応されるわけではない。

東郷雄二『新版 文科系必修研究生活術』(ちくま学芸文庫 2009)

 卒論など各種論文は苦労して泥臭く書くものであると思っていた。研究には王道などないのだと思っていた。けれど、この本を読み、研究にもやり方があるということがよくわかった。
 印象的だったのは、研究カードや文献カードを作るという点だ。論文や文献の重要な箇所や要約をカードに書く(PCなら打ち込む)。梅棹忠男以来の方法ながら、これによって論文を書くのが容易になる。この本を読み、「こうすれば論文が書ける」と安心をした。この本を座右に置いて、卒論を書いていきたい。人間、何をどのようにやっていいか分からないと、不安になる。焦ってくる。本書はすっきりと論文執筆に書かれるための「小道具」を教えてくれるのだ。
 

内田樹の『街場の現代思想』(文集文庫)抜粋など

 ゼミのメンバーで奥多摩バーベキューをした後、ボランティア先の寮へ。寮生に挨拶と寮の掃除をした後、S君に会いに電車に乗る。その後に帰宅。ふー、結構移動した一日だった。スイカの金額が恐ろしく減っていた。

 電車旅行の醍醐味は車内での読書であろう。バスでは酔い、飛行機では読む間もなく到着してしまう(搭乗も厄介だ)。そんなこんなで内田樹の『街場の現代思想』(文集文庫)を読了できた。

 勘違いしている人が多いので、ここできっちり申し上げておきたいが、知性というのは「自分の愚かしさ」に他人に指摘されるより先に気づく能力のことであって、自分の正しさをいついかなる場合でも言い立てる能力のことではない。
 学者が学者でいられるのは、自分の理論を否定するデータを他の研究者より早く発見しようと努力する限りにおいてである。(126頁)

 内田の文章に多く出てくる種類の言説だ。内田はソクラテスの「無知の知」と同様の理論を現代において展開する。常識から見ると逆に見えることが実は真理だ、という言い回しの仕方だ。ソクラテスは次のように考察する。〈自分は何も知っていないということ、つまり自分が無知であることを知っている。けれどアテネの神託は私こそ最高の智者であるという。ということは、自分が無知であると知っているものは自分が智者であると思っている者よりも智者であるのだろう〉、と。内田は引用内のように「自分の愚かさ」を自分で気づける能力こそ「知性」である、と語るのである。

 次に進む。夢や目標を実現するためにはどうすればいいか、という箇所だ。

 目的地にたどりつくまでの道順を繰り返し想像し、その道を当たり前のように進んでゆく自分の姿をはっきりと想像できる人間は、かなり高い確率でその目的地にたどりつくことができる。「夢を実現する」というのは、そういうことなのである。(175頁)

 既視感(要はデジャヴュですね)が感じられるくらいまで、自分が夢を達成した姿を想像し、強く願っていく。これにより、その夢を達成できる可能性が増すのだ、と内田は続ける。
 興味深いのはこのくだりは「離婚について」という文章内にあるということだ。熟年離婚が成功しやすいのは、妻が延々と「いきなり離婚を切り出されたら、あのバカ亭主はどんな顔をして仰天するだろう…」(176頁)という妄想をし続ける。「細部に至るまで想像できるような未来は、そうでない未来よりも明らかに実現される可能性が高いのである」(同)がゆえに、熟年離婚は成功しやすい。たとえ否定的な夢であっても、細かく想像していると本当に実現してしまう。

 最後の引用。

 倫理的でない人間というのは、「全員が自分みたいな人間ばかりになった社会」の風景を想像できない人間のことである。
 村上龍の自省が彼に拍手する読者の自省よりも深いのは、彼が「社会全体が自分みたいな人間になったら、どうなるだろう?」という問いを自分に向けることを怠っていないからだ。(226頁)

 この箇所も印象的だった。「全員が自分みたいな」社会。これ、結構恐ろしい想像だ。一席のみ車内が空いていて、自分とご老人が同時に座ろうとする。その際に席を譲らなかったとしよう。「全員が自分みたいな」社会では私は老人になっても席を譲ってもらえない。内田がここでいっている倫理意識は適用範囲が広いように思う。

追記
●春休み中、新書にはまりいろんなテーマで読みあさった。〈けっこう物知りになったんではないか〉と思っていたが、授業に出て〈まだまだ自分の知らない考え方/知識があるのだなあ〉と痛感した。授業は何かを教わるだけでなく、〈自分がいかに物を知らないか〉を実感する場所であることに気づいた。
●よく「早稲田はバカだ」と言われる。『マイルストーン』や『早稲田魂』(いずれも早稲田のサークルの出している雑誌です)の底流にも早稲田=バカとのテーゼが流れている(大体は「明治はもっとバカ」と続くのであるが)。この内容も、本稿で引用した内田の一つ目の引用文と照らしてみると、プラスの内容とも取ることができる。自分のことをバカであると認識していること自体が、知性のある証しである、と。
 私はいま教育社会学を学びはじめているが、知らないことが多すぎる。〈構造主義を知ってて当然〉スタンスの入門書。あれもこれも、知らない横文字。これらを知ったかぶるのでなく素直に〈知らない〉と認めてしまおう、と思っている。そして他人から「お前は馬鹿だ」と言われるより先に学んでしまう。これこそ、理想の「早稲田=バカ」像と言えるのではないか。つまり、「バカ」を認識するのはあくまで自分。真の早稲田生は他人から「バカ」と言われてはならない。
 …けれど、〈知らない〉内容が実は「バカの壁」の向こうの内容だったら悲劇である。「早稲田=バカ」像でいう「バカ」が「バカの壁」の「バカ」でないことを祈るのみだ。

教育社会学学習のために。〜読まないで書いた書評つき〜

私は教育社会学の視座からフリースクールを研究していきたいと考えている。

今月28日は早稲田大学教育学部の教育学研究科面接試験の日。いよいよ研究者に仲間入りするための一つ目のハードルが見えてきた。

益々の勉強が必要なのだが、ここで「この本を絶対に読む!」というものを列挙してみる。

「この本も必要だぜ!」というものがある方は、ぜひコメントでお教えください。お願いします。

『教育の社会学』(有斐閣アルマ):教育社会学の入門として。現在二読目。
『教育社会学』(有斐閣ブックス、竹内洋ほか編):入門の次に読む。未読。
『エスノメソドロジー』(新曜社):私はフリースクールについてをエスノメソドロジーの手法で研究していきたく思っている。けれど「エスノメソドロジーって、何?」という状態だ。何となくは分かる。いや、分かってないのかもしれないが、ともかく一度本腰を入れてこの研究法を学んでいこうと思い、読んでみようと思う。未読。
『キーワード現代の教育学』(東京大学出版会):「メディア」など、現代教育学を考える上で欠かせないキーワードを学ぶため。未読。
『社会学がわかる事典』(日本実業出版社):教職でとった鈴木先生が絶賛していた社会学の入門書。一読。二読目に入りたい。教育社会学は「社会学」でもある。まずは親学問を学ばねば。
『教育学がわかる事典』(日本実業出版社):上の教育版。一読。けれどよんだからといって分かるようにはならない。かえって混乱するだけだ。下手に知識のある分野は学べば学ぶほど自身の無知に気づく。
『フィールドワーク』(新曜社):『エスノメソドロジー』と姉妹本。フリースクール研究のために読む。未読。
『思考のフロンティア 教育』(岩波新書):一年生の頃、わけもわからず一読。教育学の枠組みを学ぶために読む。

エリーズ・ボールディング『子どもが孤独(ひとり)でいる時間(とき)』

 本書の概要は次の文で示すことができる。

 大人同様、子どもにも孤独でいる時間が必要。

 この本は、事実、このことをいうためだけの本とも言える。また孤独に価値を見いだすことを提唱する本でもある。「孤独力」を推進する本である(1988年発行だから、本書の方が圧倒的に先にいってるんだけど)。

 子どもに孤独な時間を与えるべきだ、との主張は人々の〈教育し過ぎ〉の状況を批判する意味がある。

もし人間が、そのための時間をとり、孤独の中に身を置いて、自分の内側で何かが起こることをゆるさなければ、人間は、必ずや精神的に行き詰まってしまうだろう、と。子どもでも、おとなでも、たえまなく刺激に身をさらし、外側の世界に反応することに多大のエネルギーを費やしていると、人間は刺激に溺れ、内面生活や、そこから生じる想像力、あるいは創造性の成長を阻止し、萎縮させることになるだろう、と。(15頁)

 著者のクエーカー信仰の真摯さが伝わる。クエーカーは「沈黙」による神との対話を重視する。この神との対話は孤独でなければ行えない。神からのかすかな声を聞き取るために、あえて孤独になるのだ。

 北杜夫は『どくとるマンボウ青春期』で〈真に成熟した人間には孤独こそ望ましい〉と書いた。齋藤孝も『そんな友だちなら、いなくたっていいじゃないか!』という本を書いている。人間は社会的動物だが、だからといって常に誰かといることは人間には却ってデメリットをもたらす。
 孤独はつらい。けれど内田樹のいうように〈そばにいてくれるありがたさに気づける分、孤独な人間の方が人のありがたさを知ることができる〉のである。孤独に否定的価値ばかり置かずに、孤独に意味を与えていくべきなのだ。
 ここにかいた北杜夫などの作家とボールディングが違う点は、孤独は大人だけでなく、子どもにも必要なのだと言い切ったところだ。子どもに孤独が必要、とは親や教師や友人の目の届かないところでこそ子どもが育つのだということを意味している。

子どもからひとりでいる機会を奪い取ってしまったら子どもたちは、内に秘めている宝や、外で得る経験をどうやって生かすことができるでしょう? また、わたしたちおとなは、どうやってそれを生かせるでしょう?(27頁)

岡本太郎『今日の芸術』(光文社 知恵の森文庫)

 今回は、岡本太郎に成り代わる形で文を書く。
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 現在に生きるわれわれは、「全体性」を喪失している。仕事にしても何にしても、細切れのものばかりが割り当てられ、人間がロボットのようになっている。

社会の発達とともに、人間一人一人の働きが部品化され、目的、全体性を見失ってくる、人間の本来的な生活から、自分が遠ざけられ、自覚さえ失っている。それが、自己疎外です。(pp17~18)

 この状態を打破するために、我々には芸術が必要だ。単に鑑賞すればいいのでない。全ての人が自分で芸術を作り出すことが必要なのだ。全体性の回復こそが芸術なのだ。

失われた自分を回復するためのもっとも純粋で、猛烈な営み。自分は全人間である、ということを、象徴的に自分の姿のうえにあらわす。そこに今日の芸術の役割があるのです。(21頁)

 芸術に技巧的な上手さ(職人芸、ともいう)を求める時代は終わったのである(いまならパソコンもあるし)。下は岡本の芸術へのテーゼである。技巧的な上手さや「きれいさ」「ここちよさ」ではなく、まったく新しい芸術を作りだしていくのだ、という息吹が現れている。

今日の芸術は、
うまくあってはいけない。
きれいであってはいけない。
ここちよくあってはいけない。(98頁)

 一見、醜悪に見えるもののなかに、人間の全体性を思考する芸術があるのだ。
 すべての者がこれを作り出さねばならない。芸術の価値が「技巧」「上手さ」で測ることのできない時代なのだから。

他の印象的な部分の抜粋。
 

まことに芸術はいつでもゆきづまっている。ゆきづまっているからこそ、ひらける。そして逆に、ひらけたと思うときにまたゆきづまっているのです。そういう危機に芸術の表情がある。
 人生だって同じです。まともに生きることを考えたら、いつでもお先まっくら。いつでもなにかにぶつかり、絶望し、そしてそれをのりこえる。そういう意思のあるものだけに、人生が価値をもってくるのです。つまり、むずかしい言い方をすれば、人生も芸術も、つねに無と対決しているのです。だからこそおそろしい。(97頁)

内田樹『こんな日本でよかったね』抜粋

 人間が語るときにその中で語っているのは他者であり、人間が何かをしているときその行動を律しているのは主体性ではなく構造である、というのが本書の主な主張であります。(5頁)

 あまり知られていないことだが、「言論の自由」の条件の中には、適否の判断を「一定期間留保する」という時間的ファクターが入っている。
 正解を急がないこと。
 これが実は「言論の自由」の核となることなのだと私は思っている。(106頁)

「格差社会」というのは、格差が拡大し、固定化した社会というよりはむしろ、金の全能性が過大評価されたせいで人間を序列化する基準として金以外のものさしがなくなった社会のことではないか。(111頁)

→男は「生産性」が無い分、権力や貨幣という抽象的なものを作り出し、それらを得ようとした。一方の女は男と違い子孫という生産物を残し、次世代に遺伝子をつなげることができる。男が一人いれば、子孫を残すという再生産の上では何の問題も起こらない。100人男がいても、究極的には一人だけにしか存在する価値はない。存在意義の無いことを焦った男たちが貨幣などの抽象物を作った。女と男とでは求めるものの質が違ってくるようにしたのだ。それにより世界にある限られたリソースを同一の欲求によって奪い合うことの無いようにしたのだ(以上、内田の説明より)。

本来の教育の目的は勉強すること自体が快楽であること、知識や技能を身に付けること自体が快楽であること、心身の潜在能力が開花すること自体が快楽であることを子どもたちに実感させることである。(151頁)

頂いた本と、内田樹。

恩師よりいただいた『居場所のない子どもたち』を読んでいる。著者の鳥山敏子は〈居場所のない子どもたち〉のためにシュタイナー学校・東京賢治の学校を作った。なかなか読み進まないが、必ず次回のゼミまでに読了しよう。ちなみに東京賢治の学校の5月30日の見学日には是非行きたいと考えている。

今日、もう一人の師匠より天文学の本をいただいた。これもありがたいことだ。天文学は門外漢だが、教養をつけるため読ませていただく。

本日、内田樹の『下流思考』読了。「教室は不快と教育サービスの等価交換の場となる」(48頁)という発想にウロコが落ちる。
この感動をお伝えするために、内田の議論をまとめる。

旧来、子どもは「労働主体」であった。
      ↓
そのため家事手伝いを通じ、家計に貢献をし、家族の一員であるとの実感を得た。
      ↓
家電の発展などにより、家事労働の負担は軽減される。
      ↓
子どもはおとなしくすることが要請される。なぜなら邪魔になるからだ。
      ↓
けれど、一方的に家庭内でサービスを受けたままでは居場所が無い(反対給付が必要となる)。
      ↓
自分の父を見ると、帰宅後「不快感」をあらわにする。
      ↓
不快感を示すことが、父の労働の証しになっていると、子どもは考える。つらいお勤めをしてきた、ということを示しているのだ。なぜなら、近代社会では父が労働する姿を子どもが目にすることはほとんどないから。必然的に父の疲れ果て、「不快感」を示している姿から「不快感と引き換えに収入を得ているのだ」との実感を持つ。
      ↓
父と同様に、母も不快感をあらわにしているのを目にする。父の存在に耐えるという形で(つまり「不快感」を示すことで)、母は家庭における自らの存在を位置づけている。
      ↓
子どもも父母の姿をみて、「不快感」を示すことで家庭内における自分の位置をしめそうとする。そのための「努力」をしている。先に書いたように、現代社会では子どもには母のじゃまをしないことが重要であるから。
      ↓
子どもが家庭内では家事の手伝いをするという「労働主体」になれなくなった。
      ↓
けれど、子どもは店にいくと立派なお客として扱われる。「消費主体」として扱われる。
      ↓
現代の子どもは「労働主体」として扱われる前に「消費主体」として扱われるようになった。
      ↓
「消費主体」といっても常に貨幣で等価交換するのでなく、学校において(先の説明では家庭においても)「不快感」を貨幣として教師の講義と等価交換することを無自覚のうちにおこなっている。
      ↓
「消費主体」としての精神性で、子どもは行動するようになる。学校においても「消費主体」として行動する。「不快感」を貨幣として。
      ↓
そのために授業中に意図的にだらだら「起立」をし、私語をし、授業を無視する。「不快感」を示すことの代償として、教育サービスを受けているのだ。

うーむ、どうも内田のいいたいことをきれいにはまとめられない。原文を読んでいただくしか無いのだろうか。

他にも示したい箇所がいくつか。

子どもは学習の主権的で自由な主体であるのではありません。(…)
 まず、学びがあり、その運動に巻き込まれているうちに、「学びの運動に巻き込まれつつあるものとしての主体」という仕方で事後的に学びの主体は成立してくる。私たちは自らの意思で、自己決定によって学びのうちに進むわけではありません。私たちはそのつどすでに学びに対して遅れています。私たちは「すでに学び始めている」という微妙なタイムラグを感じることなしに、学び始めることができないのです。(64頁)

この文章により、無時間モデルをとる「消費」モデルが教育にはあてはまらないことを説明する。生まれたこどもは「日本語を学ぼう」という「自己決定」によって日本語を学ぶわけではないのだ。だから子どもたちの「それを学ぶのは一体何の役に立つんですか?」との疑問は答えることができないし、そもそもそのような問いかけをすべきものではない、と答えている。「教育権」は「社会権」と同様に〈なぜ必要か〉説明のできないものなのだ。「社会権って、何で必要なんですか?」と聞かれたら、「必要だから、必要なんだ!」としか答えられない。「人を殺しては何故いけないか」同様、問うてはいけない問いなのだと内田は綴る。

また、内田は刈谷剛彦を引いて〈学びから逃走することで、あえて自分の自己肯定感を高めようとする子ども〉の存在を私に教えてくれた。学びの否定は将来でなく現在を充実させようと意図的に働きかけるため、他と違う自分のかけがえの無さを示すことに使われてしまっている、と内田は語る。

もう一つ引用して論を終える。

「多文化共生」といいますけれど、おっしゃる通り、そういうところだって、要するに均質性の高いエスニック・グループが混在しているだけで、グループ内部の均質性は場合によっては(筆者注 アメリカは)日本社会より強かったりするんじゃないかと思うんです。

内田樹『狼少年のパラドクス』より

 研究者に必要な資質とは何か、ということをときどき進学志望の学生さんに訊ねられる。
 お答えしよう。それは「非人情」である。それについてちょっとお話ししたい。
 大学院に在籍していたり、オーバードクターであったり、任期制の助手であったり、非常勤のかけもちで暮らしていたりする「不安定さ」を「まるで気にしないで笑って暮らせる」能力である。(…)
 あえてこの道を選ぶ以上、それは「生涯定職なし、四畳半暮らし、主食はカップ麺」というようなライフスタイルであっても「ま、いいすよ。おれ、勉強好きだし。好きなだけ本読んで、原稿書いていられるなら」と笑えるような精神の持ち主であることが必要である。(…)
「非人情」の人間の場合、「私はこうしたい、これが知りたい、これを語りたい」という強烈な欲望だけがあって、他の人が自分に何を期待しているか、その結果を他人がどう評価するか、自分の言動が他の人にどういう影響を与えるか、というようなことはほとんど念頭にのぼらない。(…)
 で、私が思うに、研究者に限らず、独りで何かをやろうとする人に必要な資質はこの「非人情」である。(…)
 非人情でなければ「不条理」に耐えてなおかつハッピーに生きて行くことはできない。四畳半でカップ麺を啜りながら、自分の原稿を読み返して「おいおい、おれって天才か。勘弁してくれよ。そういえば、心なしかおいらを祝福するように空がやけに青いぜ」と温かい笑みを浮かべることができるようなタイプの人間だけが、いまの時代に幸福に生きることができる研究者だろうと私は思う。
 大学院進学を予定している学生さんたちは自制して、自分がどれほど「非人情」であるかをよくよくチェックすることをお薦めしたい。(pp178~181)

→「生涯定職なし、四畳半暮らし、主食はカップ麺」とあった。梅田望夫の『ウェブ時代をゆく』にも〈ジャンクフードしか食えないけれど、プログラムを組んでて幸福〉という若者像が描かれる。
→私も結構「非人情」かも。下の投稿みたいに〈誰にも頼まれていない原稿〉を書いて読み返すのが好きだし。