元森絵里子(2009):『「子ども」語りの社会学 近現代日本における教育言説の歴史』、勁草書房。

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元森氏の博士論文を元にした本。結論部分に感銘を受ける。要は「子ども」と「大人」を分ける切れ目はどこに現在おかれているか、という部分。「すなわち、身も蓋もない結論であるが、現代において、「子ども/大人」の区分は、もはや「子ども」の処遇に関する領域それ自体ではなく、経済(市場)、法、政治(行政国家)などの近代社会を支える諸制度に組み込まれたものとして、消し難く残り続けるのである。そうであるならば、教育などの「子ども」をそれらの領域から保護して「非主体」に留め置く—さらに言えば、同時に責任主体としての「大人」にする—領域は、その陰画としてのみ要請されると考えられる」(216)

 その言い換えが次の部分。
「消し去れない(☆大人と子どもの)最終ラインは、経済、法、政治という領域との関連性における「子ども」のための領域であり、それらの領域で責任主体たれない未成年という擬制のみである。このある意味身も蓋もない知見を前章までの知見に引きつけて言い換えれば、現代において、「子ども」と「大人」を分けているのは、しばしば想定されているような、完全に倫理的な判断力や責任能力を備えた「近代的主体」とその準備期間という区別でもなければ、本書で見てきたような、秩序に一体化する「国民」とその予備軍という区別でも、非社会的な「私」と理想の生という区別でも、堕落し誤った存在と未来の社会を実現する存在という区別でもないのである」(220)

 言説分析の長い検討と、プレーパークでの「語り」の検討などをもとに出した結論がこれである。確かに現在の切れ目は「責任主体」たるか否か、にあるということができる(こういうと本書をすごく乱雑に語ったことになってしまうが…)。

 ほか、中学生毎日新聞の言説分析部分に「登校拒否」に関する中学生の投書数の分析(165-)など、使える箇所があった。

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