忘れていても、ふとした瞬間に思い出す人がいる。
大学時代の「ばあちゃんコピー」のお婆さんは、まさにそんな人。
私のいた大学の教育学部そばに、「ばあちゃんコピー」という通称のコピー屋があった。
お婆さんが店員だから、ばあちゃんコピー。
ただそれだけの文房具屋兼コピー屋だ。
界隈の中では最安に近い店であった。(当時出来た「タダコピ」は除く)
だいたい、大学街のそばには、「6円コピー」という格安コピー屋があるものなのだ。
学部の1年生の時から大学院2年の修了時まで、何度となくその店を利用した。
他人のノートをコピーするためではない。自分の発表レジュメを印刷するためである。
たしか学部の1〜2年生の時、そのお婆さんに会ったのだが、会計時に話すようなこと以外、話すことはなかった。
そこからしばらく会わない時期があった。
本格的に話すようになったのは大学院のときからだ。
単なる顔なじみ段階から親しげに話す関係になるには、きっかけのひと言が必要だ。
大学院の時、「よく勉強してますね」と言われたことを思い出す。
だれだってそうだが、努力を認められるとなんとなく嬉しい。
なんだかんだ、その「ばあちゃんコピー」に行ってコピーを取り、話すようになっていった。
就職が決まり、札幌での勤務が決まった際も、「ばあちゃんコピー」に報告に行った。
教員になることを喜んでくださったことを思い出す。
いろいろ話したはずだが、覚えているのはそのお婆さんの笑顔だけである。
さて、この「ばあちゃんコピー」のお婆さん、札幌で仕事を初めて以来2年半、全く思い出すことがなかった。
たまたま温泉宿のおかみさんと話していて、どことなくしゃべり方が似ているような気がして思い出したのである。
潜在意識に、何かひっかかるものがあったのだろう。
私のここまでの人生の中で、私はおそらく「ばあちゃんコピー」のお婆さんのような人に数限りなく出会ってきた。
出会ってきたものの、大半の人達はすでに出会ったことすら忘却してしまっている。
しかし、なんらかのきっかけがあると、彼らと出会った経験が「走馬灯のように」よみがえる。
人間が旅に出たがるのも、新しい人に会いたい気持ちになるのも、ひょっとすると「新しい人に出会う」行為が、かつて出会った「忘れ去った人たち」を思い出すことにつながるからではないか。
つまり、新しい「誰か」と会うという行為よりも、過去に出会った「誰か」に出会うことを予期し、期待しているのではないか。
そう考えると納得できることがある。
新しい人と会っているのに、どことなく懐かしさを覚えるその理由を。