本日11/8に行った『現代思想』「大学崩壊」の読書会。
かの名高い「現代思想」が「大学崩壊」という現象を探求してしまうとはすごい時代だなあ、と思う。
それくらい、大学が危機なのだというのがなんとなく伝わってくる本。
議論になったのは次のあたり。
●L型(LocalのL.就職予備校化する大学)やG型(GlobalのG. スーパーエリートの大学)の2極化が進むことをどう捉えるか。
(参照https://agora-web.jp/archives/1618134.html)
●大学はそもそも何のためか?別になくても、学べる場所・人と関わる場所があればいいのではないか。
私は「脱学校」論者であるので、「大学はなくてもいい」と思う。
ただ、大学の意義である「学びたいときに学べる場」「誰かと学び、誰かと関われる場」があるのであれば、という条件がつく。
教育社会学でさんざん教育の選別作用などについて学んできたので、「L型/G型」の議論はある意味「昔から言われてきた」ようなこと。
ちょっと前にも「専門職教育用の大学」(これが「専門職大学院」というものに化していった)と「研究用の大学」に分けることは提唱されていた。
しかし真の問題点は、この提言をはねのけていた「教授会」の権限が低下し、「学長のトップダウン改革」(という名の文科省支配)が重視されるようになってきた点にある。
つまり、「現代思想」というまさにG型の研究用大学の人が重視しそうな雑誌の書き手にとって、L型/G型、すなわち就職専門学校化する大学とスーパーエリート大学の2極化が現実になってきているからこそ、脅威に感じられているのであろう。
すでにL型/G型に近い形に大学は2極化している。
いまさら、そのことを批判しようとはしないし、そうなっていくほうが、学生にとっても進路が「見える化」することになる。
(あまりにも高すぎる目標および期待は、人間を駄目にする。三木清『人生論ノート』〈期待は人を押しつぶす〉に近い)
大学、というか高等教育機関の目的は人材の選別・配分にある。
高度な知識・技能が必要とされる職業に、「知識と技能がありそうな」人を送り込む機能である。
大事なのは「知識と技能がありそうな人」を送るという点。
それを見極めるのが「大学卒業」という学歴である。
人間の能力なんて、厳密に図ることは出来ない。
「血を見るのが苦手」な人が医学部に受かってしまい、たまたま医師国家試験に受かってしまうこともある。それで専門が「外科医」になる場合、「知識と技能」はあっても適性はない。
そういうこともある。
しかし、大体の場合うまくいく。
そういう制度が、社会では要求されるのである。
これ、教育社会学の「常識」なのだが、「それって、教育じゃないじゃん」という批判をモロに浴びる分野である。
大体の人は、大学というものに必要以上に幻想を持っている。
真理の探求や学友という存在、『三四郎』的な初恋、などなど。
けれど、そのいずれもが「別に大学じゃなくてカルチャーセンターでもいいんじゃないの」という問いに答えることはできないものだ。
だから「大学じゃなくてもいいんじゃないの?」と思ってしまう。