エッセイ

「途上国に学校を作る」ことは本当に善なのか?

 よく「途上国に学校を作ろう」というプロジェクトを耳にする。テレビでも、芸能人が学校作りに携わることがある(島田紳助など)。不思議なのは、どの時も「学校を作るのは善だ」という認識に皆がとらわれていることである。

 皆さんの学校経験を振り返ってほしい。学校は本当に素晴らしい所であったか? 私にとってはそうではなかった。自分で出来る内容を、「授業を聴かないで学んでは駄目だ」という無言の圧力ある場所。無理やり、クラスメイトと仲のよいフリをしないといけない場所。途上国に学校を作るとき、子どもの中に今までなかった「学校の持つ気持ち悪さ/苦痛」を与えてしまう可能性も考慮する必要がある。
 個人の内面だけでなく、文化自体も「学校」により消滅していく。例えばアイヌの文化。文字を持たない彼らの文化は、それ故に独自の輝きがあった。文字を学習する場所(つまり、学校)を無文字文化圏に作るとき、文化それ自体の特殊性も消え失せてしまうのではないか。
 フレイレは「学校」によって何年もかけて文字を習得させることを批判した。そんな非効率的なことをしなくても、必要ならば6週間程度の研修だけで識字教育は充分可能である。ゆえに子どもの時に無理して学校で教育を行わなくてもよいのではないか? これがフレイレの問題意識であった。
 したがって途上国支援の文脈で「学校を作ろう」という発想を、私は胡散臭く感じてしまう。日本ユネスコ協会の世界寺子屋運動も、ボランティアレベルでの学校建設運動も、「学校を作ることは善だ」との発想から抜け出ていない。「学校を作ること」の弊害も議論した上で発想しなければ、途上国の自由な子どもを「学校化」させるだけに終ってしまう。

私は、いったい何をしているのだろう?

 私は、いったい何をしているのだろう?

僕は草の茂みで
教科書を探してる
教科書が見つからない
学校にまにあわない
ノートもどっかいっちゃった
先生に怒られる…(たま『学校にまにあわない』)
 私は草の茂みで何かを探しているけれど、見つからない。それは たまの『さよなら人類』の「こわれた磁石を砂浜で ひろっているだけさ」という歌詞と同様、もはや見つかりもしないものを必死に探す姿と言えないか? 磁石で砂鉄は見つかるが、その逆はない。
 
 すぐれたメンバーばかりの集団にいる時、私はひどく疎外感と自己無能感を覚える。そんなとき、私は思う、「いったい何をしているのだろう?」と。見つかりもしないものを探しているようだ。
 これを克服するためには、結局なにかの道を貫くしかないのではあるが、これでいいのかはよく分かりはしない。
 けっこう映画も本も読んできたのに、人と話が合わない。会話が成立しない。そんな「もどかしさ」を感じ続けている(だから夏目漱石『行人』の長野一郎はテレパシーの研究をしていたのか)。全然、客観的には不幸ではない。けれど何故か「もどかしさ」と「俺、だめなんじゃないか」感がつきまとっている。
 前に(昨年9月)そうとう落ち込んだときに『誰かへの手紙』を書いた。あれは、「いま」の自分への「手紙」でもあったのかもしれない。
 「人は分かってくれない」と言うのはカンタンだ。でも、そう思うことは他人を軽視することだ。大事なのは自分の考えや思い・「もどかしさ」を誰かに伝えることだろう。「君」に手紙を送ることだ必要なのだ、という内容の小説。
 こう落ち込んでいる「いま」の私を、何とか乗り越えたいと思う。もう一度、『誰かへの手紙』でも読もうか。

『そんなぼくがすき』考。

(この文章は、タイの卒業旅行中に書いた)

 暑いと、まったくやる気がしない。タオ島の自然は「のんびりやれよ」と言ってくれているようだ。

 何故か昨日から「たま」のいろんな曲が頭の中で再生される。「どうせ歌っても判らないだろう」とタイ人や欧米人の前を通るとき声に出して歌ってもいた。
かなしい夜がすきだから
かなしい朝はきらい
たのしい朝もきらい
そんなぼくがすき
かなしい夜には 腕時計ふたつ買って
右手と左手で 待ちあわせてあそぶ
ネクタイの生えた花壇の前のベンチで待ってるのに
のろまなぼくの左手はひとりお部屋であわててる
 この歌、私の心理描写である。ダメダメな自分。でも「そんなぼくがすき」と自分で言い切る。私もこうして駄文を書き連ねているが、それも「人とぶつかれない」・「深く関われない」という自分だからこそ、書けるものもあるのだと考えている(半分事実で、半分願望)。
 しかし、どこに行っても(タイに行っても)、何をしても、つきまとうのは「私」という自我の問題なのだなあ…。まだ自分と向き合えるだけ、幸せなのかもしれない。
(昨日、私が親と喧嘩したことがないことに気づき、愕然とした。「どうせ、いま怒られてもすぐに東京に戻るし」という親との人間関係の〈あきらめ〉があるようだ)

中学校 公民科教科書に感じる違和感。

 中学生のとき、公民の教科書に違和感を持っていた。現代の日本や世界の諸問題がたくさん羅列された内容。「未来は君たちにかかっている」というようなメッセージが伝わってくる。これに辟易していた。だって、環境破壊も南北問題も僕が何かしたから起きたんじゃないんだもん。先行世代の責任ではないか、と。

 さすがに今ではこのような幼稚な発想はしないようになっている(はずだ)。けれど、教科書の記述に未だに違和感がある。特に感じるのは、少子高齢化がテーマになっている箇所だ。

日本では現在、出生率の低下と平均寿命ののびによって、少子高齢社会に突入しています。(…)少子高齢化は、社会保障のあり方にも影響をおよぼしています。少子高齢化が進むと、社会保険の給付額は増大するのに、働き手が減るので収入の総額はむしろ減ってしまうでしょう。とりわけ深刻なのが公的年金です。(…)給付を現役世代の支払った保険料でまかなう方式では、現役世代に重い負担がかかります。(平成18年発行『新編新しい社会 公民』東京書籍、129頁)

 日本がお年寄りばかりになっている、との話の後に続く年金制度の説明。これを教育の場で扱う時、「自分たち大人のために、社会制度を守ってほしい」という身勝手な欲望を子どもに伝えることにはならないだろうか。別に現代の制度(特に年金制度)はベストなものでない。ひょっとすると最悪の制度かもしれない。「そもそも、この制度は必要なのか」を議論する必要すらあるかもしれない。けれどこのような話し合いもなしに、「みんなはこの制度を支えていくんだよ」と語りかけるのが教科書(または教師)だ。なんだか詐欺のような話である。
 
 前に読んだ吉本隆明と山本哲士の対談を思い出す。

ぼくはたいへん感動して(注 山本の本を)読んだんですが、明日の社会のため、国家のために子どもをどうするのかとか、どうしたら子どもはよくなるのかといったことを主張する教師、教育者などはいなくなったほうがいいんだ。そういう連中がなくなることがきわめて重要なんだといわれていますね。(『教育 学校 思想』76頁 吉本の発言)

 私も、「そういう連中がなくなることがきわめて重要なんだ」と思うのである。
追記
●ちなみに、教育社会学において教育の意味合いは非常に単純明快。「選別」と「社会化」である。本文で、「年金制度を君たちが支えていくんだよ」とのメッセージが教科書に込められていることを述べた。当人に気づかれないよう、巧妙に「社会化」を行えるよう、公教育では教育プログラムが組まれている。自分が、さも自由意志に基づいて判断を行ったように錯覚させることができれば、「社会化」プログラムは大成功なのだ。年金制度について誰も疑問を持たないまま授業を終らせることができたら、「社会化」完了なのである。
 

なぜ私は受け身なのか?

 どうも私は「固い話」が好きで、それ以外になるとすべてに受け身(聞き手)になる。会話だけでなく、行動もそうだ。例えば何人かで海にいく時。「自由にしていい」ゆえに何をしていいかわからなくなる。友人とプールに行った時、適切に振る舞えないのが私なのだ(自分が本当にしたいことは、勝手に行えるんだけどね)。何か指示されて初めて動ける。

 なぜ私は受け身なのだろう? それは「一人」になる良さを知ったことによる。一人の良さは、「何もしない」ことを受け入れてくれるところにある。何かを集団でやるのは私の性にあわない。一人で何かをするのが好きだ。
 「たま」の歌『そんなぼくがすき』。これは一人で何かを行い、「かなしい夜」を楽しめる男の明るい歌である。
かなしい夜には 留守番電話を買って
かなしいおもいでを 留守番電話にはなす(…)
かなしい夜がすきだから
かなしい朝はきらい
たのしい朝もきらい
そんなぼくがすき
 固い話は一人で進められる。しかし、集団での「遊び」は何をしていいのか非常に困る。

N先生の思い出。

 高校時代。高三の後半はずっと受験対策に明け暮れていた。数学の時間に日本史をやり、地学の時間に日本史をやり、漢文の時間に日本史をやっていた。私が高校の授業の中で学んだことは、「授業だけ聞いていても、受験には受からない。もし自分の夢があるなら、他者に依存するのでなく、自分から進んで学んでいくことが必要だ」というテーゼである。要は〈内職なくして、主体的な学びなし〉というスローガンを内面化したのが高三の受験生時代だったのだ。

 さて、こんな私ではあるが高校の先生方には色々とお世話になった。それは内職をさせていただいたということだけではなく、個人的に会った際に多くのことを教わったということだ。教室での授業では私はほとんど学んでいなかった。
 特に現代文のN先生の話は非常に興味深かった。寡黙で規律正しいN先生のもとに、私は慶応大学法学部の小論文を解く度に添削してもらいに行っていた。デジタル/アナログの二項対立から小論を書いた際、一読して「面白い。」と言ってくださったことが、ものすごく私の支えになった。ブログで雑文を書きなぐるようになったのも、もとを辿るとN先生に褒めていただいたことが一つのきっかけかもしれない。

 N先生が小論文にコメントを下さる際、次の話をされたことを最近思い返している。実はこの指摘、非常に深い意味があったのではないかと考察しているのだ。忘れないために、ここに記すことにする。

「常に人類の社会は〈少数者による多数支配〉の図式で続いてきた。ギリシャの市民政治も多くの奴隷を支配していたし、ローマ帝国も中国の各王朝も日本の大和朝廷・天皇制も常に〈少数による多数支配〉であった。現代の日本においてもそれは続いている」

 高校時代、N先生からお話をうかがえただけでも意味があったように思える。

時代劇にまつわる考察。

 「あばあちゃんは、必殺仕事人が好きなんや」
 故郷・兵庫にいる母方の祖母が私に語ったことがある言葉だ。

 私の祖母のように、「時代劇をよく観る」という老人は数多くいることだろう。けれど、「時代劇をよく観る」からといって、「お婆ちゃんの誕生日のお祝いに、ずっと時代劇の映る衛星放送を契約したよ」とすることは、必ずしも喜ばれることではない。
 通常、祖母は選択可能なチャンネルの中で、相対的に個人的趣味にあう番組を選んで視聴している。通常のテレビにおける選択行動と、「これ!」と決めたお気に入りばかりをずっと視聴するという衛星放送的選択行動とでは、天と地ほどの差があるのだ。
 だから、「時代劇好きな祖母が喜ぶ」と思ってスカパーなどの衛星放送を導入することは、双方不幸になることがある。祖母は別に時代劇ばかりを観たいわけではないのに、子ども(孫)に遠慮してそれを視聴しないといけなくなるからだ。
 だから、テレビの宣伝でも気をつけないといけない。「スカパーではお好きな番組をいくつも契約できます。ご老人が喜ぶ時代劇専門チャンネルを契約されますと、親孝行ですよー」。こんな殺し文句に負けてはいけないのだ。

アーレントの他者概念。

 読書会で使用するため、岩波書店の志向のフロンティアシリーズの『公共性』を読了した。アーレントをもとに公共性を説く。若干、理解に及ばないところもあったが、だいたいにおいて興味深い内容であった。

 悩みや葛藤・「ためらい」がある状態こそ人間の本源的状態である、と内田樹は言う。アーレントもその認識に基づいている(あ、時期的に見ても真逆か)。自己の中にひとつのイデオロギーが確固として存在している状態を、危険な状態だと彼女は指摘する。個人の中に多くの他者の声が響き、その中で悩み、考えることに人間の崇高さを説く。
 アーレントにとって、「他者」とはコミュニケーション可能な存在のみをさすのではない。重度の障害者や赤ん坊すらも「他者」と認識する。

 世界は他者の数の分だけ豊かになり、誰か一人が世界から退場することはそれだけ世界が貧しくなる、とアーレントは説明する。ここでいう世界とは人間世界だけでなく、「わたし」の内面世界のことでもある。
 異質な他者を尊重するのは、その分だけ自分の内面世界が豊かになるからである。異質な他者を排斥することは自分の内面世界をそれだけ貧しくすることにつながる。
 
 ひとりの他者をどこまでも尊重する(平易に言うと、「一人を大切にする」ということ)という行動は、自己の生命(=内面世界)を豊かにするための戦いであるともいえる。他者の他者性を尊重した分、自分の内面世界に「他者」が増え、より豊かに生きれるようになる。はずである。

「教育のための社会」とは?

 「教育のための社会」(ロバート・サーマン)という概念が、いまひとつ分からない。
 大学2年生のころの認識では、「教育的でないものを排除した社会」と考えていたが、どうもそれとは違うようだ。
 大学二年の時の認識を検討しよう。「教育的でないもの」とは、たとえば反道徳的・退廃的・反社会的な存在のことを意味する。それらを排斥するとは、簡単に言うと「異質・異様な他者」を排斥するである。ホームレスの人、在日の人、風俗産業従事者、外国人労働者、犯罪経験者を子どものそばから追いやることである。「異質・異様な他者」のいない社会は確かに安全で、暮らしやすく、平和な生活が待っていることだろう。
 いい環境を求めて、都心から郊外に引っ越すのが高所得者の常であるが、郊外には「異質・異様な他者」はいなくなる。親たちはこのことを「教育的にいい環境である」と認識する。安全・快適・平穏・静寂な生活が繰り広げられるからだ。さらに高所得者はゲーテッドコミュニティー(要塞都市)に住む。けれど、このことは子どもにとって本当に喜ばしいことなのか?

 良い社会とは正統的教育コース(高校普通科→大学→大企業or公務員)以外の教育コースの存在を許容した社会である。反・正統的教育コース(高校中退、ニート、中卒就労、高卒就労など)を歩んだ人間は、正統的教育コースに生きる人間にとって、非常に異質な存在として認識される。時には「ああならないようにしよう」という反面教師として、時には「気楽に過ごせていいよな」という呪詛の対象として。
 「異質・異様な他者」を排斥する環境で育つとき、子どもは大人社会の排斥の風潮を内面化する。それが表層に表れ始めた時、大人以上に「異質・異様な他者」を排斥するようになる。昔からホームレスへの暴行事件やチマチョゴリを切り裂く事件が起きていたが、それらは子どもの「異質・異様な他者」排斥が行動として表れた事例である。
 
 結論として言おう。「教育のための社会」を、「教育的でないもの、反・教育的なものを排除した社会」という認識の仕方は誤りである。「異質・異様な他者」を排斥することにつながるからだ。
 ということは、「教育のための社会」とは逆説的ながら、反・教育的なものを包摂した社会ということができる。教育のための社会とは、「いい教育のために~~しなければならない」という言葉が存在しない社会、つまり「異質・異様な他者」や反・教育的なものすら受け入れる社会であるといえるかもしれない。

追記
●「異質・異様な他者」に非寛容な社会は、内部に住む人間にも非寛容である。絶えず同調性を強いるためである。内藤朝雄は「中間集団全体主義」という概念を提唱しているが、まさにそういった一種の全体主義が広まる。そうなったとき、集団内部での排斥者は「中間集団全体主義」を内面化しているため外に出ることを「してはいけないことだ」と認識する。結果、とことんまで追い詰められ精神を病むか自殺をしてしまう(ひどい時は殺傷事件を起こす)。
● 岩崎弘昭の概念を使うなら、「教育のための社会」とは〈教育〉を排斥し、中世以来の「共同体の中に埋め込まれた学び」を復権させる行為であるといえるであろう。

大大学 その傾向と対策





吉本隆明は山本哲士との対談の中で「大大学」を話す。学歴社会の進行が、「大学」ではなくその上の「大大学」を要求するようになる、と。いま、大学院生の数は10年前の2倍。「大学院大学」と「専門職大学院」も普及した。吉本の「大大学」が大学院の形で広まってきている。もはや人は大学に行くだけでは差がつかなくなり、「大大学」である「大学院」にいくことが普及するであろう。学歴社会は「大学全入時代」で幕を閉ざすわけでない。今以上に進行するであろうと思う。このことが本当に「輝かしい」ことか、教育学者は考えなければならない。






 この引用はTwitterの中で、私がIshidaHajime名義で書いた文章だ。吉本隆明と山本哲士の対談『教育 学校 思想』(日本エディタースクール出版、1983)から、元の文章を見てみよう。

(石田注 吉本の発言)一般的に学問とか知識とか芸術とかいわれているものが、もう少し時代が進んで大きな観念の空間を占めるようになるとするでしょう。そうしたら、いまは小学校から大学まであって、中学まで義務教育になっていますが、やがて大学まで行ってもまだ間に合わない。そこで、大大学というものまでできるという発想になりますか。(91〜92頁)

 私の記憶違いで、どうやら必要とされる知識が増大するために「大大学」が要請されるようになる、という文脈であった。学歴社会が進行すると本来学歴が必要なかった職種に高学歴をもった人物が入って来、パイを奪い合うようになる(R・P・ドーアの『学歴社会 新しい文明病』冒頭には「学士タクシー」の話があった。これはもともと高卒程度の学歴があれば良かったタクシー運転手に、大卒の人間が入ってくるようになる、という話である)。いま、「大卒」で仕事にあぶれる人が多くいる時代である。この本が出てから27年が経ち、当時より遥かに多くの大学と大学院が作られた。吉本が危惧する「大大学」化は次第に現実化しつつあるように思える。
 そうなった場合、人間がさらに幼稚化すると吉本と山本は続ける。中卒で働くのが普通だった時代と、高卒で就職が普通であった時代、大卒就職が普通となる時代とでは、同年齢の人間でも「幼稚さ」が高まってくる。もっとさかのぼると、「学校」がなかった遥か昔、子どもたちは「小さな大人」として遇されていたことを考えれば、「学校」が人類の幼稚化をもたらしているように思える。
『対話 教育を超えて』の中で、イリイチは言う。

ぼくは、教育なんてものは、西洋の中身のないからっぽの機構、つまりもっとも異端的な教会でしかないと思っている。ぼくが子供について話すのを避けてきたのは、全世界の民衆が幼児化されるという危険がつきまとっているからなんだ。今この瞬間にも、あらゆる政府や国際組織、さらには教会でさえ、教育的な治療を広めようという政策でのぞんでいるわけだ。ぼくが、ここにやって来たのは、ただ、子供時代を社会的に拡張することに対して警告を発し、それに反対の態度を示そうと思ったからなんだ。(122頁)

 さきほど私は「幼稚化」をあげたが、イリイチも「幼児化」ということで説明をする。学校が人間を成熟させるのではなく、逆に「幼稚化」(「幼児化」)させるのであれば、そんな学校にいかほどの意味があるのか。

追記
●「過剰教育」という言葉がある。竹内洋らの『教育社会学』では次のように説明されている。「労働者の教育水準が職業の資格要件を上回っている状態。たとえば、雇用市場の不況から大卒者が専門的な仕事につけずに不熟練職に回る場合など」(252頁)。いま大卒の価値は急激に低下している。過剰教育の結果として、「大大学」が普及する可能性は十分にあるのだ。