今回は、岡本太郎に成り代わる形で文を書く。
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現在に生きるわれわれは、「全体性」を喪失している。仕事にしても何にしても、細切れのものばかりが割り当てられ、人間がロボットのようになっている。
社会の発達とともに、人間一人一人の働きが部品化され、目的、全体性を見失ってくる、人間の本来的な生活から、自分が遠ざけられ、自覚さえ失っている。それが、自己疎外です。(pp17~18)
この状態を打破するために、我々には芸術が必要だ。単に鑑賞すればいいのでない。全ての人が自分で芸術を作り出すことが必要なのだ。全体性の回復こそが芸術なのだ。
失われた自分を回復するためのもっとも純粋で、猛烈な営み。自分は全人間である、ということを、象徴的に自分の姿のうえにあらわす。そこに今日の芸術の役割があるのです。(21頁)
芸術に技巧的な上手さ(職人芸、ともいう)を求める時代は終わったのである(いまならパソコンもあるし)。下は岡本の芸術へのテーゼである。技巧的な上手さや「きれいさ」「ここちよさ」ではなく、まったく新しい芸術を作りだしていくのだ、という息吹が現れている。
今日の芸術は、
うまくあってはいけない。
きれいであってはいけない。
ここちよくあってはいけない。(98頁)
一見、醜悪に見えるもののなかに、人間の全体性を思考する芸術があるのだ。
すべての者がこれを作り出さねばならない。芸術の価値が「技巧」「上手さ」で測ることのできない時代なのだから。
他の印象的な部分の抜粋。
まことに芸術はいつでもゆきづまっている。ゆきづまっているからこそ、ひらける。そして逆に、ひらけたと思うときにまたゆきづまっているのです。そういう危機に芸術の表情がある。
人生だって同じです。まともに生きることを考えたら、いつでもお先まっくら。いつでもなにかにぶつかり、絶望し、そしてそれをのりこえる。そういう意思のあるものだけに、人生が価値をもってくるのです。つまり、むずかしい言い方をすれば、人生も芸術も、つねに無と対決しているのです。だからこそおそろしい。(97頁)