中野→国分寺にいくのに、快速が10分後、各停が5分前にでているとしよう。この状態では快速をまつほうが早い。
しかし、中央線が遅れ、今各停がでるなら、そちらのほうが早い。むしろ快速にのる本来のルートより早く到着する。
遅れたほうが早い事もあるのだ。中央線は難しい。
中野→国分寺にいくのに、快速が10分後、各停が5分前にでているとしよう。この状態では快速をまつほうが早い。
しかし、中央線が遅れ、今各停がでるなら、そちらのほうが早い。むしろ快速にのる本来のルートより早く到着する。
遅れたほうが早い事もあるのだ。中央線は難しい。
俺はまるで機械である。あらゆることを、単に作業としてとらえている。行動の中に、「何のため」という『思い』を込められていない。そして、単に「こなす」だけの生活である。自分で「何故こういうことをするのか」考えていない。「やらないよりまし」との理論を常に持ち、行動の意味を考えない。主体性なく、こなしている。
これではいけないと、真剣に思う。「作業」を超えよ。もっと、行動の中に思いを入れていけ。
この点ができるようになれば、自分はもっとすごい人間になれるはずだ。その姿を想像すると、興奮してくる。
自分の一凶ともいえるこの点。何としても変えていく。
久しぶりに昼まで寝ていた。寝れる幸せ・虚しさを同時におぼえる。
はじめは挨拶や御礼も言えなかった千尋が、映画の中で人間的成長を遂げる。この急激さはカエル男やナメクジ女、魔女にも驚きとして映っていることだろう。
子どもの成長の急激さを思う。成長にはしかるべき環境と場に置かれたほうがよい、ということも。
知を権力と見なした。
かつて社会のなかにあふていた狂気は、近代になって精神病院に囲まれるようになった。
近代人は古代や中世のひとと違う見方をしているだけだ。人はその生きる時代に特有のものの見方にとらわれ、その外に出ることは出来ない。誰もが一定の思考の枠組みにとらわれている。
職人には仕事道具がつきものだ。学生を学ぶ職人とみるならば(徒弟制がまだ学術界では生きている)、学生の仕事道具は何であろう。
筆記具、本、紙、パソコン、人脈ではないか。
このなかで個人の努力でグレードをあげれるものは、上げるべきである。
筆記具は、もっともレベルを上げやすい。
仕事道具たる筆記具に、学生はどれくらい気を配っているのだろう。仕事道具にこだわらないで、いい仕事つまり学問が出来るはずがないのである。
サルトルの本名を、ずっとダンボール・サルトルだと思っていた。
都バスの喜久井町駅ではアナウンスに「金光教早稲田教会入口はこちらでございます」と流れる。
これって、都が特定の宗教団体を保護してることにならないの?
イスラムの侵入→ヒンドゥーと、抗ヒンドゥーの役割を持っていた仏教という2極構造がかわる→仏教のもつ抗ヒンドゥー的要素、イスラムに取って代わられる→インドに於ける仏教の政治的役割消滅
サドーヴニチというモスクワ大の教授がある本で引用していた。数学にしか感心がなく、大教授でありながら、ながもちをベッドに4人共用の部屋に住み、給料をそっくり他人に渡してしまう男の話である。実在の人物だというので驚いたのを覚えている。
しかし今気付いた。自分はほとんど家におらず、ながもちしか持たない教授とほとんど同じ生き方をしているのでないか、と。