千と千尋の神隠しより

千尋は映画の中で成長した。でも親はそれを知らない。

これは子どもは親の知らないところで成長していることを示しているのではないか。

神隠しは昔からずっとあった。異界を子どもがさ迷う体験である(高橋勝先生の教育人間学だ) 。高橋先生に因ると異界は子どものそばにあるらしい。

かくれんぼで身をひそめるとき、子どもは生きているとも死んでいるとも言えぬ世界に存在する。これが異界だ。またこのゲームの「オニ」というのも、現実にない存在との出会いを意味する。

異界との出会いのなかからも、子どもは育つ。異界との出会いでしか学べないこともある。千と千尋は、このことをとく話かも知れぬ。

カオナシ

千と千尋の神隠し

カオナシは現代人の象徴。個性がなく、ジコチュウ。
このカオナシはゼニーバのところで手芸の手伝いをすることになった。

これは何を意味するか。現代人の救済には、誰かのために行動すること・なにか手に汗して行動することにある、とのメッセージでないか。ゼニーバも「魔法で何でもやると何にもならない」といってるし。

ハンカチ

ようやく、人前で青ハンカチを使っても、ツッコミを受けなくなって来た。

自分が勝つと、師はもっと偉大になる。訓練を受けている人間であるならば。戦いの好き嫌い・自信の有無に関係なく、やるしかない。自分が勝つと、先生の勝利を体現できる。

苦しいことがなければ、訓練を受けなければ、人は偉大になれない。最近、「やりたくないことはやらなくていい」という、悪しき自由主義・放任主義がいきわたっている。いまはいいかも知れぬが、人生は長い。残りの生涯、どうすごすのか?

苦しいことがあっても、やりぬく。

「足元の蟻」感覚

ふと足元を見ると、蟻が大量にいて思わず驚く感覚。

当たり前だと感じていたもののあらたな一面を見つけるような感覚だ。旅をするのも、本を読むのも、そういった感覚を味わいたいからの行動であるかもしれない。

浜離宮

ここはセミと都心を走る車の音がミックスした空間である。

都会の真ん中の公園というのもいいものだ。

池を見ていると魚が跳ねているのがみえる。

浜離宮

ここはセミと都心を走る車の音がミックスした空間である。

都会の真ん中の公園というのもいいものだ。

築地市場

朝から築地にいった。朝いちでどこかに遊びに行くというのは楽しく朝に勝てる、いい方法だとおもう。

講演のとき、水を運んでくるひとがいる。受け取るとき、会釈して受け取るほうがいいのか何も言わないほうがいいのか、どちらだろう?

カベ

目の前の壁と格闘もできない人間が、偉大な人間になれるわけがない。こういうことを強く感じる。

いま、真剣に戦えずして、「いざ」というとき、将来の夢が叶うときに戦えるわけがない。このこともいま強く感じる。