抜粋集

安川一編(1991):『ゴフマン世界の再構成』、世界思想社。

「われわれは、〈共在〉のなかにいて、「秩序」を感じ続けている。なぜか。――ここに、相互行為の日常慣行の働きがみえる。つまり、われわれは相互行為のなかで、いわばこの慣行にハマリ続けることによって秩序を現実化させている。日常慣行の着実な堆積こそが秩序なのである」(ⅱ)

→ゴフマンもプラチック(慣習行動)について述べている。その点で、ブルデューと繋がっている。両者をふまえた研究は存在しているのであろうか。

「ゴフマンの分析の対象、それは、人が他の人たちと居合わせている状態、つまり〈共在〉であった。その脆くリスキィで、しかし弾力性ある心地よい秩序が、さまざまな観察と考察に付されている」(2)

「経験とはフレイミングである。無関係なもの、曖昧なものが排除され、そのことの正しさを保証するものが当のフレイム内的世界のなかに求められる、そうしたことにかかわるプラクティスの作動を通して個々の経験が組みあがる。しかも、フレイミングとは、経験の組織化にともなう、あるいはこれを支える活動の組織化でもあり、したがって関与の組織化でもある」(11)

「制度とシステムの現状がいかに抑圧的、加虐的であっても、人はその再生産に「自発的に」加担していく。カテゴリカルに差別され続ける女たちがそれでも自然な性差を信じ続け、スティグマを付与された人たちがそれでも現行秩序に居場所を求めつづけているように。相互行為プラクティスへの習熟、その結果として馴染んだ経験の安定性と圧倒性をリアリティとよぶなら、人は、このリアリティのなかでまさしく眠っている」(23)

「ゴフマンの社会学とは、〈間身体的行為〉の社会学であり、〈間身体的行為〉の社会学とは、〈間身体的行為〉に関する規範・規則を記述すること、つまり〈間身体的行為〉の秩序構造を分析することである」(38)

「人びとはドラマトゥルギィ的感覚をもち、ドラマトゥルギィ的実践活動を実行している特徴があり、市民=公民の「ドラマ」をまじめに考え実演している。ドラマトゥルギィ的枠組みは、英米社会における日常の舞台で生起する社会的相互行為の大部分の特性を示している」(40)

「さまざまな状況の定義に関する公然の対立を回避することが望ましいときにも単一の状況の定義が存在している。参加者たちは共同して単一の状況の定義に寄与しているのである」(46)

→「内職」論に繋がる。学校の授業という「状況の定義」を、「内職」実践者はやはり支えている。授業ゲームを維持する働きがあるのである。

「状況の定義は単に主観的に実行されているのではなく、社会的場に限定されながら投企されているのである」(51)

「日常世界では、会話の相互行為の可能性が物理的に生じると、自己に関する儀礼秩序が作動して、それがメッセージの流れを誘導する手段として機能することとなる。社会化された相互行為者は、会話の相互行為を自己についての儀礼的配慮をもって取り扱うのである。コミュニケーションの間にメッセージの流れを誘導するシステムは、儀礼規則のシステムである」(55)

「ゴフマンにとって自己は、個人レヴェルの心理現象ではなく、間身体レベルの社会的事象である。神聖な自己は相互行為上の儀礼規則から築き上げられた一種の構成体であり、したがって〈間身体的行為〉において儀礼秩序上、状況適切的に注意して取り扱わなければならない儀礼的な産物である」(57)

「こうした自己の産出を担っているのが実のところ、〈間身体的行為〉の秩序構造・儀礼原理なのである」(59)

Bourdieu, Pierre(1980):今村仁司・福井憲彦・塚原史・港道隆訳『実践感覚2』、みすず書房、1990。

 本書はアルカイック(本書を見る限り、前近代社会のことを指すと思われる)な社会を元にしたブルデューの理論書である。
 農村社会における男性-女性の仕事のアナロジーについての部分(117頁等)を見ていて、Ivan Illichの”Gender”や”Shadow work”を思い起こした。また128頁の「農業年と神話年」の表なども、Illichの図式を思い起こす内容となっていた。要はIllichもBourdieuもレヴィ-ストロースの研究を受け継ぐ形で理論構築を行っているため、当然と言えばそうである。
 『実践感覚1』より読みにくいが、文化人類学が好きならこっちのほうが具体論が多くて興味深く読める(だろうと思う)。

「伝統に則って相続される家産相続分と、結婚の際に支払われる補償とは、同一のものにほかならないのであるから、所有地の価値こそがアド(adot=これは、贈与をなす、持参金を与えるという意味のadoutàに由来する)の額を命じているのである」(7)

「換言すれば、経済的必要性によって押しつけられる結婚すべてのうち、十全に承認される結合とは、文化的恣意によって男有利に樹立された非対称性が、夫婦間での経済的・社会的状態においても男有利であるような非対称性によって倍加されているもののみだ、ということである。アドの額があがればあがるほど、付随的に夫の位置もいっそう補強されることになる」(20)

「こうして次男以下は、こういう表現が許されるとすれば、構造的犠牲なのである。すなわち、集合的実体にして経済的単位である「家」、経済的統一性によって定義される集合的実体としての「家」を、実に多くの保護措置によって取り囲んでいる体系の、社会的に指定された、したがって忍従する以外にはない、犠牲だったのである」(26)

「ハビトゥスは、自らが再生産する構造の産物であるがゆえに、そして、より正確に言えば、ハビトゥスは、確立された秩序とその秩序の守り手の命令に対する、すなわち先人たちに対する「自発的」従属を内包しているからこそなのである。相続戦略、育児戦略、さらには教育戦略、つまりは、相続した権力と特権を維持しつつ、あるいは増大させつつ次代に伝えるために集団全体が採用する生物学的再生産諸戦略の全体から、切り離すことのできない結婚戦略は、打算的な理由を原理にしているのでもなければ、経済的必要性からくる機械的決定を原理にしているのでもない。そうではなく、存在諸条件によって教え込まれた心的傾向、いわば社会的に構成された本能こそが原理なのであり、それが、特殊な形式の経済の客観的に計算しうる必要性を、義務の不可避的必然として、ないしは感情の不可抗的な呼びかけとして生きるよう、しむけているのである」(30)

「コード化された知およびそのような形で伝承される知の中にみられるハビトゥス図式の客観化は、実践領域によって大変異なる。格言・禁令・諺・極度に規則ずくめの儀礼の相対頻度は、農業活動と関連する、あるいはそれと直接的に結びついた諸実践—機織り、製陶、料理—から労働日の区分あるいは人生の節目へと移るにつれて漸減する」(100)

・アルカイック社会の男-女のアナロジー(あるいはIllich的に言う本源的な意味でのジェンダー)

「再生産とは、生活の実質にして生計維持のことであり、豊穣にされた大地と女性、つまり致命的な不毛性―これは女性原理の不毛性であって、それを放置すれば致命的不毛性を現出する―から免れた大地と女性のことである」(119)

「優れて文化的行為とは、分離され境界線を引かれた空間を産出する線を引く行為である」(115)
「全く社会的な力の、純粋に魔術的な性格は、刀や魔法の結び目程度には魔術的な境界や絆(結婚)によって個人や集団を切り離したり、結合したり、あるいは、事物(デザイナーのブランドのように)や人物(学歴のように)の社会的価値を変動させたりしながら、社会的な世界だけに働きかける場合でも、やはりそれとなく現れるものだ」(163)

・「ランプは、ふつう男性の象徴である」(168)

「すべては、実践が二つの使用法の間でためらっていることを示している。同じものが、女性や男性的な雨を呼ぶ大地のように、水をかけられることを要求するものでもあり、また、天上の雨のように、それ自体が水をかけるものでもある。事実、実践にとって、最良の解釈者たちにつきまとってきた区別は重要性をもたない」(199)
→こういう部分に、イリイチのジェンダー論を思い出す。

「別の言い方をすれば、システムを構成するすべての対立は、その他のあらゆる対立と、だが多かれ少なかれ長い道程を経て(可逆的なことも不可逆的なこともあるが)、つまり関係からその内容をしだいに取り除く等価性の連続の果てに、結びつく。そればかりではない。あらゆる対立は、異なる意味と強度の関係を通じて、様々な点で別の対立と結びつくことができる」(208)
→左手と右手、女性と男性の対比などを指して言っている。ブルデューは本書で二元論的図式の乗り越えを図っているのである。

「以上のことから分かるように、食う・眠る・子孫を作る・出産するといったあらゆる生物学的活動は外部世界から遠ざけられ(「牝鶏は市場では卵を産まない」と言われる)、内輪の避難所や家という自然―自然の管理に委ねられ公共生活から排除された女の世界―の秘め事の中に追放されている」(220)

「このように、女たちの家と男たちの会議、私生活と公共生活、あるいはこう言ってよければ、真昼の光と夜の秘め事との対立は、家の低い・暗い・夜の部分と高い・高貴の・光に満ちた部分の対立とぴったりと重なる。言い換えれば、外部世界と家との間に設定される対立は、この関係の一項—すなわち家自体―がそれを他項と対立させる同じ原理によって分割されていることが知られてはじめて、その完全な意味を明らかにする。男が女と、昼が夜と、火が水と対立するように、外部世界が家と対立すると言うのは、正しいと同時に間違ってもいる。というのは、これらの対立のうちの第二項はその都度それ自身とその対立物に分割されるからである」(221)

●訳者あとがき(今村仁司)より

「『実践感覚』は、材料としてはアルカイックな社会を取り上げている。同じ理論構図をもって現代の複雑社会を材料にし」「実行してみせたのが『ディスタンクシオン』である」(265)
「ブルデュは、『実践感覚』と『ディスタンクシオン』の両書をもって、人間社会を汎通的に分析しうる社会学的視座を設定したと言えるだろう」(266)

アダム・スミス(1776):水田洋監訳・杉山忠平訳『国富論(1)』、岩波書店、2000。

 アダム・スミスの『国富論』は「分業」から始まっている。分業がないならば「精いっぱい働いても、おそらく一日に一本のピンを造ることも容易ではないだろうし、二〇本を造ることなどはまちがいなくできないだろう」(岩波文庫『国富論(1)』24頁)。しかし分業を行うならば「一〇人は、自分たちで一日に四万八〇〇〇本以上のピンを造ることができ」(同25)る。一人当たりで計算すると「一日に四八〇〇本のピンを造るものと考えていいだろう」(25)といってまとめている。
 また次の記述もある。「労働の生産力の最大の改良と、それがどこかにむけられたり、適用されたりするさいの熟練、腕前、判断力の大部分は、分業の結果であったように思われる」(23)

 スミスの場合、分業を肯定していた。それにより各人の貯えを高めることができるからだ。この分業肯定論に対し、マルクスは批判をする。そのときのキーワードが「疎外」労働論であった。資本主義による分業の結果、人々は人間的でない労働をさせられるようになった。その点をマルクスは批判したのだった。

 以下は抜粋である。

 「社会が進歩するにつれて学問や思索が、他のどの職業とも同じく、特定階層の市民たちの主要あるいは唯一の仕事となり職業となる」(33)
→社会の再帰化・高度化の結果、「考える」職業が要求されるようになる。

●「いったん分業が完全に確立してしまうと、人が自分自身の労働の生産物で充足できるのは、彼の欲求のうちのきわめてわずかな部分にすぎない。彼がその欲求の圧倒的大部分を充足するのは、彼自身の労働の生産物のうちで彼自身の消費を超える余剰部分を、他人の労働の生産物のうちで彼が必要とする部分と交換することによってである」(51)
→分業が発展すると、自分1人だけで生活するのは困難になる。誰かの労働に頼らずに生きては行けなくなる。素朴であるが「分業」論の古典的記述である。(いまMacBookが打てるのも、アップル社と部品を作る工場労働者の労働のお陰である)

 「注意すべきは、価値という言葉に二つのことなる意味があり、ときにはある特定の物の効用を表わし、ときにはその物の所有がもたらす他の品物を購買する力を表わすということである。一方は「使用価値」、他方は「交換価値」と呼んでいいだろう」(60)
→このあたりがマルクスに影響を与えていると言える。

コメント
・スミスは地主・労働者・資本家の「三つのことなる階層の人びと」(431)が「あらゆる文明社会を本来的に構成する三大階層であって、他のどの階層の収入も彼らの収入から究極的には引き出されるのである」(431-432)と述べる。そうして、資本家の身勝手が公共の利益を放棄させることがあると危険性を述べている。資本主義の勃興期に、すでに資本家の危険性が指摘されていたことを考えると、スミスはやはりただ者ではない、と思えてくる。

Bourdieu, Pierre(1980):今村仁司・港道隆訳『実践感覚1』、みすず書房、1988。

 ブルデューは本書でプラチックとハビトゥスについてを論じる。主客二元論を乗り越え、(「自分自身に透明な意識能作か、さもなくば外在性において決定される事物かしか知ろうとしない二元論の見方に、行為の現実的論理を対立させなければならない」(90))主観―客観のリンクを行うものとしての実践pratiqueを扱ったのが本書であるとどこかで聞いたので、それを確認しつつ読んでいきたいと考えている
(https://www.msz.co.jp/book/detail/04995.htmlによると、レヴィ=ストロースの構造論的客観主義とサルトルの現象学的主観主義を批判し、両者の乗り越えを目指した内容であるとのことだ)。
 行為の原因は一体どこにあるのかも本書のテーマである。それをブルデューはハビトゥスに置いている。何が良くて何が悪いかを評価づけるのも、ハビトゥスであり、それが卓越性(ディスタンクシオン)の認識にもつながっていく。
 本書では現象学・構造主義を批判し、理論の精緻化を行っている。

「客観的と称され、距離と外部性を含む対象との関係は、全く実践的な仕方で実践的関係と矛盾する」(55)

「客観的構造とそれぞれの実践の中で働く肉体化された構造との弁証法を知らないと必ず規範的な二者択一に閉じ込められてしまうものだ。この二者択一は社会思想史の中でたえず新しい形態を帯びて再生してくるものだが、このために現在マルクスを構造主義的に読む人びとに見られるように、主観主義に対抗しようとする人びとは社会法則のフェティシズムに否応なく陥ってしまうのである」(63-64)

「客観主義が科学の対象に対する学問的関係を普遍化するのと同じく、主観主義は学問的言説の主体が自己自身を主体として構成する経験を普遍化するということである」(71)

・経済人モデルへの批判(79)

「生存のための諸条件のうちで或る特殊な集合(クラス)に結びついた様々な条件づけがハビトゥスを生産する。ハビトゥスとは、持続性をもち移調が可能な心的諸傾向のシステムであり、構造化する構造として、つまり実践と表象の産出・組織の原理として機能する素性をもった構造化された構造である。そこでは実践と表象とは、それらが向かう目標に客観的に適応させられうるが、ただし目的の意識的な志向や、当の目的に達するために必要な操作を明白な形で会得していることを前提してはいない。実践と表象はまた、客観的に「調整を受け」「規則的で」ありうるが、いかなる点でも規則への従属の産物ではない。さらに、同時に、集合的にオーケストラ編成されながらも、オーケストラ指揮者の組織行動の産物ではない」(83-84)

「自分自身に透明な意識能作か、さもなくば外在性において決定される事物かしか知ろうとしない二元論の見方に、行為の現実的論理を対立させなければならない。行為こそが身体における客観化と制度における客観化という歴史の二つの客観化を、同じことだが、客観化された資本と体内化された資本(藤本注 一般的には「身体化された資本」と言われる)という資本の二状態を対面させるのだが、この二つによってこそ必然性と、それがもつ差し迫った事柄に対して距離が設けられるのである」(90)

「規則に適った即興によって持続的に組み立てられる産出原理であるハビトゥスは、実践感覚として、制度の中に客観化されている意味感覚の再活性化を行う。ハビトゥスは、客観的な諸構造がそうである集合的歴史の所産が、その機能の条件たる持続的で調整された心的傾向という形での自己再生産に達するために必要な我有化および教化の労働の産物であるが、それは体内化に対して自らの特殊な論理を課す特殊な歴史の流れの中で自己構成する。またハビトゥスを介して行為者たちは制度へと客観化された歴史の性質を帯びることになる。そしてこのハビトゥスこそ、制度にひとが住まい、制度を実践の中で我が物とし、またそこからして、制度を活動状態に、生ける強力な状態に保ち、制度を死せる文字、死語の状態からたえず引き離し、そこに沈澱せる意味感覚を蘇らせるのを可能にする当のものに他ならない」(91)

「実践感覚と客観的意味との合致がもたらす根本的な効果のひとつは、常識の世界の生産にある。この世界が示す直接の自明性は、実践と世界との意味感覚に関してコンセンサスが保障する客観性によって倍加する」(92)

「すなわちハビトゥスこそ、主観的意図を伴わない客観的意味がもたらすパラドクスの解決策を含んでいるのである。すなわちハビトゥスは、真の戦略的意図の産物ではないにもかかわらず―もしそうなら、少なくとも、次にいう連鎖が他にも可能な数ある戦略のうちの一つだと把握されていることを前提することになる―戦略であるかのように客観的に組織されるゲームの「一手々々」からなるあの連鎖の本源にある」(99)
→人が無自覚的に何かを行ってしまうことがあるのはなぜだろう。「主観的意図を伴わない」行為でありながら、どこにも客観的意図があったように思えない場合、ブルデューは「ハビトゥス」の存在を元に説明を行う。

「ハビトゥスが行なうこの種の疑似的な未来予測における過去の現前」(100)

「象徴資本は、場の機能の論理がそれ自体としては依然として錯認されることを通してのみ実現されうるからである。ひとがこの魔術的円環に入るのは意志の瞬間的決断によってではなく、ただ単に生誕によってあるいは第二の生誕に等しい新人選択と加入儀礼のゆっくりした過程によるのである」(108-109)

●「暗黙裡の教育は、「まっすぐに立て」あるいは「ナイフを左手で持つな」といった取るに足りない命令を通してコスモロジー、倫理、形而上学、政治を教え込み、身体や言葉の上での行儀・態度・作法の見たところごくささやかな細部にまで、自覚や弁明を必要としない文化的恣意性の根本原理を刻み込むことができる」「教育的理性の狡智はまさに取るに足らぬことを要求するという見せかけの下に本質的なことを奪い取ることにあ(内容確認のこと!)

「身体的ヘクシス[慣習的行為]は現実化され身体化された政治神話であり、振舞う・語る・歩く、そしてそれを通して感ずる・考えることの永続的性向や持続的作法となった神話である」(112)

「身体によって学ばれるものは、人が自由にできる知のように所有する何ものかではなくて、人格と一体となった何ものかである。このことは無文字社会の中で特に見られる。そこでは伝承知は身体化された状態でのみ生きつづけることができるからである。知はそれを運ぶ身体から決して分離されず、特別に知を呼び起こす一種の身体訓練による以外には再構成できない」(117-118)

「要するに、論理がどこにでもありうるのは、真の意味ではどこにもないからだ」(142)

「暗にとどまる実践上の妥当性の原理である「何が問題なのか」(ce don’t il s’agit)との相関においてこそ、実践感覚は、ある特定の物や行為を、物や行為のある特定の相を「選択する」のである」(146)

「思考の労働を思考する思考労働である論理学とは反対に、実践は形式への関心を一切排除する。行為自身への反省的な回顧がなされても、それが到来する時には(つまり、自動運動が失敗する時にはほとんどいつも)結果の追求に従属し、費した努力の収益を最高に引き上げようとする(そのもとしては、必ずしも知覚されない)探究に従属したままである」(150)

「教え込みという教育活動は、言説の中に(とりわけ、社会化の失敗を予防したり罰したりする法の中に)あるいは他の何らかの象徴的支柱(象徴または儀礼的道具など)の中に常に最小限の客観化を伴う制度化とともに、実践的図式を明確な規範へと定式化し構成する特権的な機会のひとつである」(170-171)

「ハビトゥスは、それが承認されるあらゆる表現を自発的に承認する傾向がある。なぜならハビトゥスは自発的にそうした表現を産み出しがちであるからだ。そしてとりわけハビトゥスは最も適切なハビトゥスのあらゆる模範的産物を承認するだろう。これらの産物は、相継ぐ諸世代のハビトゥスによって選択され保存されるし、内在的力によって客観化され、ハビトゥスの公的に権威づけられた現実化に付着する権威を与えられる」(179-180)

「システムの機能はハビトゥスの組織化(orchestration)を想定するのである。というのは、仲裁決定は「断罪された」側の同意なしには実行できないからであり(そうしないと原告は力の行使に訴える他はない)、決定は「公平感覚」に見合っており、「名誉感覚」によって認められる形態に従って強制される場合にのみ受け容れられる見込みがあるからだ」(182)

「しかし資本が十分に現実化する条件は学校教育制度の出現であって、この制度は文化資本の分配構造の中で占める位置を持続的な仕方で承認する資格を授与する」(207)

「贈与交換をパラダイムとする社会的錬金術の基本操作はどんな種類の資本をも象徴資本に変換することであり、それをその所有者の本性に根差した正統な所有へ変換することであるが、このような操作は常にある労働形式、時間・貨幣・エネルギーの眼に見えない(しかし必ずしも誇示的でない)蕩尽を要する。これは配分の承認を確保するために必要なひとつの再配分であって、受け取る者が分配上より適切な位置にあって贈与する能力のある者に認める承認の形式、価値の承認でもある負債の承認の形式をとる」(214-215)

「確立した秩序、およびその基礎をなす資本の分配は、それらが存在しているそのことによって、つまりそれらが公けに正式に肯定され、したがって(誤)認識され承認される時から及ぼす象徴的な効果によって自分自身の存続に貢献する。それゆえ、この秩序と資本分配が、それが社会的存在の客観性そのものにおいて認識(誤認と言うべきか)の対象であるという事実に負っているもの一切を取り逃がすことなしには、社会科学は、デュルケームの準則に追随して「社会事象を物として取り扱う」ことなどできないのだ」(222)

「ハビトゥスが備えているカテゴリーに従ってハビトゥスが知覚する表現である諸々の属性は、所有権獲得のための差異を持った能力を、つまり資本と社会権力を象徴化する。そして区別の正または負の利潤を保証する象徴資本として機能する」(232)

コメント
・私は悪筆だが、癖のある字で私が文字を書いてしまう(実践)理由はどこにあるのかと言えば、私の持つハビトゥスにあるということができる。私の父も同じような書き方をしていたことが思い返される(生きてるけど)。この場合、私の書字プラチックは私のハビトゥスによって産出されたということができるのだろうか。
・プラチックの再構成を図ることで、抵抗戦略が可能になると読み取ってもよいのだろうか。
・先輩から聞いた話ももとにしているが、日本においてブルデューのハビトゥス論は『再生産』『ディスタンクシオン』の流れの階級の再生産論としてのみ受け止められている傾向がある。そうではなく、ブルデューは本来、主-客の二元論の乗り越えとしてハビトゥス/界や行為の理論を構築するのを狙いとしているのであり、あくまでその一例の「適用」が『再生産』『ディスタンクシオン』なのである。おそらくアップルらの批判的教育学の流れでブルデューが日本に受容されてきたことが原因なのではないか、と考えられる。

Simmel, Georg(1890):石川晃弘・鈴木春男訳「社会的分化論 社会学的・心理学的研究」、『世界の名著47 デュルケーム ジンメル』中央公論社、1968。

 ジンメル32歳の作品。

 解説から、ジンメルの本書での言及として次の部分があった。

「集団の社会的水準の平均化は、原始的な段階では、低いものを高めることによって可能とされるが、進化した段階では、逆に高いものを低いところに引き下げることによって実現される」(45)

 個々人で会うと徳が高い人物であっても、集団になると途端に低俗な話をし始める。これはいかなることなのだろうか。それは平均化と平等が理由であるという。

 以下は抜粋。

「あらゆる対象について、それらが少なくとも相対的に客観的な単一体であるといえるのは、それらの各部分に相互作用が存在したときのみである」(392)
→人びとの心的相互作用によって、社会は成立する。後の相互作用論者に繋がる発想である。

「社会という名称は、たんにそれらの相互作用の合計にたいするものであって、それらの相互作用が確立されている程度に応じてのみ使用されるべきものである。ゆえに、社会は実体的に確立された概念ではなくて、与えられた個々人のあいだに存在する相互作用の数と緊密の度合に応じて、多くも少なくも適用されうる程度的概念なのである」(393)
→「社会」は相互作用の合計である。客観的存在ではなく、「機能」の総和である。

「けっきょく社会の概念は次のように規定されるであろう。すなわち、個々人の相互作用が、たんに彼らの主観的態度や行為のなかに存在しているというだけではなく、さらに個々の成員からはある程度まで独立した、ある客観的な構成物がつくりだされるというような場合に、われわれは真に社会といえる存在がそこに存在している、といえるのである」「相互作用が凝集して、一つの実体となっているのである」(393)

「集団が大きくなると、それと並行して分化が要求される」(419)

「社会圏が大きくなればなるほど、個人はその目的を達成するために、ますます多くの回り道を必要とするようになる」(419)

「すでにのべたように、個人の罪が社会に転化されるということは、社会教育学にとって、その普及が憂慮される認識の一つである。というのは、それは、個人の罪をどうかすると割り引きやすく、そうしたとき、良心はそれだけ気楽になり、それだけその行為にたいする誘惑が強くなるからである。つまり、いってみれば、道徳のために出費される経費は全体が負担するのに、不道徳によってあがる利益は個人だけが受けるということになるからである」(421-422)
→犯罪者は「社会」や環境が作ったことになる。

「すなわち社会集団の分化と個人の分化は明らかに正反対をなす、ということである。社会集団の分化は、個人ができるだけ一面的になること、彼がある単一の仕事に没頭し、彼の衝動、能力、関心のすべてがこの一つの諧調にあわせられることを意味する」(527)
→集団が多様でいるために、個人には単一・一面的でいることが要請される。これが疎外労働を招くことにもなる。つまり、集団の多様性を担保するため、個人から多様性が排除され単一の状態でいることが要請されるのだ。

『寺山修司名言集 身捨つるほどの祖国はありや』(2003)より

「さよならだけが
人生ならば
またくる春はなんだろう
はるかなはるかな地の果てに
咲いてる野の百合何だろう」(69)

「たとえ
世界の終わりが明日だとしても
種をまくことができるか?」(125)

「たとえば書物とは「印刷物」ばかりを意味するものではなかった。街自体が、開かれた大書物であり、そこには書きこむべき余白が無限に存在していたのだ。
 かつて、私は「書を捨てよ、町へ出よう」と書いたが、それが「印刷物を捨てよ、そして町という名の、べつの書物を読みに出よう」と書き改められなければならないだろう」(223)
→世界というテキストを読む。

「戦争の本質は、実は少年たちの「戦争ごっこ」の中に根ざしている。十歳や十五歳の少年が、戦争ファンであるあいだ戦争はなくならない。
 少年たちが成長するように、彼らの「戦争」もまた成長してゆくのだから」(256)
→テキストを読み替えて、「制服」のカッコよさが共有されているかぎり、と読み替えてもいいのかもしれない。軍隊の特徴はキチッとした制服に象徴される。軍服を元に学校の「制服」が作られているのだからこれは事実だろう。

「死をかかえこまない生に、どんな真剣さがあるだろう。明日死ぬとしたら、今日何をするか?
 その問いから出発しない限り、いかなる世界状態も生成されない」(342)

「死んだ人は/みんな/ことばになるのだ」から、寺山の遺した言葉とのコミュニケーションは、寺山自身とのコミュニケーションでもある。

マイケル・W・アップル/長尾彰夫/池田寛(1993):『学校文化への挑戦 批判的教育研究の最前線』、東信堂。

 ここでいう「学校文化」とは、学校のメインストリームにあたる支配者層、あるいは「抑圧者」の再生産機構という正統文化を意味する。それらに対するアンチテーゼ(黒人・女性差別への抵抗など)を整理しているのが本書である。
 しかしこの本書、あまり現代の文脈に対応していないように感じられる。それは若干マルクス主義すぎて、共感しづらくなっているのだ。

●序章(M・W・アップル/野崎与志子訳)
・「すなわち、学校教育は権力―ある集団が他者の教育的経験を支配する力―と関係があるという印象である」(3)
・「われわれが何かについてどう考えるかは、われわれの行動に違いをもたらすからである」(4)
→洪水を自然災害とみるか、人災とみるかで、評価は変わってくる。
・「カリキュラムはそれ自身選択的伝統(selective tradition)と呼ばれてきたものの一部である。すなわち、知識と呼ばれうるものの広大な宇宙全体から、学校ではある知識だけが教えられている。ある集団のもつ社会的・文化的権力と、その集団の知識を学校のカリキュラムの公的な知識にしてしまう力との間には強い関係がある。ゆえに、労働者階級、女性、そしてマイノリティ・グループの歴史や文化は多くの国家において、学校のカリキュラムのなかにはしばしば表現されていない」(7)
・「文化闘争や国家内部での闘争が、もし相対的自立性をもつなら、それは現在ある搾取と支配の関係を変容させる本質的要素を供給するかもしれない」(20)
 
●1章 ラディカルたちの学校論(森実)
・「資本主義社会のありかたが学校を大きく左右しているというボールズ=ギンタスの見解そのものは、それなりに受けとめられたといってよい。これ以後、学校を変えれば社会が変わるといった楽天的な意見はあまり見られなくなったからだ。問題だったのは、学校教育はつねに資本主義の再生産しかできないという彼らの主張だった。彼らの意見に賛同すると、社会主義革命が起こるまで学校教育関係者は何もすることがなくなってしまう。学校に期待を寄せる人々は、この点に批判を集中した。二人の著作の重要性は確認しつつも、この問題点をどう乗り越えるかという課題に焦点が当たることになった」(32)
・「機能主義の基本的な考え方を示すとつぎのようになる。
 〈社会生活のあらゆる要素は相互に連関している。お互いに影響し合い、結びあって分かちがたい全体を構成している。全体と各要素はお互いに支えあっているということができる。各要素が今あるごとくあるのは、その要素が全体に対して貢献しているからである。
 ひとことでいえば、機能主義とは「社会には自己を維持しようとする傾向がある」とする立場だといえよう。この考え方に支配された研究者たちは、社会を予定調和的に変化しないものととらえ、けっきょく現状肯定論に陥っていった」(37)
・「ジルー自身にとって、おもな説明の対象は生徒や教師の抵抗である。抵抗こそが社会構造と人間行動を媒介する概念だという。ところが、抵抗にはその対概念として適応がつきもののはずであるのに、ジルーはいっこうに適応については論じようとしない」(43)
・「マルクスにとって、ある社会化関係が不公正かどうかは、その社会関係が生産様式に応じたものであるかどうかによって判断される。勃興期の資本主義社会は、いくら不平等で高率の搾取をしても、それによって生産様式は発展したのであり、これを道徳的に不公正だと批判してもはじまらない」(49)
→文字通り初期資本主義社会では「トリクル・ダウン」(滴り落ち)の効果があったのだ。
・「資本主義をマルクスが批判するときにも、道徳的な意味においてではなく理性的な意味において「資本主義社会には自由が欠如している」という点に重点が置かれているというのである」(50)
「さまざまな行動を評価するに当たってマルクスが重視するのは、意図や方法よりもまず結果である。自分だけの利害に基づいたエゴイスティックな行動であっても、それが社会の発展に貢献する場合もおおいにありうる。逆に主観的には善意であっても社会発展に逆行する行為も少なくない。そのような意味で、まず問われるべきは結果であり、この点でマルクスは結果主義者だというのがミラーの主張である」(51)

●2章 政治力学としての人種問題(池田寛)
エスニシティ・パラダイムに対する、批判的パラダイム(50-60年代)72頁
①階級理論(72頁) 提唱者
A 市場関係理論 G・ベッカー(ラベリング理論のH・ベッカーとは別人の新古典派経済学者)
B 階層理論 W・J・ウィルソン
C 階級闘争理論 
C1 分断理論 M・ライシュ
C2 分離労働市場論 E・ボナシチ
②国家理論(74頁)
A 汎アフリカニズム マルコム・X/ブラックパワー 「アフリカ系アメリカ人」という言葉の一般化
B 文化的ナショナリズム H・クルーズ 黒人文化の独自性強調→自文化への黒人の誇りを喚起 白人文化に対する「抵抗の文化」の思想を支えるものとなる

・「本書(注 『アメリカにおける人種問題の形成』)が強調しているのは、国家は本質的に人種的であるという点である。人種的な争いに介入するどころか、国家じたいがまさに人種闘争の場なのである。」(81)
・「「新しい社会運動」が大転換を招来するような成功をおさめた原因は、このように、人種アイデンティティや人種の意味を再定義するという困難な事業を成し遂げ、そのことによって、人種に付与された社会的意味を変革することに成功したところに求められるのではないか」(85)
・「ニューライトはマイノリティの主張を否定する立場をとっている」(91)
・まがりなりにも、アファーマティブアクションは黒人のエンパワメントに効果があった。一定数の黒人が「中流階級」になることができた点からそれは言える。「六〇年代半ば以降の黒人の地位上昇は国家による「優先政策」に負うところが大きいといわねばらない」(95)
・「何が問題なのか。自分たちの運命を自分たちで切り開くことができない、そうしようとしても社会的差別の壁がその努力を拒んでしまう、その構造が問題なのである」(95-96)

●3章 少女から「女」へ(木村涼子)
 少女向け小説をテキスト分析した『Becoming a Woman through Romance』の書評および内容紹介。少女向け小説に表れる物語の型が、ヘテロセクシャルを推奨し、ロマンスの「正しい」やり方を規定する働きがあるという指摘。性欲を持ってはならないというような規範が、少女を「お人形さん」のような人物に作り替える働きがあるのではないかと感じる。
 しかし、同性愛的な憧れを女性の「先輩」に抱くという物語構図も少女小説に存在しているのは事実であり、本章の記述には疑問を感じる点がある。
・「ヒロインがロマンスにおいて成功をおさめるためには、この美しくなるプロセスが必要である」「ボーイフレンドを得ることによって、ヒロインの精力的な努力は報われ、ビューティフィケーションの手続きが完了する。ヒロインの美しさから喜びを得ることが許されているのは、彼女のボーイフレンドのみであり、ヒロイン自身でさえ自分の美しさを意識的に活用し、楽しむことは禁じられている。自分の美しさを意識し、武器とする少女は、小説のなかで何らかの制裁を受けることになっている」(112-113)
・「分析の対象となった、四〇年間にわたる恋愛小説はすべて、「ロマンスを通じて女になる」というモチーフを中心に構成されている。この中心モチーフは、「ヒロインの支配的特徴をカプセル化し、形態(対の対立概念)を内容(ロマンス、セクシャリティ、ビューティフィケーションのコード)に結合する」ことによって、小説のなかで浮き彫りにされている」(114-115)
・「普段学校の教師などからあまり高い評価を受けていない彼女たちも、ヒロインに自己同一化することによって、ポジティブな感覚を味わうことができる。退屈で、うんざいりするような毎日をおくっている少女にとって恋愛小説を読むことは、「最悪の一日でさえ何か特別な日に変えてしまう」手軽な儀式である」(117)
→生徒や子どもの視点からの文化分析が必要(「内職」について多少調べた自分だからこそ、その点を忘れないようにしたい)
・「少女小説が描く空間は、さながら少女の精神修養のための道場である。精神的成長の中身は、自立、自己主張、洞察力などさまざまな要素が含まれるが、何より強調されるのは他者に対する共感能力、他者を思いやる力や姿勢である。教官の対象はまず第一にロマンスの相手である異性だが、ロマンスのなかで身につけた共感能力は、まわりの友だちや家族など、ボーイフレンド以外の人との人間関係にも適応されていく。こうした面での成長は、女性としてのアイデンティティ形成の一部であるといえよう」(128)

●4章 ニューリテラシーの理論(平沢安政)
「ひとくちに「学習者の生活体験から出発する」といっても、(注 フレイレ等の)批判的識字の場合は「搾取」「差別」「貧困」「抑圧」に特徴づけられる社会的生活現実が土台になっているのに対し、ニューリテラシーの場合は感動と表現意欲の源泉となる生活体験を子どもたちが日常のなかにさぐりあて、その意味世界を「読み・書く」ことによって探求するプロセスを大切にしようとする志向性をもっている。今日のように」(156)
→「貧困」「搾取」が明確でないのが現代の社会である。フリーターと言っても自発的にその地位に居るのか、構造上の問題でその地位に居ざるを得ないのか、違っている。そういう時代だから「批判的識字」の活動(や「プレカリアート」などの造語による運動)という結果や道筋の見える活動よりもニューリテラシーの方が運動の広がりは大きくなるのだろう。

「ニューリテラシーは、学校が生活経験を切り捨てた上で成り立っていることを批判し、むしろ子どもの生活が学校の学習を規定していくような関係につくりかえることを提唱している。また、教師が権威ある知識提供者、評価者としてふるまうのではなく、子どもの認識プロセスにともに参加し、促進するためのサポートを提供する存在となるべきことを強調する。また、受信型モデルで機能性獲得を論じるのではなく、自己を表現し、発信するプロセスとしてリテラシーを位置づけている。こうして、ニューリテラシーは主に個を中心にした実践と論理展開を行ってきた」(158)
「リテラシーが人々の私的、公的な生活のなかで力となり、多様な表現と経験の共有をすすめるような形で生活に位置づくようになることが、ニューリテラシーの最大の目的である」(159)

●第6章 学校におけるカリキュラム・コントロールの矛盾(長尾彰夫)
・子どもの詩のもつ「生きた文化(lived culture)からの批判と抵抗」(223)
「このように、学校における一定の知識や行動は、生徒の多様な経験、背かつ、立場の違いのなかで、それぞれに異なった意味をもちうる。そしてそのことが、現在の学校を支配している潜在的カリキュラム、学校知への批判や抵抗を生みだし、カリキュラムをめぐっての矛盾や対立となっていく。こうした批判や抵抗、矛盾や対立は、時として授業の「能率性」、教師の「権威性」をそこない、学校の管理的構造を大きくゆさぶっていくことにもなるのである」(223)

●第7章 批判的教育研究の理論的背景(池田寛・長尾彰夫)
「教師によって生徒が学びうると考えられたカリキュラムが選びとられ編成される。そして、それが生徒に対して学習する内容として提示されるのである。/教師によって構成されたテクストを、個々の生徒は自らが背負っている生きた文化にしたがって選択し変換する。たとえば校則によって定められた制服に手を加え、反抗的な生徒文化としての意味を与えることによって変換的に摂取していくのである」(238)
→「内職」のこの「生きた文化にしたがって選択し変換する」/「変換的に摂取」の一例である。

ジャン=ルイ・ベドゥアン(1961):斎藤正二訳『仮面の民俗学』、白水社、1963。

 仮面のもつ意味を「未開社会」のエスノグラフィーから考察する。その知見が現代社会にも通じるものであることを指摘する本。カイヨワの模倣としての「遊び」論も出てくる。『魔女ランダ考』を思い起こした。

「じじつ、われわれは、おそらく、たれしもが、こうした経験をもっているのであり、自分《らしく》もないことをしてしまった、とか、あの人《らしく》もないことをしたものだ、とか、よくそんなことをいったりするのである。こんな場合、これが自分だ、とわれわれが考える、理想像としての似姿は、かならずしも、正真正銘のわれわれの姿なのではない。それは、どこまでも、本当らしく見える姿であるというにすぎないのだ。それは、いうならば、《仮面》なのであって、その裏に隠れて、われわれは、他人の目にたいしてはもちろんのこと、自分自身の目にたいしても、われとみずからを偽装するのである。なぜなら、われわれは、こっちでそれに独立したというに近い存在を与えてやっているはずの、ある一つの影像、ある一つのまぼろしを、さも自分自身であるかのように、思い込みがちなものであるからだ。そういう場合は、われわれが考えているよりも、はるかに多いのである。」(15)
→「ほんとうの私」という存在は「仮面」である。「自己」はミード的にはIとmeとの恒常的な自己との相互作用である。「ほんとうの私」というmeは数あるmeの一つにすぎない。
 「よくある」言い方をするならば、パーソナリティの語源はペルソナ(仮面)にある、という事実につながる話である。

「仮面の場合には、ひとは、《他者》になろうとして、本当に《他者》になってしまうのだ。《他者》とは、それがすべての風貌を帯びうるゆえに、風貌をもたない者でもある。この矛盾を克服することこそ、仮面の仮面たる特質である。」(22)

「だれであり、仮面をつけた人物は、たんに、何者であるかがわからなくなった人物ではないからである。かれは、それ以上のものである。かれは、むしろ、他者でさえある。というのは、かれは、おのれを謎として呈示し、ひとにむかっては、その謎を解くように要求するのだから。したがって、かれは、あたりまえの法則からははみ出し、自由を要求しているわけだ。この自由は、しばらくの間にもせよ、社会の約束事によって制限を受けることがなくなるので、そのぶんだけ、ますます大きなものとなる。」(24)

(西欧人について)「仮面の力を借りて、可視的な自然の次元よりも高い次元の世界に、ありありと生きることを断念した人間は、自分の同類の目に、自分を超人として映らせようと努めるようになる。」(96)

「人間というやつは、自分でそうしたいと思うようなときにも、つぎからつぎへと、多数の仮面を発明することをやめるわけのものではない。このことだけは、確かなのだ。われわれの運命というやつが顔をもっていない、という謎あるがために、われわれは、そいつに目鼻立ちを与え、一個の名前を与えないではいられぬのだ。」「われわれが直視することのできない「絶対的な存在」は、人間の「仮面」を帯びた。」(139)
→よく分からない存在に名前をつけると言う行為は、その対象を理解可能なレベルにまで引き下げる働きをする。仮面にもそんな意味合いが込められている。

●訳者追い書き
「著者は、キリスト教によって西欧社会から駆逐された仮面が、ヨーロッパ各国の民間伝承のなかで、かすかに生き残っていることを認めたうえで、もはや、別の世界に属するより仕方ない、といいます。つまり、二十世紀の人間は、別種の仮面を発明しつつあるのだ、といいいます」(141)

・142頁にて訳者が、日本の案山子(かかし)は元々仮面に起源があるのではないかと指摘をしている。

Michael W. Apple (1982):浅沼茂・松下晴彦訳『教育と権力』、日本エディタースクール出版部、1992。

「ヘゲモニーとは、私たちのごく日常的な実践により構成されているものである。私たちが知っている社会的世界、すなわち、内在的カリキュラムや教授、評価といった教育制度の諸特徴が相互にかかわっているような世界を作りあげているのは、私たちの常識的な感覚や行為の集合全体なのである」(62)

「学校は再生産以上のことをしている。学校はまず権力集団の文化や知識の形態と内容を取り上げることにより、続いてその形態と内容を、保存され伝達されるべき正統な知識として規定づけることにより、文化的手段の特権を維持するのに役立っているのである」(65)
→バーンスティンの言語コード論を思い出す。

「要するに、先進資本主義国にはひとつの公教育制度があるというのではなく、実際には二つの制度が同時に存在するのである。それぞれの公教育制度は、学習者の社会的階級と経済的軌道に合わせて、異なった規範と価値、そして性向を教え込むのである」(69)

「国家は科学研究や労働力の教育や訓練のような事柄のコストを社会的に認めてしまうのである」(83)

「まさにこの労働文化が、単なる対応理論によって描かれた規範よりもかなり充実した別の規範の発展がありうることを示すのである。この規範が、労働者のレジスタンスのための場、技術や操業速度、知識の部分的なコントロールを可能にし、また生産部門の完全な細分化ではなく集産性を、そして経営者が要求する速度からの自立性を可能にする」(120)

・アップルは労働者論の一環として教員を例に出す。(139)

Willisが描いたようなラッズたちは「同じ学校で、生徒たちは、より徹底して別のことをする。すなわち、彼らは、学校の顕在的・潜在的カリキュラムを率直にはっきりと拒否するのである。数学や科学、歴史、職業教育等々を教えている教師は、可能な限り無視される。時間厳守、几帳面さ、従順といった、より経済に密着した規範や価値を明確に教えても、最大限に忘れ去られてしまうものなのである」(152)

「実際に生じているのは次のようなことであろう。すなわち、生徒を勇気づけ、また、学校によって描かれるイデオロギー的価値に反抗しうるような労働者階級のテーマと態度を生徒が学校の日常生活の中で発達させるのを、何かより進歩的設定が制約すると同時に促進しているという点である。抵抗や権威の転覆、システムの操作、気晴らしや楽しみの創造、学校の公式的活動に対抗するための非公式グループの形成など、これらすべては、管理者や教師が望むものとは正反対のものであるが、具体的には学校によって生み出されている。したがって、もし労働者が相互に交換可能で、仕事自体が画一的で一般化されており、職種による内容の差がないとすれば、学校はラッズが見通す目を養うのを可能にするという点で、重要な役割を果たしているということになる。しかしながら同時に、そこには、結局のところ、そのような労働者階級の若者を労働市場につなぎ止め、一般化した、標準的労働市場へと準備させることになるという意味で制約があるのも明らかである」(160-161)

「提唱されている改革を単に組織的な調整の中で考慮することのみならず、何が実際に教えられ、何が教えられていないかということも同様に重要である」(205)

「私の議論の多くは機械的な再生産理論に対する概念的・経験的批判であった」(261)

「多くの再生産論(アルチュセールがその最初の例であるが)の主たる概念的・政治的弱点のひとつは、「それらが、学校の子どもたちや教師のレジスタンスの能力を正当に評価していない」という点である。つまり、学校がジェンダーに関する諸関係、生産の社会関係を再生産するのに役立っているという点を把握するのは重要であるけれども、「「学校が関与していないと思われるところで」学校はまた、歴史的に特殊なレジスタンスの形態を再生産しているのである」。これらの諸点は明らかに私たちの学校論議にのみ限られるものではなく、職場や家庭などにもあてはまる」(263)

ピーター・ドライヤーを引いて
「教師は、生徒に対し、語る内容によっても、また語らない事柄によっても、生徒の仮定、価値、好みを形成するのを助長している」(275)

訳者解説
「労働者が、単なる手足として働かされるのではなく、自らの手足を自分の意思で動かすことのできるように、頭脳の部分を取り戻すために自治と団結を主張するのは、人間の権利として当然である。それと同じように、教育における合理主義とシステム志向に抗して、教師も教育実践の頭脳を取り戻す必要があるというのがアップルの主張である。(…)近代的な目的合理主義の枠組みが、アメリカの教育の現実をいかに惨めなものにしてきたかを示す証拠でもある」(340-341)

コメント
・全体的に言って、アップルは「学校」というのみで学校種をあまり問題としていない。これは「学校」全体に対する議論としては有効だが、個別の学校種に着目する場合、弱みになる可能性がある。
・P. Willisらを検討し、学校における生徒文化に着目した第4章は、「内職」を研究する者として興味深い内容だ。
・「抵抗」としての実践に注目するアップル。労働者としての教員像という観点から、本書5章において単純労働者化したアメリカの教員像を批判する。
・273ページなど、マルクス的すぎて違和感を覚える個所がある。また、まず主体の「抵抗」ありきで議論がなされている感がある。
・授業や教育への「抵抗」の形態をアップル(1982)やウィリス(1977:『ハマータウンの野郎ども』)は描くが、これらは授業を受けることの拒否であり、授業中に別の学習をするという「内職」形態は描かれていない。ここに注目することで自分の研究を立てられるのではないか。

樫村愛子(2009):『臨床社会学ならこう考える 生き延びるための理論と実践』、青土社。

・恒常性/再帰性というキーワードについて。
「精神分析が示しているのは、再帰性そのものが恒常性に常に依存しているということであり、恒常性を食いつぶしてしまえば、再帰性そのものが破綻してしまう。(…)それゆえネオリベ批判において、精神分析が掲げる、恒常性の必要性ついての議論が欠かせない。しかし一方、再帰性はギデンズの言うように近代の条件であり、セラピーも再帰的主体の契約によって行われるものであるので、再帰性という問題圏は外すことはできない。恒常性の復活(藤本注 これが新保守主義など)や手直しのために再帰性がむやみに抑圧される方法はよいわけではない。(…)それゆえ、再帰性と恒常性の関係をどう構成していくかが重要な課題となる」(21-22)

「ドラッグは少し前まで若者にとってマイナーな存在であった。しかし現在のフランスでは若者に広く浸透している。2002年の調査では、17-18歳の若者全体の50.9%がcannabis(大麻)の経験がある。teuf(注 フランスのメディア社会学者ダニョが調査した、飲んで騒ぐという若者の文化の隠語)では、みんながいろいろな酒やドラッグを試していて、比較的(注 「に」を入れた方がいいと思われる)その特質を語るのが議論の大きなテーマとなっている」(218)

・1910年代のアメリカにおける「教育の現代化」改革について。
「学校は企業と比較され教育者は「組織人」とみなされる。「学級運営」という発想はここから生まれ「教育管理」は教育の効率性の評価のために評価の数値化を要請する。アメリカの心理学者たち(ビネー等)が知能テストや学力評価尺度を開発していったのはこのような歴史的背景のもとでである」(287)

「デューイ的公共哲学観に依拠するジルー(1992)は、公共性を他者に対する積極的な関与を意味するものと考えるが、ここでさらに現代的状況からいえば公共性は社会が個人化し社会が解体する時代において個人と社会の間の「mediation(媒介領域)」として設定することができるだろう。「mediation(媒介領域)」とはその中での自由なやりとりや思考錯誤を可能にするものであり、現実との関係をいったん留保しながらそれを考察し作っていく、先の幻想空間でもある」(294)

「文化がmediationの場となり社会的介入が個別的になされるような社会とは基本的に一定の水準以上の再帰的な個人(次に見る「人間資本」)を前提としているわけであり、その水準に満たない人々にはますます無意識的欲望の暴走とその困難が予想されるだろう」(301)