差し出がましい熱意と同様に、教育過剰はどんなものでも慎むべきだろう。教育学者の悪い癖の一つは、教育学を振り回しすぎることであるから。潮時を見て姿を消すことを知るべきである。われわれの生徒たちにとっては、これから個人的な生の冒険が始まろうとしており、それはそれなりに一つの教育となっていくだろう。そして今や生きることそれ自体が、彼らの偉大な教師となっていくのである。
(モーリス・ドベス『教育の段階』202頁)
差し出がましい熱意と同様に、教育過剰はどんなものでも慎むべきだろう。教育学者の悪い癖の一つは、教育学を振り回しすぎることであるから。潮時を見て姿を消すことを知るべきである。われわれの生徒たちにとっては、これから個人的な生の冒険が始まろうとしており、それはそれなりに一つの教育となっていくだろう。そして今や生きることそれ自体が、彼らの偉大な教師となっていくのである。
(モーリス・ドベス『教育の段階』202頁)
高校の勤務なので、いろんな教材の問題を目にします。
その中に、次の問題がありました。
「ベンチャー・ビジネスについて説明しなさい」
意外に難しい問題。
みなさんは回答できますか?
模範解答。
「独自の技術開発や経営の仕組みなどによって、新しい事業分野に進出したり、新たな需要を創出する企業をいう」
いかがでしたでしょう。
なんか、しっくり来ないですね。
いまの仕事は教育・医療・福祉がクロスする特殊な分野。
そのため、ちょこっとずつ、福祉論を勉強中です。
知り合いに聞いた福祉論の「古典」として、岡村重夫『地域福祉論』を読んでます。
社会学畑出身の私にとって、とっても「懐かしさ」を感じる本でした。
「こんにちの都市化状況のもとでは、一つの地域社会が一つの「コミュニティ」を形成しているのではなく、ひとびとの関心の多様性に応じて成立する各種の集団の成員がもつ「同一性の感情」にもとづいて、同じ地域社会のなかにも、多数の「コミュニティ」が成立するのである」(22)
70年代に「コミュニティ」を言っている先見性に驚きます。
「地域社会における各種の環境条件の改善や生活関連施設の整備そのものは、コミュニティづくりではなく、これらの環境改善やサービスの実施が、地域にとって必要であるかどうかを、地域住民が自ら発見し、方針を決定し、そしてそれの実現について必要な集団的活動に参加することによって体験せられる「同一性の感情」を共有することが、「コミュニティづくり」であるという点である」(23-24)
「住民参加は、コミュニティの自治と権限の分散を実現することによって、地域民主主義を目的とすると同時に、住民の「同一性の感情」にもとづく相互扶助、相互連帯意識を促進するような方向で進められなければならない」(24)
「住民の自己決定ないしは自治自律の要求こそ、コミュニティ形成の出発点であるばかりでなく、この要求の実現を援助することが、コミュニティの開発そのものである」(78)
要は「ハコモノ」を作って良しとする福祉ではダメ、ということですね。
住んでいる人が「あれが必要だ」「これが必要だ」と気づき、その人達がやっていく方向で考えるのが大事、ということです。
その過程の中で、例えば札幌市の市民であるという「同一性の感情」が生まれてくるわけです。
福祉だけではなく、まちづくりの基本です。
この頃は今よりも「プロ市民」は元気でした。
地域を超えた「権利要求型市民」が幅をきかせる時代です。
その頃に、地元に根づいた(=ヴァナキュラー)な福祉活動・市民活動を訴えるということ。
とても興味深く感じます。
場がないなら自分で作る、将来やりたいことの準備を今日からする
この3月まで、ネコワーキングというコワーキングスペースでインターンをしていました。
その中で学んだことは、①「場がないなら、自分で作れ!」ということでした。
また②「将来やりたいことの準備を今日からする」ということでした。
この2つは密接につながっています。
例えば、インターン時代の私の夢は「いつか教育団体を作り、その中で講演会・勉強会をやりたい」でした。
はじめのうちは「教員になって実績を作り、結果を出しているといつかお声がかかる」という事を考えていました。
「棚からぼた餅」期待パターンです。
これは「いつかアーティストになりたい」人に多いパターンです。
ずっと絵を描いていても、個展もやらなければ店に頼んで飾ってもらうこともしない人、結構います。
研究者もそうです。
自分の研究の売り込みをせず「いつか教授に」を目指す「のんびり院生」はたくさん、います。
私がネコワーキングで学んだのは、「いつか発表をしたいのなら、
来月辺りに場所を借り、宣伝をして、自分で場を作ればいいじゃない」ということです。
「実績がないから…」とか、「不勉強だから…」と言っていても、はじまりません。
とにかく「やってみる」ことが道を開いていくように思います。
私も今年の8月、札幌勤務でありながら東京で講演会をやりました。
その模様はこちら。
あんまり教員1年目でやる人はいないと思います。
実績も何もないですが、精一杯発表しました。
すると思いの外、よい反応を頂きました。
やってみると、案外簡単なものでした。
こんな簡単なことを「将来の夢」、あるいは「一生の夢」にしていた自分がバカらしく感じてきました。
夢があるなら、「今日」から「具体的に」できる何かを考える。
そして「来月辺り」にやってみる。
その大事さを、私はネコワーキングで学びました。
ちなみに、ネコワーキング時代の別の夢は「教員バーを作る」ことでした。
「30歳になったら仕事をやめ、独立して作る」という夢です。
実はこれ、もう叶ってしまっています。
Coworking Cafe 36というバーでの日曜バーテンという形です。
「30歳になったら」「仕事をやめ」「独立して」「作る」という4つの条件がありましたが、すべて条件を揃えずにやっている次第です。
自己資本でバーを作るより、相当少ない負担でやらせていただいています。
この辺りも、「将来やりたいことの準備を今日からする」ということや「場がないなら自分で作る」ということの結果であると思っています。
「具体的に」生きるために…「将来の夢」は今日できることからやってみる。
私の実家そばに、公園がありました。
その公園には、トイレが二つ付いています。
不思議な事に、両方のトイレに似たような張り紙がありました。
1つは「トイレを汚すな」。
もう1つは「トイレをきれいに使いましょう」。
この2つのトイレ、どちらも似たようなトイレでした。
ですが、「トイレを汚すな」は常に汚く、
「トイレをきれいに使いましょう」の方は常にきれいでした。
清掃の回数はどちらも同じです。
なぜ、「トイレを汚すな」の方は汚くなってしまうのでしょう?
その謎解きをしていきます。
そのために、私の学校の話をしましょう。
私の学校には「〜〜してはいけません」という張り紙はありません。
「自分の傘かどうか確かめましょう」(「傘を間違えないでね」ではなく)や、
「カップラーメンの汁は三角コーナーに捨てましょう」(「ここにラーメンの汁を流すな」ではなく)と
書かれています。
なぜでしょうか?
それは「具体的に」の逆の効果が働くからです。
以前、映画『インセプション』を観ました。
レオナルド・ディカプリオが
「ゾウのことを考えるな」
…と指示をします。
そして、
「いま何を考えた?」
と聞きます。
相手は「ゾウ」と答えるわけです。
この話は心理学の教科書にも必ず書かれています。
なぜ相手は「ゾウ」と答えるのでしょう?
それは「〜〜してはいけない」という指示が
「具体的」であれば「具体的」であるほど、
相手の意識に強く刻まれてしまうからです。
「廊下を走るな!」といえばいうほど、
子どもにとっては「廊下を走る」という具体的なイメージが
明確な形で刷り込まれてしまうのです。
「相手が嫌なことをするな」というスローガンも、
無意味なことがこれで分かるでしょう。
「〜〜してはいけない」は、世の中にあふれています。
「悪を許すな」(正義感ドラマとかによくあります)
「ドラッグ、ダメゼッタイ」(ドラッグをなぜダメか言わないため、イメージが強烈に伝わります。ポスターも強烈に伝わります)
「やめよう、電線のそばの凧あげ」(「電線のそば」と「凧あげ」が具体的であるため、イメージが強烈に伝わります)
「〜〜してはいけない」は、強烈なメッセージです。
ですが、人間の脳は「否定形」に慣れていません。
ベイトソンの『精神の生態学』という本があります。
その中に、「動物は否定語を使わない」という話があります。
たとえば犬は「私は仲間だから噛まないよ」というメッセージをどう伝えるか、とベイトソンは説明します。
「噛まない」という言葉は、犬にはありません。
そのため、相手の犬に近づき、「あま噛み」することで、敵意の無さをアピールするのです。
つまり、「〜〜しない」を示すには、「〜〜」をやって見せないといけないのです。
動物って、大変です。
でも、人間もまだまだ動物の一部。
であれば、「〜〜してはいけない」というメッセージは、かなり難しいメッセージであると言えましょう。
リンゴを見せて「これはリンゴです」というのはカンタン。
でもミカンを見せて「これはリンゴではありません」と伝えることは難しいことです。
「〜〜ではない」「〜〜してはいけない」は、けっこう複雑なメッセージなのです。
だからこそ、「〜〜」の部分の方が簡単に伝わります。
結論です。
「〜〜してはいけない」を言うのをやめましょう(この言い方自体に問題があることは、本文のとおりです)。
なぜなら、「〜〜」が具体的であればあるほど、脳に強くイメージされるからです。
これは「具体的に」表すことの効果を、逆説的に示すものです。
なぜなら、具体的であればあるほど、相手に強くイメージされることがここからもわかるからです。
「具体的に」生きるために…
これからは「〜〜しましょう」をキーワードにしましょう。
中谷彰宏さんのCD,好きでよく聞いています。
彼をみていると、「007」シリーズを思い出します。
「こんにちは、中谷彰宏です」
これはちょうどジェームス・ボンドの
「My name is Bond. James Bond.」
に通じるものです。
初めに「具体的に」、下の名前まで言ってしまう。
その瞬間から、
どこかにいる「ボンド」さんでも「中谷」さんでもなくなります。
目の前にただ一人存在する(=実存)、中谷彰宏ただ一人として
自己紹介を出来るのです。
私も自己紹介の際、必ず「藤本研一です」と伝えています。
何故か?
それは「具体的に」いうことが、「ただ一人」性を高めるからです。
苗字しか言わない人は、ある意味集合名詞を自己認識にしている人です。
あるいは会社名を頭につけて、なおかつ苗字しか言わない人もいます。
「パナソニックの齋藤です」
この場合、集合名詞が二つもあり、何も引っかかりがなくなります。
具体的に言う場合、脳は単なる「パターン」としてではなく、
新たな事象として認識しようとします。
既存のパターンや既存のカテゴリにはめることを脳が諦め、
その人「ただ一人」という意識が強化されるのです。
だからこそ、今日からは自己紹介の際、フルネームを言いいましょう。
そのほうが、相手の引っかかりが強くなります。
高校生の頃の私は、人の名前を覚えるのが苦手でした。
「確実に覚えた」と思っている人に対しても、
「間違っていたらどうしよう」と思い、「ねえ」とか「そういえば」とか、
その人の名前を呼ばずに済ます方法をたくさん「発明」していました。
これ、よく考えると相手と全く仲良くなれない方法だったなあと反省しています。
誰であれ、「ねえ」としか毎回呼ばれないと嫌になります。
だからこそ、ちゃんと名前をフルネームで呼ぶことが大事なのだと思います。
「具体的」のヒント…フルネームで互いの名前を呼ぼう。
9/15、北海道大学・高等教育推進機構N棟 N115で開催されました、
「第3回 通信教育制度研究会」。
今回、私・藤本研一が発表させていただきました。
その模様は以下のリンクをご参照ください。
様々な研究者の前で発表すると、
良いコメントを頂けます。
実践と研究がリンクしている分、大変ためになる会でした。
発表させて頂き、大変ありがたいです。
「いろいろ」では伝わらない!
私は現役の高校教員です。
そのため高校生の文章をよく読みます。
彼ら/彼女らは「いろいろ」とか「たくさん」とか、抽象的・曖昧な言葉を多く使います。
そんな文章を書いてみましょう。
「きのう、いろいろな人に会い、いろいろなことをしてとても楽しかった」
小学生レベルの作文となってしまいましたが、「いろいろ」がいかに人に「つたわらないか」、よくわかります。
「小学生レベル」と思っている人、いるかと思います。ですが、就職活動中のエントリーシートでも、同じようなミスを散見することがあります。
「私はテニスサークルで幹事長を務めました。あるとき、サークル内で部員同士の派閥の闘いがありました。幹事長として、この衝突を解決したい。そのために色々行動をしました。いまでは幹事長の経験は宝物になっています」
どうでしょう? 一番肝心なところに「色々」を使っています。
読み手としたら「え、こんなところで使わなくても…」とがっかりしてしまいます。
読み手である企業の人事係は「きっと殴りあったり、反目したり、懐柔したり、なにかおもしろい展開があるに違いない」と「期待」して読んでいます。
それが「いろいろ」ときた瞬間、ガクッとしてしまうものです。
「具体的に」のために…「いろいろ」を使わない。「いろいろ」が役立つのは「人生いろいろ」のみ。
私の大学院生時代は、1年生の頃と2年生の頃で大きく異なる。
1年目の私は、怖いもの知らず。
めちゃくちゃ社会学の本を読みまくり、
「新たな社会学の1ジャンルを作る!」と意気込んでいた。
2年目の私。途中で挫折する。
「研究に意味があるのか」
「進路は大丈夫なのか」
考えすぎて欝気味になる。
そんな私にも「転機」があった。
たまたま友人の紹介で、大学そばの商店街
「地蔵通り商店街」(文京区)に行った。
そこで地域活性化に取り組んでいたのが
広瀬さんであった。
東京なのに、「地域活性化」。
しかも、言うことが変わっている。
「東京・文京区の活性化には人口を減らすことが必要。東京の人口を地方に送り、人口を適正規模にすればいい」
シンプルでわかりやすい説明であった。
そんな広瀬さんがコワーキングスペースである「ネコワーキング」を作っている動きを知った。
ちょうど翌日、漆喰塗りをする、という。
会って早々にその話になり、「面白そうだな」と思った。
そして翌日も漆喰塗りを広瀬さんと行った。
漆喰を塗っていると「インターンシップをやらないか」とリクルートされ、そのまま大学院卒業までインターンとして働かせていただいた。
広瀬さんから学んだことは3つある。
広瀬さんはネコワーキングでの壁塗りも、
ネコワーキングの主たる猫たちの名付けも、
なんでもイベントにしている。
利用者同士をつなげ、新たな発想が生じるように工夫をしている。
大学院生の頃の私は「いつか、〜〜をする」という夢をいくつも持っていた。
バーの経営やフリースクールを作るなど、「いつか〜〜しよう」というはかない夢だった。
ネコワーキングで学んだのは「いつか」は来ない、ということだった。
「フリースクールを作りたい」といった際に返ってきた内容。
ならば週に1度はどこかのフリースクールに見学に行け! フリースクールをつくった人の話を聞け! どこかのフリースクールでインターンシップをしろ!
強烈なメッセージである。
学生気分の私にとって、どんどん動き、形を作ることに、はじめは戸惑いがあった。
しかしものごとがどんどん進んでいくのは非常に楽しい。
だからいまの私にははかない夢はなくなった。
「いつか〜〜する」という夢もなくなった。
日々の行動で「〜〜歳の時に〜〜する」という夢に変わっていった。
しょうもないOB訪問や会社訪問をするくらいなら、
学生時代に業界トップの話を聞きに行くほうがいい。
実際、ネコワーキングのインターン中、広瀬さんの紹介でいろんな人にお会いした。
フリーランスやノマド・ワーカー、NPO関係者など、普段会わない人とお会いする事となった。
実際、広瀬さんのお知り合いは面白い人が多い。
金を出してでも「すごい人」に会いに行く事の大切さを学んだ。
この3つ以外にも実践的な内容もお教えいただいたが(猫の世話の仕方なども)、
広瀬さんとの出会いがなければ、いまの自分は札幌で働いてもいないし、
休日にバーテンやイベントもやっていないし、
札幌に住んで2週間後に市民活動団体を立ち上げることもなかっただろうな、と思っている。
・・・広瀬さんから教わったことを忘れないため、
私のFacebookのTop画像はネコワーキングのインターンシップ時代のものです。

いまから何年も前のインターンシップ経験ですが、
いまだに(そして「学校」をやめてしまいフリーランスになった今こそ)役立っています。
金を出してでも、学生時代のインターンシップはやるべきだな〜、と思います。
アクション映画のテーマはいつも組織と個人。私が映画をみるのはその一つの解法を知るためだ。
藤本研一