本日5/23(土)、『現代社会の理論』読書会を実施。
東大社会学で長らく日本の社会学を引っ張り続けてきた見田宗介(みた・むねすけ)。
その1996年の著書『現代社会の理論』は、素朴な情報化社会賛美も見られるが、「消費社会」を乗り越える方向性を示す点で得るものの多いものだった。
見田宗介の本は、論理一本槍ではなく、ところどころに「詩的」部分が存在する。
「ちょっといいこと」を言っているのだが、そこがグッとくる。
東大社会学の見田門下生が見田を慕うのも、なんとなく分かる(ような気がしてくる)。
生きることが一切の価値の基礎として疑われることがないのは、つまり「必要」ということが、原的な第一義として設定されて疑われることがないのは、一般に生きるということが、どんな生でも、最も単純な歓びの源泉であるからである。語られず、意識されるということさえなくても、ただ友だちといっしょに笑うこと、好きな異性といっしょにいるということ、子供たちの顔をみること、朝の大気の中を歩くこと、陽光や風に身体をさらすこと、こういう単純なエクスタシーの微粒子たちの中に、どんな生活水準の生も、生でないものの内には見出すことのできない歓びを感受しているからである。このような直接的な歓喜がないなら、生きることが死ぬことよりもよいという根拠はなくなる。
どんな不幸な人間も、どんな幸福を味わいつくした人間も、なお一般には生きることへの欲望を失うことがないのは、生きていることの基底倍音のごと歓びの生地を失っていないからである。あるいはその期待を失っていないからである。(141)
こういうことをサラッと、理論文の中で言ってのける。
そこに私は「グッ」ときてしまう。