坂本佳鶴恵, 2005, 『アイデンティティの権力−−差別を語る主体は成立するか』新曜社.

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坂本佳鶴恵, 2005, 『アイデンティティの権力−−差別を語る主体は成立するか』新曜社.

「他者は、自己にとって自己と同じように独自の仕方で世界を認識し意味構成する認識主体として、あるいは逆に自己によって意味づけられる認識の単なる対象として、現れる。他者を「対象」として知覚する限り、他者の存在は私と世界の諸事物との関係を変えることはないが、他者を認識主体として認めるや否や、私はもはや自分を中心に世界を構成することができなくなる。世界のもう一つの中心としての他者の出現は、同様の意味作用の中心として権利づけられた他の身体による現実構成の中で、現実構成の主体から対象へと堕してしまう。ここには自己が自由な意味形成の主体から単なる状況的現実の一項にすぎない状態へと陥る恐怖が描かれている」(46)

「役割距離は、このように特定の役割期待の中で要求されるものもあるが、役割を遂行する個人についての一定の情報を与えることに利用される場合もある。いずれにしろ、役割距離は、遂行している役割以外の真の自己の存在を他者に呈示する。しかし、スティグマをもつ人々にとって、スティグマという役割から距離をとってみることは不可能である。スティグマを余裕をもって不真面目に演じることなどできないのである」(58)

「障害者は、障害を隠すことで健常者とみなされたり(パッシング)、「障害者」の役割を意識的に演じてみせたりするなど、自己表出をコントロールすることができる。こうした作業は、社会規範に基づいた一方的な自己規定に対して、自らの意志でコントロールできる部分を、少しでも見いだそうという、自らを「主体化」する努力といってもよい」(187)
→パッシングとはやり過ごすこと、みたいです。
「関係論的自我論では、自己を変えるためには、関係を変えなければならないが、関係を変えようとすれば、その前に自己を変えなければならないという循環に陥る。主体性重視の、ミード的自我論では、主我が客我を変えることになるが、主我は、客我に対する反応であるから、帰る対象が自らの前提になってしまう。そこで浅野が提示する物語論的自我論は、自我の変容を自己物語の書き換えとして考える。物語は、他者=セラピストに対して語り、その他者が物語の裂け目、非一貫性を指摘していくことで、新た|な物語が形成されていく」(196-197)
「語るという行為は、聴くという行為がなければ成立しない。自己についての語りは、他者による認知がなければ成立しないのである。では、自己はどのようにして他者に認知されるのか。どうすれば、「私」を認知させることができるのか。私を認知する〈聴く主体〉は、どのようにして成立し存在するのか。
 ポストモダンの、パロディやアイデンティティの流動化の戦略は、結局のところ、この〈聴く主体〉が存在しなければ、意味がない。換言すれば、〈聴く主体〉がいかに成立するかが、パロディなどの撹乱の戦略に先立つ重要な課題なのである。〈聴く主体〉は、一方的な啓蒙によってできるのではない。|それは、語る者との間の相互作用によって、成立する。語る者と聴く者が、主体となる以前の、流動的なアイデンティティの相互の変容に共同で取り組むこと、ともにマジョリティのアイデンティティとマイノリティのアイデンティティの間を往還していく、そうした準備ができていることが必要なのである。周縁的アイデンティティやその主体性という、語る主体の視点からばかりでなく、〈語る-聴く〉相互行為という視点からのアイデンティフィケーション論の構築が必要である」(坂本佳鶴恵, 2005, 『アイデンティティの権力−−差別を語る主体は成立するか』新曜社.229-230)
→アイデンティティは受容する他者・「聴く主体」がなければ成立しない。
「したがって、女性の立場を否定するのではなく、「女性」を女性(いま女性である人々)だけでなく、誰もが(現実にあるいは想像的に)」採りうる立場として開放し、相対化していくこと。社会に規定された女性という立場に依拠しつつ、その問題点を変革し、女性の価値を劣った価値としてではなく、男性とも共有できる価値として定義し直していくこと。自らのからだや欲求を、自らに対しても他者に対しても、積極的に肯定していくということ。そうしたことが必要になってきているのではないか」(295)

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