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竹田青嗣, 2009, 『人間の未来−−ヘーゲル哲学と現代資本主義』ちくま新書。 |
学部時代まで、私はイリイチをごく素朴に認識していた。
いま、思想上の問題としてその傾向性を「精算」している。
教育学関連でいえば、①「脱学校」といえば何らかの意味があった時代は1980年代に終わったこと、②いまは「学校」的でない「学校」実践が多く存在していること、③「脱学校」を超えた「再-学校」論とでも言うべき教育思想の構築が求められていること、④私自身がこの4月から教員として実践者となっていくことの4点が理由である。
思想関連で言うと、①近代のすべてを否定する発想はもう時代遅れであるということ(ポストモダンも古くなった)、②反国家・反近代うんぬんの前に、皆が納得できる形での思想形成が求められていることの2点が理由である。
イリイチ思想に染まった自分自身の精算が必要であるのは、端的にいえば竹田青嗣の著作および思想に触れたことがきっかけとなっている。イリイチは中世への回帰を訴えるばかりで、現実社会での実現可能な方策については各個人の「アンプラグ」を示す程度である。アンプラグとは、いわば現代の資本主義ゲームから自発的に「降りる」こと。「都市型狩猟採集生活」であったり、自給自足のライフスタイルを形成したりと、個人レベルでの運動にとどまる(いまの段階でもできることがある、という意味ではすごく好きな発想だ)。
『人間の未来』は『人間的自由の条件』(2004)の続編。皆が納得できる形での社会設計の原理論を提示している。
全部を紹介できるほど能力が高くないので、抜粋式に示す。
「「近代(市民)社会」の核心的理念は何かと問えば、社会から「暴力原理」を完全に排除し、これを純粋なルールゲームに変える試みだった、と答えるのがその本質をもっともよく表現する」(131)
「「国家」の本質は、なによりもまず普遍的暴力の制御という点にある。言いかえれば、一社会の共同的な自己防御ということが第一義である。どんな国家も一体的な「共同的幻想」を作り上げるが、それは本来「覇権の原理」が不安定であるために(それは最強者=王の原理だから、より強い者が現われれば現在の王の正当性は失われる)考えだされた、秩序安定のための工夫で合って、「一体性幻想」は国家の本質ではなく属性にすぎない」(162)
→国家は「暴力装置」である。しかし、これは「国家」がなければ存在した公的ルールに基づかない暴力・収奪を防ぐ働きがある。その側面をさしおいて国家の暴力性をのみ訴えるのはフェアではない。
「近代社会の根本理念は「自由の相互承認」にもとづく「普遍ルール社会」を目標とするところにあった」(272)
本書ラストで著者は地球レベルにおいて「資源」の「希少性」による「普遍闘争」状態が起きる可能性を示す。その解決策として、国家レベルでの納得の行く資源配分のルールの措定を述べる。もはやポストモダン論を述べる時代ではなく、今後の社会を万人に「よい」社会とするために思想家・哲学者は智慧を集める時代である、という訴えである。
読み間違いがあったらごめんなさい。
このコメントは投稿者によって削除されました。
竹田ゼミにいたけどさ、竹田先生は相当に頭いいし学問的に誠実な人だよ。内容も読み違ってないと思う。
でも竹田先生の哲学は全部牧口先生が創価教育学体系で述べてる内容である上に、牧口先生のほうがより言葉の選び方が本質的だよ。環境問題が人類の統一的価値観誕生の契機になりうることは牧口先生の絶対善の概念とおなじこと。
あれ、名前が出てないけど藤田です。