2015年 3月 の投稿一覧

JCBギフトカード、その傾向と対策。

知り合いからJCBギフトカードをはじめ、商品券をもらった場合。
どのように使うかに、その人の人間性が現れる。

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だいたいの場合、「特別な買い物」に使用される傾向が強い。

例)「ブランドのバックを買うから、ギフトカードを使おう」
例2)「ギターを買い換えるときに使おう」

しかし、あらゆる商品券は一種の「負債」である。
もらっても、持っているだけでは1円の価値も発生しない。
使用してはじめて価値が発生する。

似た話は最近のTポイントやPontaカードのポイントにも当てはまる。
ためにためて数百・数千ポイント溜まっていても、使わなければ1円の価値もない。

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結論。

JCBギフトカードこそ、ふだんのスーパーの買い物に使う。
はやく使用し切ることで、その価値が発生する

「贈り物」の「大事」で「貴重」なギフトカードこそ、「普段使い」で「しょうもなく」「ふつうに」使ってしまうほうが、価値的。

人からもらった図書券もギフトカードも、使用しないままタンスに眠ることがある。
現金と違い、預金もできず、ほっておくと使用期限が切れてしまうことがある。

私は、そう思う。

佐々木常夫, 2010, 『働く君に贈る25の言葉』WAVE出版.①

久しぶりに、心が震えるビジネス書を読んだ。
それが本書『働く君に贈る25の言葉』。

そうか、君は課長になったのか』の著者で、
東レの取締役を務めた佐々木氏の著書。

この人の話、私はDVDで見たことがあるけれど、
それはそれはすごい人。

 

息子さんが自閉症で、奥さんが鬱病+自殺未遂数度。
仕事でも忙しい部署の部長。
しかも、家族が東京にいるのに、大阪勤務
毎週、関東に戻り、家事をやり、月曜には大阪に出勤。
もう、「考えたくない」生活。

 

私の人生にも、苦しい時がありました。
覚悟を揺るがせるような試練が、次々と襲い掛かったのです。
長男の俊輔は自閉症という障害をもって生まれました。自閉症とは先天的なもので、育て方で治るものではありません。私たち夫婦は、ほとんど毎日のように、彼をサポートするために走り回らなければなりませんでした。(・・・)|
さらに、試練は訪れました。
妻の浩子が肝臓病を患い入退院を繰り返すようになったのです。しかも、俊輔にまつわる心労に加え、自分の病気のために家族に負担をかけていることを気に病んだことから、うつ病を併発するに至りました。
この間、会社ではまるで私の力を試すかのように、さまざまな部署への転勤が繰り返され、東京と大阪を6度も移動せざるをえませんでした。
妻のうつ病がひどかった時機には、経営企画室長という重責を担っていました。経営と現場の結節点に位置する要の役職でしたが、何人もの役員を上司とする立場でしたから、極めて大きなストレスを私に強いるものでもありました。
ときに叫び出したいような思いを抱えながらも、私は家族と仕事を両立させるために必死の思いで耐えていました。




しかし、決定的な出来事が起こります。
3度に及ぶ妻の自殺未遂です。
3回目のときは、もしも娘がたまたま発見しなけれな、妻は命を落としていたでしょう。(・・・)|

この直後の私はほとんど限界に来ていました。「何のためにこんなに苦労しているのか」と思い、「これはいったい何なのだ」「私の人生はどうなっているんだ」と、ほとんど自暴自棄の気持ちでした。
それでも、朝は訪れ、夜は来ます。私の気持ちも、少しずつ落ち着きを取り戻していきました。そして妻が、「ごめんな、お父さん、迷惑ばかりかけて」と心底情けなさそうに言うのを聞いて、「いちばん苦しんでいるのは彼女だろう。私ではない」と思い至ったのです。
「何のためにこんな苦労をしているのか」といった「何のため」という問題ではないのだ。要は、自分が出会った人生であり、自分が選んだ人生なのだ。それは運命として引き受けるしかない。恨んでも愚痴を言っても、事態は変わらないのだ−−。
私は、そう自分にいい聞かせて、再び人生に立ち向かう気力を取りも出したのです。(175-177頁)

 

その結果、奥さんから
この人からは、親よりも深い愛情をいただきました」(178頁)と言ってもらえるに至る。
この一言が、どれだけ嬉しかったことか」(178頁)。

 

いつも思い出すのは、「運命は引き受けよう」と言って微笑む母の姿です。26歳で未亡人になって、男4人兄弟を育てるために働きづめに働いた母です。しかし、母は愚痴を言うことなく、どんなときでもニコニコ笑っていました。
母は、いつも私の心の中にいました。そして、こう語りかけてくれたのです。|
運命を引き受けて、その中でがんばろうね。
がんばっても結果が出ないかもしれない。
だけど、頑張らなければ何も生まれないじゃないのー。(178-179頁)

 

不覚にも、涙してしまったところです。
運命を引き受けることこそ、生きるということなのです」(179頁)の名言は、いつまでも覚えていたいと思っています。

特にいいのは、『それでもなお、人を愛しなさい』からの引用部分。
孫引きですが、これは名言です。

1 人は不合理で、わからず屋で、わがままな存在だ。それでもなお、人を愛しなさい。

2 何か良いことをすれば、隠された利己的な動機があるはずだと人に責められるだろう。それでもなお、良いことをしなさい。

3 成功すれば、嘘の友達と本物の敵を得ることになる。それでもなお、成功をしなさい。

4 今日の善行は明日になれば忘れられてしまうだろう。それでもなお、良いことをしなさい。

5 正直で素直なあり方はあなたを無防備にするだろう。それでもなお、正直で素直なあなたでいなさい。

6 最大の考えをもった、もっとも大きな男女は、最小の心をもった、もっとも小さな男女によって打ち落とされるかもしれない。それでもなお、大きな考えをもちなさい。

7 人は弱者をひいきにはするが、勝者の後にしかついていかない。それでもなお、弱者のために戦いなさい。

8 何年もかけて築いたものが一夜にして崩れ去るかもしれない。それでもなお、築き上げなさい。

9 人が本当に助けを必要としていても、実際に助けの手を差し伸べると攻撃されるかもしれない。それでもなお、人を助けなさい。

10 世界のために最善を尽くしても、その見返りにひどい仕打ちをうけるかもしれない。それでもなお、世界のために最善を尽くしなさい。(39-40頁)

 

しみじみ、ジーンとくる。

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こちらもどうぞ!

  1. 上阪徹, 2013, 『成功者3000人の言葉』飛鳥新社. (4)
  2. 湯浅誠, 2012, 『ヒーローを待っていても世界は変わらない』朝日新聞出版。 (4)
  3. 藤野英人, 2013, 『投資家が「お金」よりも大切にしていること』星海社新書.② (4)
  4. 中高生が「ちくまプリマー新書」を投げ出すのは、どんな時か? (4)

『「自由」はいかに可能か』読書会、開催!

本日2/28、『「自由」はいかに可能か』読書会を、読書会@札幌-帯広にて開催しました!

本書『「自由」はいかに可能か』は、私・藤本にとっては大学の学部・大学院の先輩にあたる苫野一徳さんの初の「哲学」著作。

奇しくも誕生日が同じという偶然も有りますが、その日に開催したことに(なんとなく)運命的なものを感じます。

それはさておき。

本書は自由の原理論を説いたもの。
私のような社会学くずれの人間にとって、「自由」や「正義」などはいくらでも/延々に議論できる対象です。

例)「人を殺してはいけないという反-自由権はいかに規定できるか」
例2)「教育によって人間は人間社会という暴力に侵され、それゆえに不自由である」

本書はそんな「不毛」な議論を断ち切ってくれます。

社会構想のための「原理」と認められうるのは、わたしの考えでは次の三点だけである。
①「欲望・関心相関性」の原理
②「人間的欲望の本質は『自由』である」という原理
③各人の「自由」の根本条件としての、「自由の相互承認」という社会原理(150)

 

読書会中、不毛な議論を終わらせるものとして「自由の本質を問うこの本は役立つよね」という意見が出ました。

ただ、「哲学者の引用によって【自由】を規定するのは、理論としてわかるけど、納得するのは難しい」との意見も出ています。

「自由」というのは日常語。
だからこそ哲学で議論する際は厳密さが必要。

カントやヘーゲルの言を引いて説明するのは、日常語としての「自由」と距離があるので、「腑に落ちた感」を出すというのはなかなか難しいなあ、と実感しています。

さて。

本書ではあまり気づかれていないけれどすごく大事なのは後半の「職業集団」に関するところ。

人は、何らかの職業を通して「現実的普遍のなかに位置を占る」、つまり人との関係において自己を自己たらしめる。わたしたちが”Who”(だれ)として現れ出ることを最も可能にするのは、多くの場合、このようなわたしたちの職業世界においてなのだ。
それはつまり、職業世界こそが、わたしたちにとってのより充実した「現われの空間」になる必要があるということだ。(242)

「現われの空間」とは、アーレントが『人間の条件』において示した、パブリック(公共圏)の条件である。

対話的関係性により、自己を認識し、対話により自己を変容する。
その過程の中で「自由」を実感できる場。

読書会の中では、事例として「奨学金制度」をもとに話しています。
奨学金制度。
要は低利子の借金をして大学に通う制度ですが、4年間フルで借りると数百万の借金

それを背負って社会に出ることは本当に「平等」「フェア」といえるのか?

学生個人としてだと、【まあ仕方ない】と思ってしまいます。

でも、学生団体のなかで奨学金制度について議論したり、
世間一般の人の意見を聞くと【これでいいの?】と思える制度です。

個人がいきなり「社会」と接すると、「まあ、仕方ない」「つらいけど、こんなものだろう」と思ってしまう制度も、「職業集団」的な学生の集まりや他の「大人」との議論に加わることで、
「これって、本当に自由の実質化なの?」と問題提起できます。

個人は、ハッキリ言って弱いです。
特に、日本のような「空気」全盛の社会にとっては、なおさらです。

だからこそ、「職業集団」的な対話の場・公共圏を用意していくことは必要なのでしょう。

「読書会@札幌-帯広」も、こうした公共圏を提示する場でありたいものです。

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