田舎の価値、都会の価値

田舎にいく。そこに価値を感じられない人は、都会の本当の価値を気付くことも出来ないのではないか。

ドストエフスキーの言葉

君たち、仮に人間は馬鹿でないとしよう。(中略)しかし、たとえ馬鹿でないとしても、呆れるほど感謝の念がない。桁外れの恩知らずだ。人間に最もふさわしい定義は、恩知らずの二本足だ、と俺は思っているくらいなんだ。しかし、これだけじゃない。これはまだ人間の主要な欠点ではない。最も重要な欠点は、絶え間なき善行の不在だ。(「地下室の手記」より)

パリ、テキサス的世界

自分は不意にすべてを投げ捨てどこかに行きたくなる。映画「パリ、テキサス」 のラストに同じ。

自分の精神的弱さが原因か。

小牧治著『カント』(清水書院)より

そもそもわたしが、カントの考え方に感激したのは、つぎのことだった。すなわち、この世の幸福を追うのではなく、その幸福を受けるに値すること、つまり、道徳的義務の命令(純粋な理性の要求)にしたがうこと、それを、人間の尊さの源泉としたことだった。(p18)
→幸福になること自体でなく、幸福になるだけの行動をすることが重要なのだ。

人は、人事をつくして、しかもつくしえない自己をなげくとき、かえってそこで、「人事をつくして天命をまつ」の境にふれるのである。天助としての神を望むことがゆるされるのである。あらんかぎりの努力をするとき、自らの物理的能力のうちにないものが、より高い存在である神の協力によって補われるのを、望みうるのである。それこそは、純粋理性の信仰とも称しえよう。ここから宗教への道も通じるのである。(p185)
→神頼み的宗教は、無意味である。努力したことを最大限に発揮するために、宗教があるのではないか。よく仏法は道理といわれるゆえんであるのでないか。

blog

blogは自己目的化する。

一般に、自己目的化を防ぐのは難しい。

本の一節

詰め込み教育は、詰め込んでいない

効率主義に対しての批判は、効率が上がっていないために起こる

教科書は厚いほうがいい

詰め込みや理解重視か、受け身型学習かそうでないかという2者択一の思考でなく、学習者にとってどちらが学習しやすいかを問うべきである。

勉強法のワナ

どこの予備校にも、勉強法専門家然とした学生がいる。この人たち、何故か受からない。

方法論は、自己目的化する傾向性がある。方法を知っても実行しなくなるのだ。

受験生は勉強法の本にはまる。私も和田秀樹に始まり柴田氏などにうつっていった。そして気付く。勉強、ほとんどしてないじゃん、と。

方法を知った方が、効率は上がる。大事なのは何のための方法論か忘れず、方法論にもてあそばれないようにすることだ。

モンテーニュのエセーに、

自分は猫と遊んでいるが、本当は私が猫に遊ばれているのでは

という一節がある。方法論はあくまで方法論なのだとの自覚を忘れてはならないだろう。

一人暮しの虚しさ

一人暮しなのに家出する

某賃貸業者の広告にあった。始め、実感しなかったが、今よく思う。

家に帰っても何もプラスがない、寝るしかない。家にいても虚しい。一人暮らしでは常に思う。

異業種の交流

無印には、通常の店には売っていないものが多い。発想が他と違うのだ。異業種交流というわけではないが、異視点の発想が思わぬ成功を呼ぶことがある。

人間主義とは、使う人のことを最大に尊重する立場である。人間主義のためには各業界の枠を越えた、新たな視点からの発想が、固定観念を破る上で役に立つのかも知れない。