我々は教育というものはあらゆる人間社会に普遍的に存在するものである、と考えている。本書はヘヤー・インディアン社会をもとにして、人々の思い込みを打ち砕いてくれる。
ヘヤー・インディアンの話すヘヤー語には「だれだれから習う」「だれだれから教えてもらう」という表現が存在しない。
ヘヤー・インディアンの文化には、「教えてあげる」、「教えてもらう」、「だれだれから習う」、「だれだれから教わる」というような概念の体系がなく、各個人の主観からすれば「自分で観察し、やってみて、自分で修正する」ことによって「○○をおぼえる」のです。(180頁)
彼らの世界には「教えてもらう」ということはなく、「自分で学ぶ」ことしか存在しないのだ。狩猟の仕方も皮のなめし方もカヌーの作り方も、大人がするのを見て自分で試行錯誤して学ぶ。自律的・自発的・能動的な学びが実現しているのだ。
現在の日本社会では、この自発的な学びが無くなり、「他律的・強制的・受動的にさせられる行為に転化していく状態」(イリイチ『脱学校の社会』)となっている。言葉をかえれば、「学習のほとんどが教えられたことの結果だ」(『脱学校の社会』32頁)と勘違いをしてしまっている。教えられない限り学ぼうとせず、逆に「自分で学ぶのは危険だ」というメンタリティーになってしまう(通信教育が溢れているのは「自分で学ぶのは危険だ」との思想の表れであろう)。この日本の状況を原は次のように説明する。
現代の日本を見るとき、「教えよう・教えられよう」という意識的行動が氾濫しすぎていて、成長する子どもや、私たち大人の「学ぼう」とする態度までが抑えつけられている傾向があるのではないかしらという疑いを持つようになりました。(175頁)
まさにイリイチが批判した「学校化」が日本で起きているのだ。原は日本社会をみて《子どもも、青年も、「教えられる」ことに忙しすぎるのではないかと思うようになりました》(201頁)とも書いている。本来、「教える」のは一人で生きていける/一人で学んでいけるようにするために行う行為であった。けれど、「学校化」され「制度化」された日本社会では皆が「教えられる」ことに忙しすぎるようになってしまっているのだ。だからヘヤー・インディアンのように「学ぶ」ことを重視した生き方が必要ではないか、と原は提案している。
最後に、私にとって興味深かった点を紹介しよう。
「教える」、「教えられる」という概念がない、ひいては「師弟関係」などが成立しないという、このヘヤー文化の基礎には、「人間が人間に対して、指示・命令できるものではない」という大前提が横たわっているのです。ここどえは、親といえども子に対して指示したり命令したりすることはできない、と考えられているのです。人間に対して指示を与えることのできる者は、守護霊だけなのです。(187頁)