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田中ちひろ, 2013, 『悩みの9割を消す技術』ダイヤモンド社。

悩むことの多い人生。

悩む人がたくさんいる分、「悩み事相談」「悩みを乗り越える」本はたくさんある。

結構、その手の本を読んできた私であるが、あまりグッと来る本に出会ったことは少ない。
大体は「悩みがあるのは自然なこと」「悩みを成長に向けよう」という精神論ばかり。
それでも役だったのはフランスの哲学者・アランの『幸福論』。
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アランは〈いますぐ、ここで、「幸せになる」という決意をしなさい〉という。
「幸せになろう」と思わないと、幸せになれない。
悩みも、悩んで役立たない悩みなら悩むな、という発想を提唱する。
不幸になるのは間違った考え方だ、ということ。
ならば不幸につながる悩みは悩まないほうがいい。
アランは悩みに向かう姿勢としてすごく役立った。
しかし。
何をもって「間違った考え方」というかは、アランは言っていない。
悩みの乗り越え方の根本的な方法を、アランは教えてくれないのだ。
本書『悩みの9割を消す技術』は、アランに欠ける部分を埋めてくれる良書。
「悩みの9割」は人間関係から生じている。
人間関係はコミュニケーション不全から生じる。
だから、コミュニケーションについて学べば「悩みの9割」は「消える」のだ。
 
13ページの「人間の脳の「5つの思考レベル」」の表には、本書のエッセンスがすべて詰まっている。
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基本的に、人間の悩みや苦悩は、相手の発言の「取り違い」から生じている。
 
例えば、テストの点数の悪かった子どもに、
君はこんな問題も出来ないのか」という言い方をしたとする(私はいいません、念のため)。
親や教員としては、ただ「このテストの、この簡単な問題をミスしているのだから、もっと基本を勉強しなさい」という意図で言っている。
13ページの表で言う「行動」のレベルの話である。
相手が単に問題を解けていないという「行動」に即して話している。




しかし。
子どもはそうは思わない。
自分の「アイデンティティ(個性)」が否定された、と感じてしまう。
つまり、自分の全存在が否定された、と感じてしまうのだ
 
親や教員は決して全存在を否定しようとしていないにもかかわらず、である。
特に「日本語は、文法的に「相手自身のこと」を指示してしまう傾向がある」(50)からこそ、このズレは頻繁に起こる。
他者から見えるのは、この表の「環境」のレベルと「行動」のレベルの2つだけ。
基本的に相手からなにか言われる時は、「環境」と「行動」についてしか言われない。

「やる気があるのか!」という言葉は、本当にやる気という思いがないからいう言葉ではない。

ダラダラしている「行動」や、ゴミが周囲に散らかっているという「環境」についてを見て行っているだけである。
だって、「やる気」という心の動きは目には見えないのだから。
 
「やる気があるのか!」と言われた時の正しい対処は、
「やる気あるよ!」という言い返しでもなく、
「ああ、怒られた・・・」というアイデンティティ(個性)の落ち込みでもなく、
「自分のどの行動や、自分の周りのどの環境が〈やる気があるのか!〉といわれる原因になったか、考えよう。わからないなら質問しよう」という気づきをすることである。
 
このように、他者からの批判・注意・指摘はすべて自分のアイデンティティ(個性)のことを言っているのでも、
価値観について言っているのでも、技術やノウハウについて言っているのでも、無い。




このことに気づいてから、急に生きるのが楽になった気がする。
それくらいこの本はすごく役に立つ。
人によっては辞表を撤回したり、自死を思いとどまったりするほどの効果を持つ。
あ、そうか。あの発言は別にオレの人間性を否定していたんじゃないんだ!
この気付きは、実は本当に役立つものだった。
追記
しかし、私はこの本よりも、同タイトルのDVDの方が役立った。
TSUTAYAだと100円もしないで借りれるが、本当にグッと来た。
動画の中で筆者に語ってもらうほうが、感動もひとしおとなった。

湯浅誠, 2012, 『ヒーローを待っていても世界は変わらない』朝日新聞出版。

タイトル自体が名言、と言える本はいくつかある。

『さおだけ屋はなぜ潰れないか』にはじまる、問いかけ系の新書や、
「今でしょ!」のあの本など、いろいろ。

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考えれば、夏目漱石の『吾輩は猫である』なんて、冒頭一文をそのまま持ってきたものでありながら、知名度が高い表題である。

本書も、そんなタイトルが名言な本の一つ。

政治の世界においての「ヒーロー待望論」は、実は民主主義という制度の根本的な廃棄につながる。
そのことが、かえって少数者(ホームレス・貧困etc)の権利を損ねるのではないか?

本書はそれを問いかける。

民主主義というのは面倒くさいものだ。そして疲れるものだ。その事実を直視することから始めよう、というのが本書の提案だ。(4)

 

「強いリーダーシップ」を発揮してくれるヒーローを待ち望む心理は、きわめて面倒くさくて、うんざりして、そのうえ疲れるという民主主義というシステムを、私たちが引き受けきれなくなってきている証ではないかと、私は感じています。(68)

だから、「ヒーローを待っていても世界は変わらない」。
利害調整をしながら少しずつ活動していくか、ない。

その際に必要なのは、「〜〜が悪い!」などと声高に叫ぶのではなく、相手に通じる言葉で話しかけること。

自分の言いたいことを言うだけでは決してこの人たちには通じない。この人にも通じる言葉とはどんな言葉だろうか。自分に、自分と同じ経験、同じ土台を持たないこの人を説得できる言葉はあるだろうか。なければ編み出していかないといけない。そう考えると、その人が目の前にいる現実は、自分にチャレ|ンジを課している、と感じられました。(11-12)

 

U理論同様、「他人の目玉」で物を見る、ということが社会活動の基本。
「他人の目玉」という「外部」を織り込んだ、地道な活動が求められている。

戦後になって、日本では「国民主権」となった。
「国民主権」とは、国のあり方を最終的に決める権限は「国民」にある、ということ。

逆に言うと、「国民」である以上、決定をしなければならないということ。
仕事や介護でヘトヘトな人も、決定を求められる。

そんなとき、余裕の無さから橋下徹大阪市長のようなヒーローを人びとは求める。
代わりに決めてくれる人として。

しかし、真の社会の豊かさは「こんなこともあるよね」「こうもいえるよね」という、工夫や対話を繰り広げるところから生まれていく。

 より多くの人たちが相手との接点を見出すことに注力する社会では、自分たちで調整し、納得し、合意形成に至ることが、何よりも自分たちの力量の表れと認識されるようになります。
意見の異なる人との対話こそを面白く感じ、同じ意見を聞いても物足りなく感じます。同じ意見にうなずきあっていても、それを超える創造性あは発揮されないからです。
難しい課題に突き当たるほど、人びとはその難しさを乗り越える工夫と仕掛けの開発に熱意を燃やし、それを楽しく感じます。創意工夫の開発合戦が起こり、創造性が最大限に発揮される社会です。私たちは「こんな面白いことを誰かに任せるなんて、なんてもったいない」と感じるでしょう。(155)

だからこそ、本書のラストは印象的。

 ヒーローを待っていても、世界は変わらない。誰かを悪者に仕立て上げるだけでは、世界は良くならない。
ヒーローは私たち。なぜなら私たちが主権者だから。
私たちにできることはたくさんあります。それをやりましょう。
その積み重ねだけが、社会を豊かにします。(156)

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追記

本書は、本当に貧しくて、時間を割けなくて、なおかつ生きるのが困難な人に目を向けた上での市民活動でなければ意味が無い、というような視点が強い。
この視点、私には欠けていたものだったので、参考になった。

プロフェッショナル仕事の流儀 院内学級教師 副島賢和の仕事

涙も笑いも、力になる」とのキャッチフレーズ。
「プロフェッショナル仕事の流儀」のDVDシリーズにも、教員・教育業についてはいろいろあるが、印象的なのはこの1本。

院内学級
知られていない人も多いけれど、病院の中にある、入院中の子どものための学校。

メンバーは日々変わるし、退院=卒業。

決して、「主役」としての教師には、なれない。
サッカーで言うと、常にパスを出し続ける選手。

重い病気を背負いながら通う子どもたち。
あまり経験したくないけど、「生徒が途中で病でなくなる」という悲哀も、まま経験することがある。

自分を責めたり、近づく手術の不安を示したりする。




私も札幌の院内学級である札幌病院の院内学級「ひまわり分校」を訪問したことがあるが、あの雰囲気は独特。

でも、その悲哀を感じさせないくらい、楽しそうな学級の様子。
なんかフリースクールみたい、と感じる。

そこで「教員」をやる副島氏。
DVDには出てこないほど、沢山の悲哀を感じてきただろう。

副島氏は「あえて笑わせる」というクラウン教師。
笑えないだじゃれを言う、あえてドジをやる。

赤鼻を付けて、ピエロに扮する。

ピエロは、顔に涙を描く。
ピエロは笑われるのが仕事。
たくさんの悲しさを感じてきたからこそ、逆にまわりを笑顔にできる。




副島氏は「体動かすの、大好き」という、バリバリの体育教師だった。
でも、急に肺の病に侵され、5年間、入退院を繰り返す。
そして、「激しい運動ができない」申告を受ける。

その悲哀を経験し、自らの「教師業」を振り返る。
仕事を中断し、大学院へも行く。

復帰後、院内学級で出会った少年から、自分のやるべきことを見つける。
それが院内学級の教師という仕事。

子どもたちを元気にする仕事。

すごいのはすごいけど、すごさが表面に出てこない。

一件、普通のおっちゃん。
でも、涙もろい。

「同業者」として、素直に凄いと思う。

特に、「子どもと向き合う姿勢」はなおさら。

どうでもいいけど、あえてかすれ声を使いこなせる所、私も学びたい。
同業者として。

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ファシリテーションを「やる」ことには何の意味も無い。

ファシリテーションについて学び始めの頃、
おそらくやってしまいがちな「間違い」があります。

それは、イベントやミーティングの際に
「どのファシリテーション技術を使うか」考えるところから始めてしまうところです

かくいう私も、けっこう最近までこの間違いにはまっていました。

このことは、いったいどこが間違っているのでしょうか?

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それは、ファシリテーションというのはあくまで「技術」・「手段」である、ということです。

「どのファシリテーション技術を使うか」ではなく、
まずは「今回の目的はなにか」を考えることから始めるべきなのです。

ファシリテーションは、スムーズにイベントやミーティングを進めるために行うものではありません(よく考えられる間違いです)。

ファシリテーションは、イベントやミーティングの「目的」を達成するための道具です。

手段を目的化してしまうのは世の中にある、よくある「間違い」です。

もし、チームを「一度グチャグチャにして、再度気づきを与える」ことを目的にするなら、下手なファシリテーション技術でスムーズに進行してしまったら、何の意味もなくなります。

いったい、目的はなにか?

その問い直しから始めたいなあ、と思ってます。

高校時代と密度。

一昨日は、勤務校の卒業式。
卒業する生徒との思い出を思い出し、感無量。

卒業する姿を見ていると、自分の高校時代を思い返してきた。

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高校時代は、短い3年間。
大学は4年だし、仕事はずっと続く。

人生の中において、高校時代はすごく短い。

けれど。
授業と部活動、
アルバイト、遊び、そして恋愛などなど。

短い間に、まあ大量の「やりたいこと」が入ってくる。

私は高校時代は寮生活をしていた。

寮というのは、ただいるだけで「やること」が増えるところである。
洗濯・掃除を自分でやる他、先輩-後輩との関わり、同級生との関わり等、「やること」「やりたいこと」が多くある。

私自身は寮生活も入るが、高校時代というのはたくさん「やりたいこと」がある。
そして、現実に「やりたいこと」をどんどんやっていくことができている。

しかも、自分の将来に努力次第で近づくことができる。

そんな時期は、高校時代を於いて他にない。
だからこそ、高校時代は密度が高い。

社会人になってからこそ、思う。
人は高校時代ほど、深く生きれないのではないか。
密度高く、生き方を考えられらないのではないか、と。

佐々木常夫, 2010, 『働く君に贈る25の言葉』WAVE出版.①

久しぶりに、心が震えるビジネス書を読んだ。
それが本書『働く君に贈る25の言葉』。

そうか、君は課長になったのか』の著者で、
東レの取締役を務めた佐々木氏の著書。

この人の話、私はDVDで見たことがあるけれど、
それはそれはすごい人。

 

息子さんが自閉症で、奥さんが鬱病+自殺未遂数度。
仕事でも忙しい部署の部長。
しかも、家族が東京にいるのに、大阪勤務
毎週、関東に戻り、家事をやり、月曜には大阪に出勤。
もう、「考えたくない」生活。

 

私の人生にも、苦しい時がありました。
覚悟を揺るがせるような試練が、次々と襲い掛かったのです。
長男の俊輔は自閉症という障害をもって生まれました。自閉症とは先天的なもので、育て方で治るものではありません。私たち夫婦は、ほとんど毎日のように、彼をサポートするために走り回らなければなりませんでした。(・・・)|
さらに、試練は訪れました。
妻の浩子が肝臓病を患い入退院を繰り返すようになったのです。しかも、俊輔にまつわる心労に加え、自分の病気のために家族に負担をかけていることを気に病んだことから、うつ病を併発するに至りました。
この間、会社ではまるで私の力を試すかのように、さまざまな部署への転勤が繰り返され、東京と大阪を6度も移動せざるをえませんでした。
妻のうつ病がひどかった時機には、経営企画室長という重責を担っていました。経営と現場の結節点に位置する要の役職でしたが、何人もの役員を上司とする立場でしたから、極めて大きなストレスを私に強いるものでもありました。
ときに叫び出したいような思いを抱えながらも、私は家族と仕事を両立させるために必死の思いで耐えていました。




しかし、決定的な出来事が起こります。
3度に及ぶ妻の自殺未遂です。
3回目のときは、もしも娘がたまたま発見しなけれな、妻は命を落としていたでしょう。(・・・)|

この直後の私はほとんど限界に来ていました。「何のためにこんなに苦労しているのか」と思い、「これはいったい何なのだ」「私の人生はどうなっているんだ」と、ほとんど自暴自棄の気持ちでした。
それでも、朝は訪れ、夜は来ます。私の気持ちも、少しずつ落ち着きを取り戻していきました。そして妻が、「ごめんな、お父さん、迷惑ばかりかけて」と心底情けなさそうに言うのを聞いて、「いちばん苦しんでいるのは彼女だろう。私ではない」と思い至ったのです。
「何のためにこんな苦労をしているのか」といった「何のため」という問題ではないのだ。要は、自分が出会った人生であり、自分が選んだ人生なのだ。それは運命として引き受けるしかない。恨んでも愚痴を言っても、事態は変わらないのだ−−。
私は、そう自分にいい聞かせて、再び人生に立ち向かう気力を取りも出したのです。(175-177頁)

 

その結果、奥さんから
この人からは、親よりも深い愛情をいただきました」(178頁)と言ってもらえるに至る。
この一言が、どれだけ嬉しかったことか」(178頁)。

 

いつも思い出すのは、「運命は引き受けよう」と言って微笑む母の姿です。26歳で未亡人になって、男4人兄弟を育てるために働きづめに働いた母です。しかし、母は愚痴を言うことなく、どんなときでもニコニコ笑っていました。
母は、いつも私の心の中にいました。そして、こう語りかけてくれたのです。|
運命を引き受けて、その中でがんばろうね。
がんばっても結果が出ないかもしれない。
だけど、頑張らなければ何も生まれないじゃないのー。(178-179頁)

 

不覚にも、涙してしまったところです。
運命を引き受けることこそ、生きるということなのです」(179頁)の名言は、いつまでも覚えていたいと思っています。

特にいいのは、『それでもなお、人を愛しなさい』からの引用部分。
孫引きですが、これは名言です。

1 人は不合理で、わからず屋で、わがままな存在だ。それでもなお、人を愛しなさい。

2 何か良いことをすれば、隠された利己的な動機があるはずだと人に責められるだろう。それでもなお、良いことをしなさい。

3 成功すれば、嘘の友達と本物の敵を得ることになる。それでもなお、成功をしなさい。

4 今日の善行は明日になれば忘れられてしまうだろう。それでもなお、良いことをしなさい。

5 正直で素直なあり方はあなたを無防備にするだろう。それでもなお、正直で素直なあなたでいなさい。

6 最大の考えをもった、もっとも大きな男女は、最小の心をもった、もっとも小さな男女によって打ち落とされるかもしれない。それでもなお、大きな考えをもちなさい。

7 人は弱者をひいきにはするが、勝者の後にしかついていかない。それでもなお、弱者のために戦いなさい。

8 何年もかけて築いたものが一夜にして崩れ去るかもしれない。それでもなお、築き上げなさい。

9 人が本当に助けを必要としていても、実際に助けの手を差し伸べると攻撃されるかもしれない。それでもなお、人を助けなさい。

10 世界のために最善を尽くしても、その見返りにひどい仕打ちをうけるかもしれない。それでもなお、世界のために最善を尽くしなさい。(39-40頁)

 

しみじみ、ジーンとくる。

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こちらもどうぞ!

  1. 上阪徹, 2013, 『成功者3000人の言葉』飛鳥新社. (4)
  2. 湯浅誠, 2012, 『ヒーローを待っていても世界は変わらない』朝日新聞出版。 (4)
  3. 藤野英人, 2013, 『投資家が「お金」よりも大切にしていること』星海社新書.② (4)
  4. 中高生が「ちくまプリマー新書」を投げ出すのは、どんな時か? (4)

『「自由」はいかに可能か』読書会、開催!

本日2/28、『「自由」はいかに可能か』読書会を、読書会@札幌-帯広にて開催しました!

本書『「自由」はいかに可能か』は、私・藤本にとっては大学の学部・大学院の先輩にあたる苫野一徳さんの初の「哲学」著作。

奇しくも誕生日が同じという偶然も有りますが、その日に開催したことに(なんとなく)運命的なものを感じます。

それはさておき。

本書は自由の原理論を説いたもの。
私のような社会学くずれの人間にとって、「自由」や「正義」などはいくらでも/延々に議論できる対象です。

例)「人を殺してはいけないという反-自由権はいかに規定できるか」
例2)「教育によって人間は人間社会という暴力に侵され、それゆえに不自由である」

本書はそんな「不毛」な議論を断ち切ってくれます。

社会構想のための「原理」と認められうるのは、わたしの考えでは次の三点だけである。
①「欲望・関心相関性」の原理
②「人間的欲望の本質は『自由』である」という原理
③各人の「自由」の根本条件としての、「自由の相互承認」という社会原理(150)

 

読書会中、不毛な議論を終わらせるものとして「自由の本質を問うこの本は役立つよね」という意見が出ました。

ただ、「哲学者の引用によって【自由】を規定するのは、理論としてわかるけど、納得するのは難しい」との意見も出ています。

「自由」というのは日常語。
だからこそ哲学で議論する際は厳密さが必要。

カントやヘーゲルの言を引いて説明するのは、日常語としての「自由」と距離があるので、「腑に落ちた感」を出すというのはなかなか難しいなあ、と実感しています。

さて。

本書ではあまり気づかれていないけれどすごく大事なのは後半の「職業集団」に関するところ。

人は、何らかの職業を通して「現実的普遍のなかに位置を占る」、つまり人との関係において自己を自己たらしめる。わたしたちが”Who”(だれ)として現れ出ることを最も可能にするのは、多くの場合、このようなわたしたちの職業世界においてなのだ。
それはつまり、職業世界こそが、わたしたちにとってのより充実した「現われの空間」になる必要があるということだ。(242)

「現われの空間」とは、アーレントが『人間の条件』において示した、パブリック(公共圏)の条件である。

対話的関係性により、自己を認識し、対話により自己を変容する。
その過程の中で「自由」を実感できる場。

読書会の中では、事例として「奨学金制度」をもとに話しています。
奨学金制度。
要は低利子の借金をして大学に通う制度ですが、4年間フルで借りると数百万の借金

それを背負って社会に出ることは本当に「平等」「フェア」といえるのか?

学生個人としてだと、【まあ仕方ない】と思ってしまいます。

でも、学生団体のなかで奨学金制度について議論したり、
世間一般の人の意見を聞くと【これでいいの?】と思える制度です。

個人がいきなり「社会」と接すると、「まあ、仕方ない」「つらいけど、こんなものだろう」と思ってしまう制度も、「職業集団」的な学生の集まりや他の「大人」との議論に加わることで、
「これって、本当に自由の実質化なの?」と問題提起できます。

個人は、ハッキリ言って弱いです。
特に、日本のような「空気」全盛の社会にとっては、なおさらです。

だからこそ、「職業集団」的な対話の場・公共圏を用意していくことは必要なのでしょう。

「読書会@札幌-帯広」も、こうした公共圏を提示する場でありたいものです。

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中土井僚, 2014, 『U理論入門ーー人と組織の問題を劇的に改善する』PHP.①

オットー・シャーマー博士が考案したU理論。

PDCAサイクルや各種の文責のように、これまでは「過去」からの学習をメインに、ビジネスや組織改善が行われてきた。

U理論は違う。
「出現する未来」から思考する、という方法論。

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(5頁)

「過去からの学習」の場合、「これから起こる変化」に対応しきれないことがある。

ではU理論とはどのような理論か?

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(7頁)

問題や状況をひたすら観察し、内省によって気づきが得るまで考え、出た仮説を実際に試す、というような形。
「2.プレゼンシング」は「ひたすら待って、経験が何か形になって湧き上がるのに任せるんだ。決定する必要はない。何をすべきかは自ずと明らかになる。あわてる必要はまったくない。自分の源泉はなにか、誰なのか、ということがむしろ重要だ。これは経営においても同じだ。『内面の奥底から浮かび上がってくる自己』が大切だということだ」(99)。

この形が「U」に見えるからU理論というようだ。

これまで、「できる人」の間でなんとなく感じられていた、「これ、こうするとうまくいかない?」というような気付きを、理論としてまとめたもの、というような感じの本。

正直、まだあんまり中身は分からないけれど、これまでと違う発想の方法論のようだ。

オットー博士は、このプロジェクトをはじめ、さまざまな研究の結果、「盲点となっているのは何を(What)どうやるか(How)ではなく、誰(Who)という側面だ。リーダーが何を実行するか、どのように実行するかではなく、個人としても、集団としても、自分は何者なのか、行動を生み出す源(ソース)は何か、にある」という結論にたどり着いています。(49頁)

 

U理論が何かを端的に表現するとすれば、それは、「何か(What)」でも「やり方(How)」でもない領域である「誰(Who)」を転換することで、過去の延長線上にはない変化を創り出す方法である、ということです。そしてこの洞察が、類まれなる影響を周囲に与えてきたリーダーへのインタビューから生まれたことに、U理論の独自性や可能性がうかがえます。(50頁)

☆なんとなく、アレントの「現れの領域」としてのパブリックを思い出す(『人間の条件』)。

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上阪徹, 2013, 『成功者3000人の言葉』飛鳥新社.

昔からだが、「成功者」という言葉はあまり好きではない。

決して自分で「私は成功者だ」と言うことが出来ないにもかかわらず、
他者によって「◯◯さんは成功者だ」と一方的に言われてしまう。

不思議なカテゴリーの言葉である。

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大体、「成功者」というカテゴリーも、すごく曖昧。
「めちゃくちゃ稼いでいる」人も入る。
(イチローは必ず入る)

最近いろいろあった与沢翼氏を「大成功者」と持ち上げたのも自己啓発本であるし、
「拝金主義者」と批判したのも自己啓発本である。

なかなか曖昧な定義。
でも、この『成功者3000人の言葉』は面白かった。
(何をもって「成功者というか」という根本的疑問は棚上げすることとする)

「人間の真価が問われるのは、たったひとりになったときだ」
例えば、何らかの理由で無人島に流されてしまったと想像してください。まわりには誰も人がいない。|(…)人が見ていようが、見ていまいが、関係なく自分がやるべきことをやる。やらなければいけないことをやる。それが問われているのです。(44-45)

 

「受かると思って行かない面接は落ちる」
まさに至言だと思いました。自分は就職のとき、これができていなかったのか、と思い出しました。面接官は多くの場合、誰かを落とさないといけない。そのとき、誰にするか。真っ先に浮かぶのは、自信のない人です。もうこの時点で勝負はついていたということです。
そしてこれはあらゆる場面に当てはまります。うまくいくと思わないと、うまくいくものもうまくいかないと思うのです。(49)

 

自分の幸運の芽を摘んでしまっていたのは、実は自分自身だった。そんなことも起こりえるということです。世界は誰かが作っているのではない。自分の意識が作り出している、ともいえるのです。(105)

 

私は、岐路に立っている友人に、よくこの言葉を贈ります。
「自分の運を信じろ」
一生懸命に生きている人を、神様は悪いようにはしない。私はそう思っています。(125)

 

成功を目指している若い人にメッセージを、という質問に、ある経営者がこう答えたのです。
「自分がヒーローインタビューを受けているところをイメージしてみればいいんじゃないですか。そうすれば、わかると思うんですよ。もし今、インタビューで語るに足る内容がなかったとすれば、まだまだ成功には早い、ということです。いつか成功したいなら、ヒーローインタビューに答えられるような体験を求めればいいと思うんですよ」(194)

 

不安はなくならない。となれば、不安とは上手に付き合っていく必要がある、ということです。
では、どうやって? 精神科医への取材でズバリそれを答えてくれる話を聞きました。ネガティブな感情というものは、そこから目を背けようとしたり、追いだそうとすればするほど、逆に強固になってしまうのだそうです。
そして不安をもたらしている理由は、それがぼんやりとしているから。ふわふわとしているから、不安になるのです。
だから、真正面から見据えてしまう。自分は何に不安なのか、逃げずに対峙してしまう。ぼんやりさせずに、何が不安なのかをはっきりさせてみる。これだけでも、少なくとも不安に飲み込まれ、自分が蝕まれるようなことは、なくなるはずです。(141)

名言の多い本である。

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鎌田浩毅, 2008, 『ブリッジマンの技術』講談社現代新書.

別名「科学の伝道師」でもある鎌田浩毅(かまたひろき)

本書は「火山マニア」「科学バカ」だった筆者が、人に物事を伝える、
つまり「コミュニケーションの名人=ブリッジマン」(6)となるに至る努力をまとめた本である。

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コミュニケーションのコツは、相手の考え方・空気、つまり「フレームワーク」を知ること。

学者がよく「専門バカ」と言われるのは、聞き手の考え方・フレームワークを無視して、自分の専門用語で語りまくるからだ。

私も大学院で社会学をやっていた人間だ。
そのため、その頃は「なんでも学術的に、固く言う」のが正しいと思っていた。

例)教育は、社会システムにおいてどのような構造的カップリングの機能を発揮しているのか。また発揮していく必要性があるのか。

いまから思うと「鼻持ちならない奴」だったことだろう(いまはどうか、は問いません)。

実家に帰る度、「大学院に行ってた時より話しやすくなった」と家族にも好評。
ちょっとは「ブリッジマン」に近づけたのかもしれない。

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いい名言を幾つか。

人は本を読むとき、実は自分と同じ考えのところだけ拾い読みするのである。
「読書は既に自分が持っている考えをなぞる行為である」
誰が言ったか忘れてしまったのだが、私の記憶に残り続けている言葉である。(…)読書とは、実は自分のフレームワークを確認する行為なのである。文章を読みながら自分のフレームワークを呼び覚ましていると言ってもよい。(…)
実は、まったく新しい考え方を得る読書というのは、ほとんどありえない。一冊の本|の九割ほどが、既に自分が持っている知識の強化なのであり、そこへ一割だけ新しいことを付け足すのである。(25-26)

 

フレームワークの橋わたしで最も重要な事は、「相手に合わせて自分を一時的に変える」という点にある。ここにブリッジマンの考え方の要諦がある。案件に関するすべてを変更しなければならないのでは決してない。いま問題が発生している具体的な部分にだけ焦点を当てて、そこの解決だけを図るのだ。(…)|では、自分を変えるとは、具体的には何をどのように変えればよいのだろうか。性格の全部を変えるのは不可能であるし、その必要もない。この際に、一点だけ譲歩して変えるというテクニックがある。「一点だけ譲歩法」と呼んでみよう。(98−99)