抜粋集

村田栄一・里見実(1986):『もうひとつの学校へ向けて』、筑摩書房。

 教育は文化運動だったのだと実感した本。教育実践を学術的側面から取り上げるという営みに、一定の価値があるのだと思った書。

 印象的なのは「学校がもちうる独自な可能性」(152)として里見が考察する場面である。

 <歴史的にいえば学校は、生きるための労働から解放された人びとの「自由な」教養形成の場として成立した、といってよいでしょう。学校はその「閑暇」というギリシア語が示しているように、人間を労働から分離して知的な活動に専念させる場として成立しているわけです。しかしこうした「独自性」によって、学校の独自な可能性が基礎づけられるわけではありません。むしろ逆でしょう。学校が労働や製作的な活動からきりはなされた聖域である間は、学校が独自な存在意義をもつことはなく、かえって、学校が一つの作業場となり具体的な生活の場となったときに、はじめて学校の独自な可能性が浮上するのだ、ということを明らかにしたのが、われわれの先輩たちの生活教育の実践であったと思うのです。
 「教育を作業場に」というメッセージは、われわれのこの往復書簡をつらぬいているいわばメインテーマですが、しかしそこでいう「作業場としての教室」は、すぐれて「もどき」の空間である、ということを強調しておかなければならないでしょう。>(152)

 ここは生活文脈の中に学校を位置づける上で考慮すべき点の指摘である。里見の文章のうち、「もどき」の空間としての学校、との指摘は重要である。なぜならば、「もどき」ゆえに失敗を許される空間であるためだ。子どもの社会化には時間がかかる。子どもの学習のためにアレンジした環境の中で学んでいくにあたり、失敗をしてもかまわない空間の保障が重要になってくる。その際に学校というのは生活空間の「もどき」にすぎないのだ、と意識できることが子どもの自己教育力・「生きる力」を促進していくことになるであろう。

 このあと本書ではスペインの学校においてあえて古い道具を子どもたちが使うという実践が紹介されている。このことは「もどき」の場としての学校ゆえに成立する概念だ。「もどき」だからこそ、現状の社会に合わせる必要がない。それよりも子どもの学びを支える・高める方向で使える道具を用いることのほうが価値が高くなる(イリイチの言うtools for convivialityである)。
 学校でパソコンを用いて学ぶことは、確かに「社会」に出たときの練習にはなるが、疎外された学びを提供する行為に化することがある。小学校でそろばんを学習するように、あえて昔の道具で学ぶという可能性を本書は指摘していた。イリイチのアンプラグ論やコンビビアル論に近いものを感じる。イリイチは、発展の程度の低いラジオや車ならば庶民が自分で直して使えるが、最先端のものならば専門家に頼らざるを得なくなる点を指摘する。教育や生活のためには「先端」のものを使わなければならない義理はないのだ。

 別に学校は最先端の内容を扱う必要のある場所ではない。この指摘に私は自分の学校に対してのドクサを捨てなければならないと感じた。

若林幹夫(1995):『地図の想像力』、講談社選書メチエ。

若林幹夫(1995):『地図の想像力』、講談社選書メチエ。

 地図が「発明」されたとき、人間の認識能力は大きく変わったのだろう。それは今ある世界が記号化=情報化されることであるからだ。空間を平面上に再現する営み。地図を持ち歩くとき、空間も持ち歩くことになる。本書を読み、そのようなことを考えた。
 地図という「客観的」に見えるメディアには、共同幻想が見せる恣意的なメッセージを伝える働きが存在している。

●序 帝国の地図

●第一章 社会の可視化

「地図という表現は、人間の歴史の中で様々な時代に、様々な場所で独自に「発明」されてきた。地図を作り、利用することは、人間の社会に相当に普遍的に見られる現象なのである。」(28)

「環境に対して自身が疎遠な「他者」であったり、ある環境に関する情報をその環境を知らない「他者」に伝達しようとする時に、地図的空間は現れるのである。」(38)
→地図を見るときは環境に対して自身が「他者」であるとき。馴染みの空間は「自己」になっている。いわば空間からの「疎外」を回復するために地図が必要とされるわけだ。

「重要なことは、地図という表現がそのような想像的な視点による空間の像を、実際に目に見える形で表現すること、したがって人びとは地図を媒介にしてこの想像的な視点から見た空間の像を、実際に取りうる視点から見た像であるかのごとき経験をするということだ。この意味で、地図的な視点が人間の経験に代補する世界の全域的なリアリティもまた、想像的であり、超越的である。」(42)
→ベネディクト・アンダーソンの『想像の共同体』にも、国家の可視化という意味合いで地図が出ていた。

「そのようにして社会が可視化される時、「社会」という存在が湛えるリアリティは、個々の人間の個別的・局所的な経験を超えた超越的で想像的な位相、それゆえ他者と共有され伝達されることの可能な位相を内包している。地図を描き、それを通じて世界を見るという営みは、人間がけっして見晴らすことのできない世界の全域的なあり方を可視化する一つの方法、世界の空間的なあり方に関してそれを可視化し、了解し、その中に自己と他者とを位置づけようとする営みなのである。」(45)

「「科学的」で「客観的」な地図の存在を支えている「科学」や「客観」も、それが世界を記述し理解するための記号による意味の体系であるという点では「神話」や「主観」と変わりがないのだ。」(53)

「地図とは世界に関するテクストである」(54)

「社会や世界の全域的な広がりについて語り、思考する時、私たちはあたかも地図を見るかのようにしてそれを対象化し、思考し、言語化しているのである。」(59)

●第二章 拡張される世界

「帝国や文明圏という存在も、それらが地理的領域を覆うという事態も、結局のところ想像的な全域に関わる事柄としてのみ個々の人びとの了解の中に現れてくるということだ。そこでは、帝国や文明の地理的広がりは、そのような地理的広がりを概念・イメージとして生産し、流通させ、受け入れてゆく社会的な営みと相関することによってはじめて「真実」としての資格を得る。/言いかえれば、帝国や文明という社会は、そのような概念・イメージと相関し、それを支えうるシステムとして貢納や徴税、用役や教育、行政文書や経典等の関係や実践、地の体系を作り上げ、その中で帝国や文明に関するイメージを再生産してゆくのである。」(96)

「貨幣と測量とは、社会の構成要素を単一の指標によって通約的に把握し、それによって社会的な諸関係を交換可能な量からなるものとして組織するという、同一の精神を体現しているのである。」(104)

「測量する視点とはいわば「権力の眼」なのであり、この眼を通じて土地と社会との関係が「数量」として客体化され、客観化されて、一義的に確定されてゆくのである。」(106)

●第三章 近代的世界の「発見」

●第四章 国土の製作と国民の創出

●終章 地図としての社会 地図を超える社会

「近代的地図が「世界」として描き出す範域の拡張と正確な測定、そしてそれらの範域の領域国家による属領化は、領域的な主権国家と資本主義、そして近代的な科学技術という近代的な社会を支えるシステムの地球的な規模での展開と対応していた。それは、特定の様式をもった知、生産と流通、統治権力、およびそれに相関する身体技術や時間システム等の社会的諸関係を秩序づける諸様式の地球的な規模での普遍化=世界化、私たちが「近代」と呼ぶ社会の普遍化=世界化と対応していたのである。」(212)

●あとがき
「地図の歴史や文化史、地図的な表現をめぐる考察等を読んでいるうちに、「社会」と「空間」についてだけでなく、「社会という経験」そのものについても、地図という表現を触媒にして考えることができるのではないかという気がしてきたのである。」(255)

橋本治(2001)、『20世紀(下)』、ちくま文庫、2004。

 日本の(そして人びとの)生きた「20世紀」を、各年ごとに見ていく書籍。年ごとの常識や認識枠ぐみのちがい(つまり当時の人びとの生活世界の変化)がなかなかに興味深い。例えば、京王線は1913年に開通するが、東京の郊外化が現実になるのは、つまり「通勤圏として開けるのは、1923年の関東大震災で都心部が壊滅してしまった後」(上137)なのである。1907年開通の渋谷ー玉川を繋ぐ玉電も、「これで玉川の砂利を運び、そのついでに人間も運んだ」(上138)ものであった。
 興味深い点を下から引用。

「「駅前にスーパーがある」と「不便ながらも」を一対の条件のようにして、日本人の住宅エリアは広がって行く。戦後の新しい生活スタイルは、スーパーマーケットと共に、かつての生活習慣を保ったままの住宅街から離れたところで確立された。」(下 80:「1958」)

「1969年に、「思想」はその役割を終えた。「思想」は「豊かさ」を作り、その豊かさの中で「思想」は不必要になった。1970年から始まるのは、「思想」を必要としない「大衆の時代」なのである。時代の中で生まれた「思想」は、まだ続く時間の中で古くなり、時代というものに追い越されて行った。それを自覚しない「思想」の信奉者は痙攣し、その責任と役割を「大衆」にバトンタッチした「思想」は、ゆっくりと終焉を迎えて行く。」(下148:「1969」)

 橋本治の本は幾つか読んでいるが、内田樹の本を一定数読んでから見てみると、内田の文体がいかに橋本の影響を受けているか、「なんとなく」(こういう書き方、ということです)分かってくる。
 他に1960年代が週刊誌の時代だった(1961年に週刊誌が17誌も増えた)ことなど、その時代に生きていない「若手」として非常に興味深い内容が多い本だった。
 本書には言及はないが、オイルショックを「産業構造の変化」で対応できた日本は1974-75年をマイナス成長にするだけで1992年のバブル崩壊まで常に右肩上がりの成長をしていたのであった。その分、大学と企業のつながりは深く、大学生の就職難は問題化しなかった。一方、オイルショックを乗り越えられなかったヨーロッパ各国は、そこから恒常的に若者(大学生含)の就職難が問題化することになった。日本はいわば欧州の認識と遅れて同調したわけだ。現在の日本の就職活動をめぐる問題を見ていると、どうも一国内に終始しており、「ヨーロッパもそうなのだ」という伝え方をしていない。他国に習う発想が、こと就職活動については行われていない。

藤田英典(1998):志水宏吉編著『教育のエスノグラフィー』、嵯峨野書院。

p54現象学的エスノグラフィー
「後期フッサールやA・シュッツが説いたように、〈生活世界〉は日常生活者によって意味付与され、枠付けられて展開しているのであるから、その意味付与的な行為とその行為を通じて構築され展開している間主観的な意味世界を記述し考察すると言う意味である。また、P・ブルデューの見方によれば、社会は生活者のハビトゥス(行動産出原理としての身体化された心性)によって意味付与され、構造化されており、その構造は実践(慣習的・戦略的行動)のなかに顕現し、かつ、実践を枠付けているのであるから、その実践の展開過程を記述し考察することにより文化社会・生活世界やそこでの諸活動の特徴(構造・機能・意味・性質)を明らかにするというのが、ここでいう現象学的アプローチである。」

真木悠介(1977):『気流の鳴る音 交響するコミューン』、筑摩書房。

 70年代的思想の影響が如実に現れている本。当時はコミューンや疎外論が恐ろしく力を持っていた。時代が生んだ本と言えるが、当時を知らない私としてはかえって新鮮さを覚える本であった。

「「世界」と〈世界〉のちがいについては、それ自体本文の全体を前提するので、あらかじめ正確に記述することはできない。とりあえずこうのべておこう。われわれは「世界」の中に生きている。けれども「世界」は一つではなく、無数の「世界」が存在している。「世界」はいわば、〈世界〉そのものの中にうかぶ島のようなものだ。けれどもこの島の中には、〈世界〉の中のあらゆる項目をとりこむことができる。夜露が満点の星を宿すように、「世界」は〈世界〉のすべてを映す。」(31-32)

「目の世界が唯一の「客観的な」世界であるという偏見が、われわれの世界にあるからだ。われわれの文明はまずなによりも目の文明、目に依存する文明だ。」(82)
「重要なのは見ないことではなく、目に疎外されないことだ。」(85)

 カスタネダという老人の教え
「人間が暗闇の中で走りたくなるのは、必ずしも恐怖に駆られてではなく、「しないこと」を知ってよろこびにわいている身体の、きわめて自然な反応でもありうるのだと言う。」(89)

Bourdieu, Pierre/Wacquant,Loïc.J.D(2007):水島和則訳『リフレクシヴ・ソシオロジーへの招待』、藤原書店、2007。

 ブルデュー思想を、ロイック・ヴァカンが整理・編集した著作集。読書上のメモの抜粋集としてここに記す。

第Ⅰ部 社会的実践の理論に向けて(ロイック・ヴァカン) 

「ブルデューは方法論的一元論のあらゆる形態、構造もしくは行為主体、システムもしくは行為者、集団もしくは個人のいずれかに存在論的優先性を主張する考え方に反対し、関係というものの優先性を主張する。彼によれば、二項対立のどちらかを選ばせる考え方は社会的リアリティについての常識レベルの見方を反映しており、社会学はそうした見方を取り除かなければならない。」(34)

36頁より:「ハビトゥスと界がこれら諸関係の結び目を示す鍵概念である」

「ハビトゥスは構造を形成するメカニズムであり、行為者の内側から作用する。」(38)

「「実践感覚」はあらかじめ知っている。つまり、現在の状態のなかに、界がはらんでいる未来の状態を読み取る。過去、現在と未来はハビトゥスのなかでお互いに交叉し、相互浸透しているからである。」(43)

*「実践感覚」と書いた後、[勘]と記述されている箇所があった。実戦感覚、つまりハビトゥスは「勘」ということであるのかと気づいた。

「グラムシがすでに理解していたように、科学こそまさに、きわめて政治的な活動なのである。」(78)

「社会学の使命は、行為を規定している制約要因の世界を再構成することによって、行為がなぜなされたか、その「必然性を示す」ことであり、それらの行為を正当化することなく、恣意性から引き離すことである。」(81)

「ブルデューにとって、真の知識人は時の権力、経済的ならびに政治的権力の介入から独立していることによって定義される。」(90)

*アメリカのダウンタウンのボクシングジムの事例を出すヴァカン。このあたりは、彼のエスノメソドロジー実践を示している。

「結論としていえば、それが示唆しているのはブルデューの社会学が彼がこの言葉に与えた意味でのひとつの政治として読まれるべきだということだ。つまり、われわれを構築したものの見方を変える企てとしてである。それゆえに社会学は、合理的に、そして人間的に、社会学を、社会を、そして究極的にはわれわれの自己を形づくることができるのだ。」(93)

第Ⅱ部 リフレキスヴ・ソシオロジーの目的(ヴァカンの質問にブルデューが答える)

「あらゆる社会学は歴史学的であり、あらゆる歴史学は社会学的であるべきなんです。事実、私の提案している界の理論の機能のひとつは、再生産と変動、静態と動態、あるいは構造と歴史の間の対立を消滅させることです。」(124)

「界という観点から考えるということは、関係論的に考えるということです。」(130)
「ヘーゲルの有名な言葉をもじって、実在するものは関係であるといってもいいでしょうね。社会学的世界の中に存在するものは、関係です。行為者同士の相互行為でも間主観的な結びつきでもなく、マルクスがいったように「個人の意識や意志からは独立して」存在する客観的諸関係なのです。」(131)

「界の概念の主な利点は、それぞれの界について、境界は何か、他の界とどのように「接合」されているのか、といった点をつねに自問するよう強いることです。それは実証主義的経験主義の理論不在に陥ることではなりません。現実に対して立てられる、繰り返し立ち戻ってくる問いの体系を扱うということです。」(147)

「ハビトゥスとは知覚図式、評価図式、行為図式の体系、持続が可能で組み替えの可能な体系ですが、この体系は社会的なるものが身体(あるいは生物学的個体)のなかに成立した結果です。界は、さまざまな客観的関係からなる体系ですが、この体系は社会的なるものが、物のなかに、あるいは物理的対象とほぼ同じリアリティを有するメカニズムのなかに成立した産物です。さらにはいうまでもなく、社会科学の対象はこの[リアリティと界との]関係から生まれたものすべて、すなわち社会的実践や表象、あるいはそれらが知覚され評価されるリアリティの形態として現れたものである界をも含みます。」(168)

「ハビトゥスは特定の状況とのかかわりのなかでしか現れません。」(177)

「私の研究活動においては、もっとも重要だと私が考える理論的アイディアを見つけだしたのも、聞き取り調査を実施したり質問票の集計をしたりすることによってだったのです。」(208)

「保護されていた結婚制度から「自由交換」への移行は犠牲をつくり出します。」(214)
→現在の「婚活」の発想を、ブルデューは1989年の時点で指摘していた。

「社会学者とは、街頭に出かけていって誰にでもインタビューをし、人々の話に耳を傾け人々から学ぼうとする人たちです。これはソクラテスがいつもやっていたことです。」(256)

*第Ⅱ部ではブルデューのハビトゥスや界の概念がいかに安易に解釈され、誤解されてきたかを示している。そして、その誤解を訂正する内容のやり取りが多く行われている。

第Ⅲ部 リフレクシヴ・ソシオロジーの実践

「私がみなさんに教え込みたいと願っている姿勢のなかに、研究を合理的計画としてとらえる能力があります。研究を一種の神秘的な探究として大げさに語るのは、自分を安心させるためなのでしょうが、逆に恐れや不安を大きくするだけです。研究を合理的な企てとみる現実主義の姿勢は(…)はるかに深い失望を味わうことのないよう身を守るための、おそらくは最良の方法であり唯一の方法なのです。」(271-272)
→だからこそ「研究者が淡々と自分の仕事をこなしていく」ことを否定的にみないのが重要である。ウェーバーの『職業としての学問』にあった「日々の仕事(ザッヘ)へ帰れ」も、要するに淡々と研究することであろう。

「他のどんな思想家以上に社会学者にとっては、自分自身の思考を思考されざる状態に放置しておけば、自分が考えているつもりの当の対象に道具として使えてしまうことになるのです。」(293)
→これはマンハイムの「存在の被拘束性」ということとしても説明できる。また、ウェーバーの「客観性」論文も、同様の内容である。研究者自身の認識枠組みやハビトゥス・界に自覚的であることが必要だと名高い社会学者たちは語っているといえる。

訳者あとがき

「相手を対象化しようとうる動機(社会学に惹かれる人間につきまとう動機)それ自体が当人に自覚されない限り、人は相手について語っているつもりでつねに自分について、あるいはその相手と自分との関係について語ってしまう、という洞察に立脚するものだったのである。」(338)

「誤解を恐れずにいえばブルデューの学問的営為を「異文化体験の現象学」と形容できるのではないだろうか。ここで「現象学」という言葉は、本書で用いられる客観主義と対置されている主観主義という意味ではなく、志向性という概念を軸に「知る者―知られる者」のあいだにある「関係」を考察の焦点とするという本来の意味で用いている。」(339)

*本書冒頭ではヴァカンが「この本にはブルデューの著書のダイジェストでもなければ、ブルデューの社会学の体系的解説もふくまれていない」(10)と断わりを述べている。しかし、結果的に本書がブルデュー入門になっているのは興味深い点である。また、ブルデューの学問観や学者に求める姿勢が非常に参考になる。

*本書は竹内洋『社会学の名著30』のトリを飾るものである。

フレイレ『伝達か対話か』読書メモ

「人間として生きることは、他者および世界とかかわって生きることである。それは、世界をそれ自体で独立した、認識可能な客観的現実として経験することである」(15)

「存在するということは、人間と人間、人間と世界、人間と創造者のあいだの永遠の対話を包摂するダイナミックな概念である。人間を歴史的存在にかえるのは、この対話である」(44)

「もし教育にたずさわるものが、新しい社会の生誕になにか特別に寄与しうるものがあるとすれば、それはほかでもなく、批判的態度の形成をたすける批判的な教育を生みだすことであったと思われる」(71)

「われわれの状況が求めている教育とは、自分たちが生活の場で直面している諸問題をだいたんに議論し、それにとりくむことのできる人間を育てるということである。こうした教育は、現代の危険がどこにあるかを人びとに気づかせ、ともすれば他人の決定に服従することによって自分というものを放棄してきた人びとに、それらの危険にたちむかう自信と力を与えるものとなるのである」(74-75)

民主主義の学習は「実践」をもって学ばれる。
「じっさい民衆は、民主主義の実践をへてこそ、それを習得することができるのだ。民主主義の知識は、他のすべての知識とおなじように、経験をくぐらせてこそ血となり肉となるものなのだから」(80)
→だからこそ「ことばだけで民衆に伝えよう」(同)とすることは無意味なのだ。そういう意味では、学校を民主主義育成の土台にしようとしたデューイに連なるものがある。「真の交流をつくりだすのは、対話だけである」(99)というフレイレの言葉をかみしめる必要がある。

識字について。
「識字というのは、日常の生活世界とは切れている生命のない対象物である文章、単語、音節を記憶することではない。むしろそれは、創造と再創造の態度を身につけ、各自が現実にかかわる姿勢を生みだす自己変革の力を獲得することなのである。/かくして教育者の役割は、具体的現実に関する非識字者との対話にひたすら身を投じ、かれが自分で読み書きを自学自習できるための道具を、完全にかれに与えることである。」(105)
→「自学自習できるための道具」とは、イリイチの「コンヴィヴィアリティのための道具」を思い起こす。

 他者との対話による教育を想定したフレイレ。この対話は「学校」でなくとも成立する(むしろ学校が「言葉」を教えこんで「沈黙の文化」に民衆を陥れている)。フレイレの「脱学校」思想はそういった意味でのものなのだ。

フレイレ1967=1982『伝達か対話か』亜紀書房、里見実ほか訳

フレイレ『自由のための文化行動』抜粋ノート

Freire, Paulo(1970):柿沼秀雄・大沢敏郎訳/補論『自由のための文化行動』、1984。

「第三世界の非植民地化によって切り拓かれた道、それは全人類の真の解放へ向かう道か、あるいはもっと巧妙に仕組まれた飼いならしへ向かう道か、ふたつにひとつしかない。したがってそれは、教育の意味と方法の再検討を迫っている状況なのである」(4頁)

「どんな教育も中立ではありえないということである。飼いならしのための教育か、自由のための教育か、このふたつがあるだけである。教育は、常識的には条件づけの過程と考えられているけれども、同時に条件を突破するための道具にもなりうる。教育がそのどちらになるか、最初の選択は教師の手に委ねられている」(6)

「私たちの行う選択が人間のためのものであるならば、教育とは、自由のための文化行動であるがゆえに、記憶行為ではなく、認識行為にほかならない。それを明らかにすることが、成人識字過程を論ずるこの本の根本目的のひとつである」(11)

「それゆえ、(構造の―訳者)内側で生きる存在になるのではなく、自己解放を遂げて人間になること、それこそがかれらの問題を解決することなのだ。なぜならば、その実かれらは、構造に対してマージナルな存在なのではなく、構造内部の被抑圧者だからである。疎外された人間であるかれらは、自分たちを従属させるにいたっている構造そのものに統合されることでは、その従属性を克服することができない」(18)

「根本的には、私が『被抑圧者の教育学』で指摘したように、被支配階級が支配者の生活様式を再生産するわけは、被支配者の内部に支配者が宿っていることにある。被支配者が支配者を放逐できるのは、支配者から距離をとって、みずからを客観化する場合だけである」(31)

「何よりもまず、人間を、世界のなかに、世界とともにある存在として批判的に捉えることから始めなければならない。意識化のための基本条件は、その行為者agentが主体、つまり意識的存在でなければならないということである。したがって意識化とは、教育と同様に、すぐれて人間的な過程なのである」(59)

「真の親交には、当然、世界によって媒介される人間と人間との交流communicationが含まれている。意識化を実現可能なプロジェクトにするのは、唯一親交という脈絡のなかにすえられた実践だけである。意識化は協同の事業である。それは、この協同の事業に取り組む他者のなかにいるひとりの人間の内に、つまり自分たちの行動によって、またその行動と世界に対する省察とによって結ばれた人びとのなかで生きるひとりの人間の内に生起するものである」(105−106)

次はイリイチへの批判とも察せられる内容である。
「人間は、未完成の、そして未完成であることを意識している歴史的存在である。だからこそ革命は、教育がそうであるのと同様に、人間の自然で永続的な次元なのである。教育はある時点に至ればなくなってよいのだとか、革命は権力を握ればそれでおしまいにしてよいのだ、などと考える者がいるとすれば、それは機械的心性の持主だけである。革命は、それが真正であるためには、永続的な出来事でなければならない。そうでない場合、革命は、革命であることを止めて硬直した官僚制に変質するだろう」(117)
→永続革命としての教育である。つねに自身がドクサにとらわれいないかに自明的である必要がある。

(訳者あとがき)「フレイレの方法が日本における生活綴方の教育方法と実によく似ていることに気づかされる。書くということに執着したこの教育方法が、子どもを取り巻く生活現実に取材し、書き、書いたものを読み、討論する主体をあくまで子ども自身にすえた、という点でも、フレイレの認識主体論と共通している」(189)

(訳者あとがき)「識字とはたんなる文字言語の習得ではない。それは、ことばあるいはみずからの表現を奪われて〈沈黙の文化〉の淵におとしめられている人間たちが、他者や物・事との親しい交わりのなかで、みずからのことばと表現を奪い返し、沈黙を強いる抑圧的な現実世界の深層に潜む文法を読み取って、その現実を変革する批判的主体にみずからを形成していく〈意識化〉の文化過程を指すものである」(191)

イリイチ『脱病院化社会』読書メモ

「私の論じたいのは、現在の医原的流行病を阻止するためには、医師ではなく素人が可能なかぎり広い視野と有効な力とを持つべきだということである」(13)

「お互いの自己ケアの能力を回復し、その能力を現代の応用技術の活用と結び合わせることに習熟した人々のみが、他の重要な分野においても、工業的様式の生産に制限を加えることができるだろう」(17)

「独占一般は市場を買いしめるが、根底からの独占は人々が自ら行為し、自らつくる能力を奪ってしまう」(39)

「集約的教育の結果、独学者は雇用されず、集約農業は自作農夫を破壊し、警察の発展は地域社会の自己制御を蝕んでしまう」(40)

「自ら学び、自ら癒し、自分で自分の道を見出すよりは、教えられ、動かされ、治療され、導かれることをわれわれは欲するのである」(168)

「話す自由、学ぶ自由、癒す自由を絶滅する一つの確実な方法は、市民の権利を市民の義務に変えることであり、それを制限することである」(191)

「健康であると証明されるまでは市民は病気であるとみなされる」(93)

「どのような価値の主要領域においても、産業生産の拡大がある点を超えると、限界効用は公正に分配されなくなり、同時に全般的な有効性も下降しはじめることは証明されうる」(214)

「人は他人に対して責任をもつと主観的に感じるときだけ、彼の失敗の結果は批判、中傷、罰というものでなく、遺憾、自責、真の後悔となる」(219)

「医療の介入が最低限しか行われない世界が、健康が最もよい状態で広く行きわたっている世界である。健康な人々とは健康な家に住み、健康な食事を食べる人々である」(220)

*Illich,Ivan(1976):金子嗣郎訳『脱病院化社会』、1998年、晶文社。

里見実『学校でこそできることとは、なんだろうか』太郎次郎社エディタス、2005年

 本書は近代学校教育を批判するという「よくある」本である。けれど、1点違うのは〈「学校」がダメなのはよくわかるが、逆に学校でこそ出来ることはいったいなんであろうか〉という点である。著者はデューイやフレネの行う経験主義に基づく学校教育のなかに、今後の「学校」教育のヒントを求めている。

個のレベルでの学びを大胆に追求した教育実践家たちの多くは、学習の個別化と学びの共同性の追究を、二律背反のこととは考えていない。一方の深化は他方の深化をうながすのだ。(47頁)
クラスをもった教師たちがまず最初にとりくむのは、学級づくりであり、あたたかで協力的な子どもの関係性をつくりだすことだ。勉強そのものよりも、この子どもの関係づくりに教師は自分をかけているといっても過言ではないだろう。それがなければ「勉強」も進捗(石田注 しんちょく)しないことを熟知しているからである。(51頁)
たんなる情報蓄積型の学習ならば、共同性は、おそらく無用であろう。昨今、学力向上の名目で、いわゆる「学習の個別化」、そのじつは「学習の一律化」が推奨されるのは、その学力観が徹底的に情報蓄積型であり、同化・吸収型であり、預金型であるからだ。こうした学習像の行きつくところ、それは、電子メディアによる「学習の個別化」の徹底、その「能率」化、すなわち学校の解体であると思われる。そうした「ポスト学校」社会へのシフトは、教育産業だけでなく、今日の学校の内部で、すでにはじまっているといってよいだろう。
 だからこそいま、学校で何が可能かを、われわれは深刻に問わなければならないのだ。(52頁)
→「銀行型教育」はフレイレが批判した概念である。「銀行型教育概念にあっては、知識は、自分をもの知りと考える人びとが、何も知っていないとかれらが考える人びとに授ける贈物である」(フレイレ『被抑圧者の教育学』67頁)。このとき生徒は教員の言葉を頭の中に「預金」するのみであり、その預金を活用することがない。教員―生徒の間に「対話」は成立しない。ゆえにフレイレは「課題提起教育」という教員―生徒間の「対話」が成立する教育法を提唱したのであった。そのときに「生徒であると同時に教師であるような生徒と、教師であると同時に生徒であるような教師teacher-student with students-teachersが登場してくる」(同81頁)。
習熟主義的な「学力向上」は、最終的には学校否定に行きつくことになるのではないかと、ぼくは思っています。つまり、それは学習を本質的に利己的なもの、個人主義的なものとしてとらえていて、他者とのやりとりのなかで解発され、高められていく場のなかの行為としてはとらえられていないのです。となれば、学習の成否を一義的に規定するのは、その子どものアタマのよさ、遺伝子的に決定された知的能力といったようなものになっていくでしょう。それはなんとも「貧しい」学習ではないでしょうか。(199頁)
→ここで里見が言う点は、非常に重要な概念である。正統的周辺参加論legitimated peripheral participationを思い起こす。「徒弟制度などの下で、新参者が当該の実践的共同体の営みに参加することを通して、古参者からその知識や技能を修得していく過程を学習論として一般化した理論である。この理論によって、文脈を欠いた知識や技能を個々に獲得するのではなく、本物の実践を組織することで状況の文脈に埋め込まれた学びを共同的に展開することの重要性が指摘された」(浜田寿美男「正統的周辺参加論」、佐伯胖編『「学び」の認知科学事典』大修館書店、2010年、118頁)。「学び」は個人的プロセスである点は否めないが、集団内だからこそ学べる点もあるのである。それが「暗黙知」であったり、「こつ」であったりする。
*『「学び」の認知科学事典』より、暗黙知について。「暗黙知(tacit knowledge):実戦的経験からインフォーマルに獲得された非言語的な知識。学校や書物を通して教えられる形式的、言語的な知識と対比される」(楠見孝「大人の学び」、同書257頁)。
 なお、解発とは「特定の反応または行動が一定の要因によって誘発されること」(『広辞苑』第5版)。
事物とかかわり、また他者と恊働する場を保障しないかぎり、個人の成長もまた期待しがたい。社会成員としての人間の成長と個人の個性の開花を、デューイは二項対立と考えませんでした。それを対立項にしてしまう社会と教育のありかたこそが問われなければならないのです。(205頁)
 最後に、後学のための引用。
約束の土地であった西部のフロンティアが消滅した十九世紀の後半以降、学校が新しい「西部」として登場したと、『アメリカ資本主義と学校教育』の著者、S・ボウルズとH・ギンタスはいう。学校の階梯をよじのぼることによって、貧困や肉体的苦役から個人は解放されると期待された。そしてこの競争は、すべての者にたいして均しく開かれており、チャンスは平等で公平でなければならなかった。それこそがアメリカの民主主義の証たるべきものであった。(18頁)