抜粋集

見田宗介『現代社会の理論』読書会を終えて・・・

本日5/23(土)、『現代社会の理論』読書会を実施。

東大社会学で長らく日本の社会学を引っ張り続けてきた見田宗介(みた・むねすけ)。

その1996年の著書『現代社会の理論』は、素朴な情報化社会賛美も見られるが、「消費社会」を乗り越える方向性を示す点で得るものの多いものだった。

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見田宗介の本は、論理一本槍ではなく、ところどころに「詩的」部分が存在する。




「ちょっといいこと」を言っているのだが、そこがグッとくる。
東大社会学の見田門下生が見田を慕うのも、なんとなく分かる(ような気がしてくる)。

 生きることが一切の価値の基礎として疑われることがないのは、つまり「必要」ということが、原的な第一義として設定されて疑われることがないのは、一般に生きるということが、どんな生でも、最も単純な歓びの源泉であるからである。語られず、意識されるということさえなくても、ただ友だちといっしょに笑うこと、好きな異性といっしょにいるということ、子供たちの顔をみること、朝の大気の中を歩くこと、陽光や風に身体をさらすこと、こういう単純なエクスタシーの微粒子たちの中に、どんな生活水準の生も、生でないものの内には見出すことのできない歓びを感受しているからである。このような直接的な歓喜がないなら、生きることが死ぬことよりもよいという根拠はなくなる。
どんな不幸な人間も、どんな幸福を味わいつくした人間も、なお一般には生きることへの欲望を失うことがないのは、生きていることの基底倍音のごと歓びの生地を失っていないからである。あるいはその期待を失っていないからである。(141)

こういうことをサラッと、理論文の中で言ってのける。
そこに私は「グッ」ときてしまう。

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湯浅誠, 2012, 『ヒーローを待っていても世界は変わらない』朝日新聞出版。

タイトル自体が名言、と言える本はいくつかある。

『さおだけ屋はなぜ潰れないか』にはじまる、問いかけ系の新書や、
「今でしょ!」のあの本など、いろいろ。

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考えれば、夏目漱石の『吾輩は猫である』なんて、冒頭一文をそのまま持ってきたものでありながら、知名度が高い表題である。

本書も、そんなタイトルが名言な本の一つ。

政治の世界においての「ヒーロー待望論」は、実は民主主義という制度の根本的な廃棄につながる。
そのことが、かえって少数者(ホームレス・貧困etc)の権利を損ねるのではないか?

本書はそれを問いかける。

民主主義というのは面倒くさいものだ。そして疲れるものだ。その事実を直視することから始めよう、というのが本書の提案だ。(4)

 

「強いリーダーシップ」を発揮してくれるヒーローを待ち望む心理は、きわめて面倒くさくて、うんざりして、そのうえ疲れるという民主主義というシステムを、私たちが引き受けきれなくなってきている証ではないかと、私は感じています。(68)

だから、「ヒーローを待っていても世界は変わらない」。
利害調整をしながら少しずつ活動していくか、ない。

その際に必要なのは、「〜〜が悪い!」などと声高に叫ぶのではなく、相手に通じる言葉で話しかけること。

自分の言いたいことを言うだけでは決してこの人たちには通じない。この人にも通じる言葉とはどんな言葉だろうか。自分に、自分と同じ経験、同じ土台を持たないこの人を説得できる言葉はあるだろうか。なければ編み出していかないといけない。そう考えると、その人が目の前にいる現実は、自分にチャレ|ンジを課している、と感じられました。(11-12)

 

U理論同様、「他人の目玉」で物を見る、ということが社会活動の基本。
「他人の目玉」という「外部」を織り込んだ、地道な活動が求められている。

戦後になって、日本では「国民主権」となった。
「国民主権」とは、国のあり方を最終的に決める権限は「国民」にある、ということ。

逆に言うと、「国民」である以上、決定をしなければならないということ。
仕事や介護でヘトヘトな人も、決定を求められる。

そんなとき、余裕の無さから橋下徹大阪市長のようなヒーローを人びとは求める。
代わりに決めてくれる人として。

しかし、真の社会の豊かさは「こんなこともあるよね」「こうもいえるよね」という、工夫や対話を繰り広げるところから生まれていく。

 より多くの人たちが相手との接点を見出すことに注力する社会では、自分たちで調整し、納得し、合意形成に至ることが、何よりも自分たちの力量の表れと認識されるようになります。
意見の異なる人との対話こそを面白く感じ、同じ意見を聞いても物足りなく感じます。同じ意見にうなずきあっていても、それを超える創造性あは発揮されないからです。
難しい課題に突き当たるほど、人びとはその難しさを乗り越える工夫と仕掛けの開発に熱意を燃やし、それを楽しく感じます。創意工夫の開発合戦が起こり、創造性が最大限に発揮される社会です。私たちは「こんな面白いことを誰かに任せるなんて、なんてもったいない」と感じるでしょう。(155)

だからこそ、本書のラストは印象的。

 ヒーローを待っていても、世界は変わらない。誰かを悪者に仕立て上げるだけでは、世界は良くならない。
ヒーローは私たち。なぜなら私たちが主権者だから。
私たちにできることはたくさんあります。それをやりましょう。
その積み重ねだけが、社会を豊かにします。(156)

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追記

本書は、本当に貧しくて、時間を割けなくて、なおかつ生きるのが困難な人に目を向けた上での市民活動でなければ意味が無い、というような視点が強い。
この視点、私には欠けていたものだったので、参考になった。

佐々木常夫, 2010, 『働く君に贈る25の言葉』WAVE出版.①

久しぶりに、心が震えるビジネス書を読んだ。
それが本書『働く君に贈る25の言葉』。

そうか、君は課長になったのか』の著者で、
東レの取締役を務めた佐々木氏の著書。

この人の話、私はDVDで見たことがあるけれど、
それはそれはすごい人。

 

息子さんが自閉症で、奥さんが鬱病+自殺未遂数度。
仕事でも忙しい部署の部長。
しかも、家族が東京にいるのに、大阪勤務
毎週、関東に戻り、家事をやり、月曜には大阪に出勤。
もう、「考えたくない」生活。

 

私の人生にも、苦しい時がありました。
覚悟を揺るがせるような試練が、次々と襲い掛かったのです。
長男の俊輔は自閉症という障害をもって生まれました。自閉症とは先天的なもので、育て方で治るものではありません。私たち夫婦は、ほとんど毎日のように、彼をサポートするために走り回らなければなりませんでした。(・・・)|
さらに、試練は訪れました。
妻の浩子が肝臓病を患い入退院を繰り返すようになったのです。しかも、俊輔にまつわる心労に加え、自分の病気のために家族に負担をかけていることを気に病んだことから、うつ病を併発するに至りました。
この間、会社ではまるで私の力を試すかのように、さまざまな部署への転勤が繰り返され、東京と大阪を6度も移動せざるをえませんでした。
妻のうつ病がひどかった時機には、経営企画室長という重責を担っていました。経営と現場の結節点に位置する要の役職でしたが、何人もの役員を上司とする立場でしたから、極めて大きなストレスを私に強いるものでもありました。
ときに叫び出したいような思いを抱えながらも、私は家族と仕事を両立させるために必死の思いで耐えていました。




しかし、決定的な出来事が起こります。
3度に及ぶ妻の自殺未遂です。
3回目のときは、もしも娘がたまたま発見しなけれな、妻は命を落としていたでしょう。(・・・)|

この直後の私はほとんど限界に来ていました。「何のためにこんなに苦労しているのか」と思い、「これはいったい何なのだ」「私の人生はどうなっているんだ」と、ほとんど自暴自棄の気持ちでした。
それでも、朝は訪れ、夜は来ます。私の気持ちも、少しずつ落ち着きを取り戻していきました。そして妻が、「ごめんな、お父さん、迷惑ばかりかけて」と心底情けなさそうに言うのを聞いて、「いちばん苦しんでいるのは彼女だろう。私ではない」と思い至ったのです。
「何のためにこんな苦労をしているのか」といった「何のため」という問題ではないのだ。要は、自分が出会った人生であり、自分が選んだ人生なのだ。それは運命として引き受けるしかない。恨んでも愚痴を言っても、事態は変わらないのだ−−。
私は、そう自分にいい聞かせて、再び人生に立ち向かう気力を取りも出したのです。(175-177頁)

 

その結果、奥さんから
この人からは、親よりも深い愛情をいただきました」(178頁)と言ってもらえるに至る。
この一言が、どれだけ嬉しかったことか」(178頁)。

 

いつも思い出すのは、「運命は引き受けよう」と言って微笑む母の姿です。26歳で未亡人になって、男4人兄弟を育てるために働きづめに働いた母です。しかし、母は愚痴を言うことなく、どんなときでもニコニコ笑っていました。
母は、いつも私の心の中にいました。そして、こう語りかけてくれたのです。|
運命を引き受けて、その中でがんばろうね。
がんばっても結果が出ないかもしれない。
だけど、頑張らなければ何も生まれないじゃないのー。(178-179頁)

 

不覚にも、涙してしまったところです。
運命を引き受けることこそ、生きるということなのです」(179頁)の名言は、いつまでも覚えていたいと思っています。

特にいいのは、『それでもなお、人を愛しなさい』からの引用部分。
孫引きですが、これは名言です。

1 人は不合理で、わからず屋で、わがままな存在だ。それでもなお、人を愛しなさい。

2 何か良いことをすれば、隠された利己的な動機があるはずだと人に責められるだろう。それでもなお、良いことをしなさい。

3 成功すれば、嘘の友達と本物の敵を得ることになる。それでもなお、成功をしなさい。

4 今日の善行は明日になれば忘れられてしまうだろう。それでもなお、良いことをしなさい。

5 正直で素直なあり方はあなたを無防備にするだろう。それでもなお、正直で素直なあなたでいなさい。

6 最大の考えをもった、もっとも大きな男女は、最小の心をもった、もっとも小さな男女によって打ち落とされるかもしれない。それでもなお、大きな考えをもちなさい。

7 人は弱者をひいきにはするが、勝者の後にしかついていかない。それでもなお、弱者のために戦いなさい。

8 何年もかけて築いたものが一夜にして崩れ去るかもしれない。それでもなお、築き上げなさい。

9 人が本当に助けを必要としていても、実際に助けの手を差し伸べると攻撃されるかもしれない。それでもなお、人を助けなさい。

10 世界のために最善を尽くしても、その見返りにひどい仕打ちをうけるかもしれない。それでもなお、世界のために最善を尽くしなさい。(39-40頁)

 

しみじみ、ジーンとくる。

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こちらもどうぞ!

  1. 上阪徹, 2013, 『成功者3000人の言葉』飛鳥新社. (4)
  2. 湯浅誠, 2012, 『ヒーローを待っていても世界は変わらない』朝日新聞出版。 (4)
  3. 藤野英人, 2013, 『投資家が「お金」よりも大切にしていること』星海社新書.② (4)
  4. 中高生が「ちくまプリマー新書」を投げ出すのは、どんな時か? (4)

中土井僚, 2014, 『U理論入門ーー人と組織の問題を劇的に改善する』PHP.①

オットー・シャーマー博士が考案したU理論。

PDCAサイクルや各種の文責のように、これまでは「過去」からの学習をメインに、ビジネスや組織改善が行われてきた。

U理論は違う。
「出現する未来」から思考する、という方法論。

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(5頁)

「過去からの学習」の場合、「これから起こる変化」に対応しきれないことがある。

ではU理論とはどのような理論か?

写真 2

(7頁)

問題や状況をひたすら観察し、内省によって気づきが得るまで考え、出た仮説を実際に試す、というような形。
「2.プレゼンシング」は「ひたすら待って、経験が何か形になって湧き上がるのに任せるんだ。決定する必要はない。何をすべきかは自ずと明らかになる。あわてる必要はまったくない。自分の源泉はなにか、誰なのか、ということがむしろ重要だ。これは経営においても同じだ。『内面の奥底から浮かび上がってくる自己』が大切だということだ」(99)。

この形が「U」に見えるからU理論というようだ。

これまで、「できる人」の間でなんとなく感じられていた、「これ、こうするとうまくいかない?」というような気付きを、理論としてまとめたもの、というような感じの本。

正直、まだあんまり中身は分からないけれど、これまでと違う発想の方法論のようだ。

オットー博士は、このプロジェクトをはじめ、さまざまな研究の結果、「盲点となっているのは何を(What)どうやるか(How)ではなく、誰(Who)という側面だ。リーダーが何を実行するか、どのように実行するかではなく、個人としても、集団としても、自分は何者なのか、行動を生み出す源(ソース)は何か、にある」という結論にたどり着いています。(49頁)

 

U理論が何かを端的に表現するとすれば、それは、「何か(What)」でも「やり方(How)」でもない領域である「誰(Who)」を転換することで、過去の延長線上にはない変化を創り出す方法である、ということです。そしてこの洞察が、類まれなる影響を周囲に与えてきたリーダーへのインタビューから生まれたことに、U理論の独自性や可能性がうかがえます。(50頁)

☆なんとなく、アレントの「現れの領域」としてのパブリックを思い出す(『人間の条件』)。

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上阪徹, 2013, 『成功者3000人の言葉』飛鳥新社.

昔からだが、「成功者」という言葉はあまり好きではない。

決して自分で「私は成功者だ」と言うことが出来ないにもかかわらず、
他者によって「◯◯さんは成功者だ」と一方的に言われてしまう。

不思議なカテゴリーの言葉である。

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大体、「成功者」というカテゴリーも、すごく曖昧。
「めちゃくちゃ稼いでいる」人も入る。
(イチローは必ず入る)

最近いろいろあった与沢翼氏を「大成功者」と持ち上げたのも自己啓発本であるし、
「拝金主義者」と批判したのも自己啓発本である。

なかなか曖昧な定義。
でも、この『成功者3000人の言葉』は面白かった。
(何をもって「成功者というか」という根本的疑問は棚上げすることとする)

「人間の真価が問われるのは、たったひとりになったときだ」
例えば、何らかの理由で無人島に流されてしまったと想像してください。まわりには誰も人がいない。|(…)人が見ていようが、見ていまいが、関係なく自分がやるべきことをやる。やらなければいけないことをやる。それが問われているのです。(44-45)

 

「受かると思って行かない面接は落ちる」
まさに至言だと思いました。自分は就職のとき、これができていなかったのか、と思い出しました。面接官は多くの場合、誰かを落とさないといけない。そのとき、誰にするか。真っ先に浮かぶのは、自信のない人です。もうこの時点で勝負はついていたということです。
そしてこれはあらゆる場面に当てはまります。うまくいくと思わないと、うまくいくものもうまくいかないと思うのです。(49)

 

自分の幸運の芽を摘んでしまっていたのは、実は自分自身だった。そんなことも起こりえるということです。世界は誰かが作っているのではない。自分の意識が作り出している、ともいえるのです。(105)

 

私は、岐路に立っている友人に、よくこの言葉を贈ります。
「自分の運を信じろ」
一生懸命に生きている人を、神様は悪いようにはしない。私はそう思っています。(125)

 

成功を目指している若い人にメッセージを、という質問に、ある経営者がこう答えたのです。
「自分がヒーローインタビューを受けているところをイメージしてみればいいんじゃないですか。そうすれば、わかると思うんですよ。もし今、インタビューで語るに足る内容がなかったとすれば、まだまだ成功には早い、ということです。いつか成功したいなら、ヒーローインタビューに答えられるような体験を求めればいいと思うんですよ」(194)

 

不安はなくならない。となれば、不安とは上手に付き合っていく必要がある、ということです。
では、どうやって? 精神科医への取材でズバリそれを答えてくれる話を聞きました。ネガティブな感情というものは、そこから目を背けようとしたり、追いだそうとすればするほど、逆に強固になってしまうのだそうです。
そして不安をもたらしている理由は、それがぼんやりとしているから。ふわふわとしているから、不安になるのです。
だから、真正面から見据えてしまう。自分は何に不安なのか、逃げずに対峙してしまう。ぼんやりさせずに、何が不安なのかをはっきりさせてみる。これだけでも、少なくとも不安に飲み込まれ、自分が蝕まれるようなことは、なくなるはずです。(141)

名言の多い本である。

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鎌田浩毅, 2008, 『ブリッジマンの技術』講談社現代新書.

別名「科学の伝道師」でもある鎌田浩毅(かまたひろき)

本書は「火山マニア」「科学バカ」だった筆者が、人に物事を伝える、
つまり「コミュニケーションの名人=ブリッジマン」(6)となるに至る努力をまとめた本である。

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コミュニケーションのコツは、相手の考え方・空気、つまり「フレームワーク」を知ること。

学者がよく「専門バカ」と言われるのは、聞き手の考え方・フレームワークを無視して、自分の専門用語で語りまくるからだ。

私も大学院で社会学をやっていた人間だ。
そのため、その頃は「なんでも学術的に、固く言う」のが正しいと思っていた。

例)教育は、社会システムにおいてどのような構造的カップリングの機能を発揮しているのか。また発揮していく必要性があるのか。

いまから思うと「鼻持ちならない奴」だったことだろう(いまはどうか、は問いません)。

実家に帰る度、「大学院に行ってた時より話しやすくなった」と家族にも好評。
ちょっとは「ブリッジマン」に近づけたのかもしれない。

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いい名言を幾つか。

人は本を読むとき、実は自分と同じ考えのところだけ拾い読みするのである。
「読書は既に自分が持っている考えをなぞる行為である」
誰が言ったか忘れてしまったのだが、私の記憶に残り続けている言葉である。(…)読書とは、実は自分のフレームワークを確認する行為なのである。文章を読みながら自分のフレームワークを呼び覚ましていると言ってもよい。(…)
実は、まったく新しい考え方を得る読書というのは、ほとんどありえない。一冊の本|の九割ほどが、既に自分が持っている知識の強化なのであり、そこへ一割だけ新しいことを付け足すのである。(25-26)

 

フレームワークの橋わたしで最も重要な事は、「相手に合わせて自分を一時的に変える」という点にある。ここにブリッジマンの考え方の要諦がある。案件に関するすべてを変更しなければならないのでは決してない。いま問題が発生している具体的な部分にだけ焦点を当てて、そこの解決だけを図るのだ。(…)|では、自分を変えるとは、具体的には何をどのように変えればよいのだろうか。性格の全部を変えるのは不可能であるし、その必要もない。この際に、一点だけ譲歩して変えるというテクニックがある。「一点だけ譲歩法」と呼んでみよう。(98−99)

 

 

元森絵里子(2009):『「子ども」語りの社会学 近現代日本における教育言説の歴史』、勁草書房。

元森氏の博士論文を元にした本。結論部分に感銘を受ける。要は「子ども」と「大人」を分ける切れ目はどこに現在おかれているか、という部分。「すなわち、身も蓋もない結論であるが、現代において、「子ども/大人」の区分は、もはや「子ども」の処遇に関する領域それ自体ではなく、経済(市場)、法、政治(行政国家)などの近代社会を支える諸制度に組み込まれたものとして、消し難く残り続けるのである。そうであるならば、教育などの「子ども」をそれらの領域から保護して「非主体」に留め置く—さらに言えば、同時に責任主体としての「大人」にする—領域は、その陰画としてのみ要請されると考えられる」(216)

 その言い換えが次の部分。
「消し去れない(☆大人と子どもの)最終ラインは、経済、法、政治という領域との関連性における「子ども」のための領域であり、それらの領域で責任主体たれない未成年という擬制のみである。このある意味身も蓋もない知見を前章までの知見に引きつけて言い換えれば、現代において、「子ども」と「大人」を分けているのは、しばしば想定されているような、完全に倫理的な判断力や責任能力を備えた「近代的主体」とその準備期間という区別でもなければ、本書で見てきたような、秩序に一体化する「国民」とその予備軍という区別でも、非社会的な「私」と理想の生という区別でも、堕落し誤った存在と未来の社会を実現する存在という区別でもないのである」(220)

 言説分析の長い検討と、プレーパークでの「語り」の検討などをもとに出した結論がこれである。確かに現在の切れ目は「責任主体」たるか否か、にあるということができる(こういうと本書をすごく乱雑に語ったことになってしまうが…)。

 ほか、中学生毎日新聞の言説分析部分に「登校拒否」に関する中学生の投書数の分析(165-)など、使える箇所があった。

山下和也(2010):『オートポイエーシス論入門』ミネルヴァ書房。

学術の世界で使えるオートポイエーシス論を目指すという本。
 言語システムについての記述(5章など)などから、どことなくブルーマー『シンボリック相互作用論』を思い出す本である。ということは、オートポイエーシス論はシンボリック相互作用論と親和性が高い理論なのだろう。

 オートポイエーシス論のキーワード。
「オートポイエーシスはオートポイエーシス論でのみ語らなければならない」(8)
「産出されたものがあれば、必ずそれを産出した働きがある」(9)

「オートポイエーシス論とは、あえて言うと、産出するものと産出されるものの理論に他ならない」(9)

「オートポイエーシス論は自己の発生の論理を扱う理論である」(29)

「システムがその作動を通じて自分のコードを書き換えて変化することを、マトゥラーナの術語を借りて、「構造的ドリフト」と呼ぼう」(43)

「オートポイエーシスの自律性の最大の帰結は、原理的にこのシステムを外部からコントロールすることはできない、という事実だ。コントロールしようとしても自律性によって抵抗される」(51)

「端的に言えば、構造的カップリングとは、複数のオートポイエーシス・システム同士がお互いを環境として攪乱を生じあっている状態である。したがって、これはシステム間の単純な相互作用ではない。一方のシステムが他方のシステムに働きかけ、それに応える形で逆に働き返す、という図式にはなっておらず、相互の攪乱は完全に同時で、そのためそれぞれの作動は自律的であり、対応関係にはない。したがって、構造的カップリングしているそれぞれのシステムにおきる変化に因果的対応関係をつけることは不可能だが、構造的カップリングはそれらシステムすべての作動の前提となり、それぞれのシステムはカップリングしている相手のシステムの作動を、残らず自分自身の作動に織り込んでいる」(75-76)
「当然、カップリングしている総体に何が起きるかは、創発による。個々のシステムの作動からは決まらない」(76)

「デカルトは、「私は考える、それ故に私はある」という回り道をして私の実在に至ったが、実際には、「私」と言ってシステム自身にとっての視点をとった瞬間、私の実在は確定している。デカルトに、自分が疑うに際して「私の存在するということが極めて明証的に、きわめて確実に伴われてくること」も当然なのである。私が、すなわちシステムが実在しないなら、システム自身にとっての視点もなく、「私」という事態そのものもありえないので」(183-184)
→☆これ、ゴフマンの”Frame Analysis”によれば、個々人のフレイムによって認識される自己システム、ということなのだろう。

「整理すると、観察者の視点からの自己認識は、厳密に言うと自己認識になっていないということ。認識しているのは認識システムで、その認識表象に現れているのは認識システムそれ自身ではなく、無意識システムの構造である意識の、しかもその現れにすぎず、まったく異なる。つまり、認識している自分とされている自分は、どこまで行っても別物である。にもかかわらず、観察者の錯覚のために、認識システムはその現れを自分自身と誤解するのだ。それは認識システム自身が、自己言及によるとして、つまり自分自身の現れを自分自身と誤解するのだ」(248)

Beck, Ulrich(2002):島村賢一訳『世界リスク社会論』2010、ちくま学芸文庫。

 チェルノブイリの事故の起きた1986年、「リスク社会」という名称のもとに社会学者ベックはデビューをした。その『危険社会』は学術書としては異常なほどよく売れた、という。そんなベックの入門書的なのが本書である。

「「サブ政治」という概念は、国民国家の政治システムである代議制度の彼方にある政治を志向しています。その概念は、社会におけるすべての分野を動かす傾向にいある政治の(最終的にグローバルな)自己組織化の兆しに注目します。サブ政治は、「直接的な」政治を意味しています。つまり、代議制的な意思決定の制度(政党、議会)を通り越し、政治的決定にその都度個人が参加することなのです。そこでは法的な保証がないことすら多々あります。サブ政治とは、別の言い方をするならば、下からの社会形成なのです。」(115-116)
「世界社会的なサブ政治の特徴は、イシューごとにその都度形成される(政党、国家、地方、宗教、政府、反乱、階級といったものの)「対立」の連合なのです。」(116)

→☆この「サブ政治」を担う「市民」が、常に多数にとって正義かどうかは限らない。ベックも石油会社シェルに対する反対運動をしても、アウトバーン建設を進めるドイツ首相への反対がないことを語っている。だからこそ、多様な「市民」の多様な「サブ政治」が必要、と言えるのではないか。

「危険とは、例えば天災のように人間の営み、事故の責任とは無関係に外からやってくるもの、外から襲うものである。それに対してリスクとは、例えば事故のように人間自身の営みによって起こる、まさに自らの責任に帰せられるものである。つまり、そうである以上、リスクは社会のあり方、発展に関係している。リスクとは、ベック自身が認めているように、自由の裏返しであり、人間の自由な意思決定や選択に重きをおく近代社会の成立によって初めて成立した概念である」(訳者解説:159-160)

→☆東日本大震災は「危険」であるが、福島原発は「リスク」である。

「「困窮は階級的であるが、スモッグは民主的である」」(『危険社会』51頁からの引用)「という言葉に象徴されるように、環境汚染や原発事故といったリスクが、階級とは基本的には無関係に人々にふりかかり、逆説的にある種の平等性、普遍性を持っていること、そしてチェルノブイリ原発事故に端的に示されているように、リスクの持つ普遍性が、国境を超え、世界的規模での共同性、いわゆる世界社会を生み出していることが挙げられる」(161)

Collins, Randall(1985,1994):友枝敏雄 訳者代表『ランドル・コリンズが語る社会学の歴史』、有斐閣、1997。

原題:Four Sociological Traditions

●序文

A~C:「社会学の偉大な3つの伝統」

A「紛争理論の伝統」
・マルクス/エンゲルス/ヴェーバー
→「資本主義、社会階層、政治紛争の理論と、それらに関連する社会学の巨視的・歴史的テーマを展開」(ⅰ)

B「デュルケム理論の伝統」
①:「社会のマクロ構造に注目するもの」(ⅱ)モンテスキュー/コント/スペンサー/マートン/パーソンズ
②:「対面集団で形成される儀礼をとおして、集団の連帯を生みだすメカニズム」(ⅱ)ゴフマンによる日常生活における儀礼の分析

C「ミクロ相互作用論の伝統」
①プラグマティズムの伝統:パース/ミード
②象徴的相互作用論の系譜:クーリー/トマス/ブルーマー
③現象学的あるいは「エスノメソドロジー的」社会学:シュッツ/ガーフィンケル

第2版の追加
D功利主義(合理的選択)理論の伝統

●プロローグ 社会科学の誕生

・「デュルケムの学問上の直接のライバルは心理学だったから、彼は社会学的分析のレベルを心理学的分析のレベルから区別することに心を砕いた」(41)

「ドイツとフランスで社会学の将来性のある端緒が現れたあと、世界政治の激動によって社会学はほとんどアメリカに移ってしまった」(42)

コメント
 ・日本と違い、ヨーロッパの「大学」システムは、中世から一貫性をもっていると言うことが文章から伺えて興味深かった。「大学改革」は遥か以前から行われてきているということは非常に面白い。

●第1章 紛争理論の伝統

・紛争理論化としての「マルクス」を見ていく。コリンズはマルクスよりもエンゲルスを社会学において重視する。
・マルクスはそのまま大学に残りつづけていたばあい、気鋭の哲学教授になっただろう、というのがコリンズの立場である。しかし「エンゲルスがいなければマルクスは、シュトラウス、バウアー、そしてフォイエルバッハが切り開いた方向をさらに一歩進めた、唯物論的傾向を持った青年ヘーゲル派の左翼であった」(56)。

「いちばん重要なことは、マルクスが経済学を発見したということである」(49)

「事実、最初に経済学の重要性を理解し、適切に批判し、ブルジョア・イデオロギー的理解から抜け出ていたのはエンゲルスその人であった」(54)

・「マルクスの方がつねに同時代の政治家であったのに対し、エンゲルスの方は純粋に知的で偉大な歴史社会学者であった」(55)
「マルクス個人の迷宮の中には、社会学が入り込む余地はなかった。彼の見方のなかに社会学の息吹を吹き込んだのはエンゲルスであり、エンゲルスの著作」「こそが社会学がこの「マルクス主義」の考え方から学びうるものを伝えているのである」(57)
・「もし言葉遊びが許されるなら、「マルクス主義」というラベルは神話であり、社会学という目的のためにはマルクスは「エンゲルス主義者」とよんだ方がよい、と言うことができるだろう」(58)

・「唯物論の基本原理は、人間の意識は一定の物質条件にもとづいており、それないしには存在しえない、というものである」(62)
「いずれの支配的観念も支配階級の観念である。なぜなら支配階級は精神的生産手段を統制しているからである」(62)
→この辺、アルチュセールの国家のイデオロギー装置論やグラムシのヘゲモニー論を思い出す。

・「政治・経済・社会階級は決定的につながっている。なぜなら経済システムは所有をめぐって組織され、所有は階級を定義し、そして所有は国家によって維持されるからである。所有物は所有されているもの自体ではない。所有物が誰かによって所有されるのは、国家が所有者の法的権利を確立し、その権利を保証するためには警察権力、必要ならば軍隊を用いるというかぎりにおいてである」(66)
→研究者や経済人が体制派寄りになってしまう理由である。

・「政治は国家を統制するための闘争である。マルクスとエンゲルスの考えによれば、支配的な有産階級がつねにこの闘争に勝利するが、基本的生産関係が移行しつつある歴史的状況は例外である。このときには旧支配階級の政治的支配は崩れ、新しい階級がこれに取って代わる」(67)

・「政治の混沌とした現実を理解するための強力な道具」(68)
「1つの決定的な原理は、権力は動員の物質的条件に依存するというものである」(68)
→「有産階級が政治を支配するのは、多数の政治的動員手段を持っているからである」(69)
☆金融資本も社会関係資本も持っている。
しかし「ビジネスが一1つの巨大な独占へと向かうにつれて、労働者たちもそれに応じた統一がなされ、最終的には数の力を獲得し、資本家たちを圧倒する」(71)という。
 けれどこのことは実際生じなかった。「というのも、政治的動員手段が変化し、独占の過程が中間点で安定化したからである」(69)
・「強権的な革命政府だけが、ビジネスや金融業務のすべてを政府が即座に掌握し、完全な統制経済を布くことによって、ビジネス界の不信によってひきおこされる経済危機の時期を回避することができるのである」(70-71)
・「革命がこのように他の誰かの利益のための虚偽意識や虚偽行動といった奇妙な性質を持つのは何故だろうか」「精神的生産手段を握っているため、上流社会階級は、何に関する革命で誰が敵かということを定義することができるのである」(72)
→これ、ヘゲモニー論だ。

・「1つの一般的な原理は、同盟は敵の存在によって結成されるというものである。敵が消失してはじめて、同盟者間の戦いが自由となる」(73)

・ウェーバー「資本主義は人間の自由と経済的生産性をともに高める最高の社会体制であると、彼は実際には信じていたからであった」(78)

・紛争とは多元性がもたらすもの
「ウェーバーを語るうえで何よりも中心に位置づけられなければならない事実は、彼が世界を多元的なものとみなしていたことである」(80)「多元的なパースペクティブを取った結果、彼はもっとも根本的な意味で紛争の理論家となったのである」(81)それは「紛争とは、諸事象の多元性そのものが形を取ったもの、あるいは社会を構成する異なる集団、利害、パースペクティブが織りなす多元性が形を取ったものだからである」(81)
・「結局のところウェーバーは、歴史というものを、多方面にわたって展開する複雑で多面的な紛争の過程とみなしていた。単純化された進化論的な段階概念、あるいは理論家が複雑な歴史的現実に対してとかく当てはめようとしがちな整然とまとまった他の類型は、ウェーバーの敵であった」(82)

・「階級とは何らかの市場で特定の独占度を共有している集団であることを、忘れてはならない。そして階級がこのことを成しとげるのは、それが組織化され、1つののコミュニティを形成し、自分のまわりに張りめぐらされた何らかの法的・文化的な障壁を通じて1つの意識を獲得することによって―手短にいうと、身分集団となることによってーなのである」(85)

・国家の武器
①武装:国家は「それゆえに、他のすべての組織を支配することが可能となる」(88)
②正当性:「こちらは文化的・情緒的な領域という面にかかわる」(89)「マルクスとエンゲルスの言葉によれば、国家とは、イデオロギーを生成する巨大な機関である。またヴェーバーの言葉によれば、国境内にいる多数の人々がみずからを単一の身分集団、すなわち国民の一員であると感じるようにし向けることができるのが、成功を収めた国家ということになる」(89)
→カリスマというのもこの正当性を担保する。
・「正当性は無からは生じない。それは作り出されるものである。そして正当性をつくり出すさまざまな組織は、精神的生産手段(最近私は、これを「情緒的生産手段」とよんでいる)のもう1つの側面とよぶのがふさわしい」(89)
→☆一億層中流や「社会イズム」は国の一元性を示す働きで「正当性」を付与しているのか。

・ウェーバーの弟子・ミヘルス(97)

コメント
・ギデンズの再帰性の話をするならば、彼はパーソンズの図式に対し〈なぜパーソンズの図式を知った人であっても、その図式に従ってしまうのか〉という批判の仕方をしている。マルクス主義にもそのような傾向があるのではないか。つまり、「革命の必然」を述べている書物を資本家が読むとき、資本家の中で「再帰」が起きる。その結果、革命を防止するほうに動いてしまう。それがケインズ主義のように結果的に労働者に益する方向に動くこともある。「革命」防止法としてよむことの方が多いだろう。そうした場合、逆説的ながらマルクス主義の研究が進めば進むほど、マルクス主義的革命が起こらないようになってしまう。
 マルクスやエンゲルス(コリンズの『ランドル・コリンズが語る社会学の歴史』を読むと、エンゲルスの社会学的貢献の大きさがよくわかるため列記した)の書物が読まれるほど、影響を受けて「革命」を起こそうとする人が増える。はじめはソ連や中国で成功する。しかし、それらの革命国の成功が他国に伝わると、なんとか「革命」を起こさない方向を人びとは考えるようになる。つまり、マルクス主義の考えが広まるほど、それが再帰を起こし、人びとに「革命」を起こさないように機能するという「逆機能」がおこるのである。

・感想
この本、購入して何度も読みたい。