本書の筆者は「ソーシャル」議員。
本書に出てくる対談者は「ソーシャルデザイン」の専門家、
ソーシャルビジネスの実践者、
「社会」的起業家。
どこもかしこも、「ソーシャル」・「ソーシャル」、「社会」・「社会」ばかり。
「ソーシャル」ということが重視される世の中になった。
かく言う私も、こういう言葉、大好きである。
しかし。
山本哲士の言葉を今こそ思い出したい。
〈日本は社会主義ではなく、社会イズム、つまりSOCIALismに毒されている〉と。
山本哲士の主張である。
「世間が許さないぞ」というときの「世間」。
その世間の代表が「ソーシャル」である。
通常、英語や何かで言う「ソーシャル」(社会)という言葉は、その背後に「近代的市民」が成立している「市民社会」のことを言う。
日本の場合、未だに「市民社会」が成立していない、という言い方を、多くの知識人が数えきれないほど多く行ってきた。
「市民社会」を前提としない「ソーシャル」。
それが日本社会である。
だから「みんな」が大学に行こうとすると「わたし」も大学を目指す。
「みんな」が就活をすると「わたし」も就活をする。
「みんな」「世間」を気にし、それに適合しない他者を排斥する社会。
登校するのがあたりまえで、「不登校」が排斥される。
健常者があたりまえで、「障がい者」が排斥される。
それが日本社会となっている。
社会に出て「何か」をしようとすると、必ず反発がある。
「世間」が許さない。
日本ではこの「世間」を「社会」という。
みんながみんな「社会」「人様」「世間」を気にして、やるべきことをやらない(やれない)。
気にするからこそ、「何もしない」。
そして日本は何も変わらない。
日本はいま「社会」が個人を抑圧する「社会イズム」に陥っている。
さて。
日本社会が「社会イズム」に毒されている以上、その社会において「ソーシャルの重要性」を謳うことに、われわれはもっと疑問を持つべきではないだろうか。
日本において、本当に「ソーシャルの重要性」を見るべきなのか、と。
むしろ。
山本哲士のいう、「パブリック」の復権こそ、われわれの取るべき道なのかもしれない。
「市民社会」を前提とした「社会」は見知らぬ他者への寛容さから成立する。
日本社会において、この他社への寛容を見出すことは難しい側面がある。
であれば、「顔の見える他者」とつくり上げる公共性としてのパブリックに価値が高まっている。
ダラダラ書いてきた。
結論を言おう。
『「社会をかえる」のはじめかた』でいう社会は、近代的市民による社会ではない。
「顔の見える他者」たちの連続体としてのパブリックの再興を目指しているのである。
日本社会において、顔の見えない見知らぬ他者へ主義主張を叫ぶことは徒労をもたらす。
「何言ってんだ」と排斥されてオシマイ。
本書が言っているのは、あくまで「若者」や「社会を変えたい人」の集まりとしてのパブリックなのである。
戦略論として間違ってはいけない点がここにある。
やみくもに「みんな」「市民たち」「社会」に対し訴えていく方法論は日本では有効性が低い。
あくまで顔の見える他者を糾合し、彼ら/彼女らとコミュニケートする中で、彼ら/彼女らたちを巻き込むパブリックを構築すべきなのだ。
ある意味、私が社会人となって学んだことでもある。
「社会をかえる」方法論は、「みんな」や「社会」を見ているよりも、
「変えたい」人たちの集合体として見ていくべきなのだろう。