『スウィーニー・トッド フリート街の悪魔の理髪師』(SWEENEY TODD)
宮台真司によれば近代初頭、人々ははじめて「見知らぬ他者への信頼」をしなければ生きられなくなった。
たとえば床屋。見知らぬ理髪師にヒゲをそられる。切れ味鋭いナイフで。ひょっとすると、目の前にいる理髪師は殺人鬼かもしれない。けれど、信頼しなければヒゲをそることもできない。
たとえばレストラン。何の肉かも分からない。それ故、日本にマクドナルドが入ってきたときも「猫の肉を使っている」「実はミミズの肉が使われているんだ」という噂が広まった(宮台の本より)。
いまの社会は「見知らぬ他者への信頼」によっている社会である。けれど本来、「見知らぬ他者」は不安を感じさせる相手なのだ。人々の不安が、スウィーニー・トッド伝説を作り上げた。いかにも「ありうるかも知れない話」ゆえに、たびたびミュージカルで上演されてきた。
本作はその伝統を踏まえたミュージカル映画である。主人公・スウィーニー・トッドの生きがいは美しい妻とかわいい娘であった。床屋の仕事にも熱がこもる。けれど、彼の妻の美しさに惹かれたターピン判事によって彼は無実の罪で捕らえられてしまう。15年後にようやくかつて暮らしたロンドンに戻ってくることができた。けれど、妻は死に、娘はターピンの保護下にあるという事実を知る。
復讐のため、理髪店を再開させたトッド。判事を理髪店におびき寄せ、ヒゲをそるふりをしながら喉元をきって殺そうとする。待つ間、1階のミセス・ラヴェットと共謀して恐るべき犯罪を行い続けることになる。それは①2階の理髪店に来る客の喉元をカミソリで切り、②その肉を使ってラヴェットが1階のレストランでミート・パイを作り客に食わせる、というものだ。肉が新鮮なものだから、レストランは大繁盛なのだ。
2階の床屋で殺した人間の肉が1階でミートパイになるという恐怖。ゾクゾクしてくる。観た後で、見たことを後悔する映画はたまにあるが、本作もそんな映画の一つのような気がする。しばらく床屋にいけなくなったからだ。
映画を最後まで見て、いろんな意味で「見知らぬ他者への信頼」によって近代が成立しているんだな、と気づいたのである。だって、「見知らぬ他者」と思っている人が実は「最愛の人」であったのだから…。
教育学徒として一言。
本作ではトビーという子どもがキーパーソンを演じる。彼はミセス・ラヴェットのレストランで働くことになる人物である。彼は孤児院出身。はじめに「引き取って」くれた人物はトビーを自分の商売のためこき使っていた。本作の舞台となった19世紀中葉のイギリスでは児童労働が当たり前だったのだ。
この映画の舞台となったのは、子どもが結局損をする社会である。孤児院は「ひきとる」という名目で虐待的待遇で働かせる「大人」に孤児を渡す。その例が『オリバーツイスト』である。イギリスの子ども(特に孤児)の悲惨さを知れば、『子どもの権利条約』が成立した背景が分かる。マルクスも『資本論』で子どもの悲惨な労働の状況を批判している。
イギリスは人権先進国という。たしかに「人間」に権利を認めた。しかしその「人間」は生物学でいう人間とは別物だった。はじめは貴族、つぎは資本家、つぎは平民男子が「人間」だった。女性や「子ども」が「人間」扱いされるようになるのは最近のことである。つまり、かっこつきの人権思想であったのだ。
どうも法律中毒者のyamですw
熱心に社会学やってるみたいやね。
ところで、
「見知らぬ他者への信頼」は、
どのようにして、成立するのでしょう?
そもそも、見知らぬ他者なんか、信頼できないはずです。
それでも、信頼が成立して、しかも意見や取引をし合うことができる・・・。
信頼を支えるものってなんでしょうね?
また飲みで話せたらと思います。