「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」。
エッセイ
これからの時代とヴァルネラブル
『ボランティア もう一つの情報社会』(金子郁容著)という岩波新書がある。結末部分に、ボランティアに関わる人間について、「ヴァルネラブル」という言葉で説明をする箇所がある。
集団の健全性は、内部批判者への対応によって決まる。
昨日、サークルの話し合いに参加。議題は、11月8日の早稲田祭企画について。企画の方向性や意義、今後のスケジュール等など。大体2時間半かかった。これから毎週続く。いつ故郷に帰るべきか、毎年タイミングを計るのが難しい。
本サークルの特徴は、方向性を定める3〜4年生の「首脳」メンバーが、時を追うごとに減っていくという点だ。十数人から始まり、いまはヒトケタ。「次は自分がいなくなるかも…」との不安を、今でも持っているのが私である。
そのサークル内では「来ないメンバーを何とか来れるようにしよう」という声が強い。以前の私はその声に同調する側だった。けれど、最近は疑問を感じている。無理にサークルに来させることに、いかほどの価値があるのか? 周りの「首脳」は来れなくなったメンバーが戻って来て、「僕が悪かった。ごめん」というシナリオを描いているようである。
あれ、こんな構造、何かに似てるぞ? そうだ、学校組織だ。
『学校が自由になる日』の内藤朝雄の文章を思い出す。日本の学校共同体の中では いじめられた側が「私が悪かった。性格を直すから、仲良くして」とすりよるため、陰惨な いじめが行われることがあるという。
いじめられているなら、学校という集団に来ないという「不登校」という選択肢もある。けれど、日本の子どもたちは虐められるのが分かっていながら、学校に行ってしまう。「学校に行かないのは悪いことだ」と素直に信じている者も多い。
不登校は社会の健全性のバロメーターではないか。そんなふうに思う。いじめという「人権侵害」のある集団に、「NO!」を突きつける個人がいるかどうかが重要なのだ。理不尽な苛めがあっても、誰も不登校という選択肢を選ばない。そんな集団は個人に際限のない人権侵害を行ってしまう、「腐った」組織である。不登校を選んだ子どもがいるという事実が、集団から逃れるという選択肢の存在を、集団内メンバーに自覚させることになる。
不登校は悪いことではない。不登校の存在が「不登校という道がある」と他の構成員に示すことになるからだ。
不登校同様に、サークルに来れなくなったメンバーの存在を認められる集団は、「健全である」という評価をすることができるのではないか。皆が一律に同じ行動をする。そんなことは不可能だ。集団の力は個人よりも大きい。故に、しばしば集団は個人に人権侵害を行う。人権侵害が存在していても、「集団に参加し続けないといけない」と思うことが、さらなる侵害を招く。いじめの構造だ。
集団の力は、個人よりも強い。そんな中、不登校という存在は「集団から出ることは可能なのだ」という、強いメッセージを他の集団内メンバーに示すことができる。
学問の世界では、論文の評価は〈批判が来るかどうか〉で決まる。よい論文には、必ず反論がある。反論・批判がない論文は最悪の論文だ。同様に、集団に対して構成員から批判がないのは不健全な組織であることが多いのではないか。つまり、通常の認識とは逆に、学校における「問題児」や「不登校」の存在は、学校が「健全」であることの証明であるのだ。逆転の発想である。
《全員が》、《一人も残らず》、《一丸となって》、《団結する》。学校的共同体特有のキーワードである。本当に人々が「心を一つに」することはあるのだろ うか? 幻想である。内田樹は〈幻想であっても、幻想があると考えることに何らかの意味があるならいい〉というだろう。けれど、この問題に関し『サヨ ナラ、学校化社会』で上野千鶴子(内田の「天敵」)が語ったのは、「学校化社会とは、だれも幸せにしないシステムだということになります」(57頁)というメッセージであった。「学校化社会」とは、学校的共同体がもたらす「幻想」の別名である。
無論、組織によっては本当に皆が「心を一つに」しているところも存在するかもしれない。けれど、それを当然視していると、集団が個人に持つ暴力性に対し、無自覚になってしまう。「心を一つにするのが当然だ」と、集団に批判的な個人を攻撃することとなるからだ。
まとめをするなら、こうなるだろうか。集団は個人に対し、しばしば人権侵害を行う。そのため、「集団から逃れることができるのだ」という道(不登校など)を示している集団は、個人の人権侵害を極力減らすことができる。それゆえ、「健全である」といえる。逆に集団から逃れることができない組織(あるいは集団から出るということを誰も行っていない組織。不登校のない学校など)は、個人に対し人権侵害を行っていることがある。
離脱者がいる集団こそ、健全な集団であるといえるのだ。
早稲田に受かる人はどんな人たちか?
早稲田大学で、オープンキャンパスが開かれている。道理で馬場下町の交差点に制服の高校生が多いわけだ。大学の受付で、オープンキャンパス参加者に配っている資料・プレゼントを受け取る。別に「悪いことをしている」実感はない。「ください」と言ったら、役員が渡してくれたんだから…。
『入学データ集2010』を開く。受験のデータを見ると、いろいろ面白い。一緒にもらえる「早稲田大学案内」は読まないことにしている。読めば読むほど、「へー、早稲田ってこんなにいい大学なんだ。そうは全く見えないんだけど」とツッコミたくなる衝動を押さえにくくなるからだ。
わが教育学部・教育学科・教育学専修の2009年度入試の倍率は5.8倍。私のとき(2006年度入試)とほぼ同じだ。一応、チェックしておく習慣がある。
「出身高等学校所在地別状況」という項目に目が行く。早稲田に来る人たちの出身地がほぼ分かる、という便利な資料だ。
最も数字が多いのが東京都。31.43%もの学生が東京にある高校出身だ。地域としては関東の高校出身者が全体の71.14%を占める。うーむ、早稲田はほとんど「関東人」のための大学といえそうだ。
わが故郷・兵庫の出身者はわずか1.42%なり。みんな、ワセダになんか来ないんだ、と思うと寂しくなる。近畿地方までみると4.94%。早稲田生100人中、5人ほどが関西の高校出身。関西は少数勢力だなあ、と心もとない。
リストの一番下に私の目は止まった。「高卒認定等」の欄である。なるほど、「出身高等学校所在地」であるわけだから「高卒認定」試験で入ってきた人は除外されているわけか。「高卒認定等」の受験者は1397名。合格者は134名。2009年度合格者全体に占める割合は0.92%である。
ちなみに、北海道の高校出身者は0.97%である。「高卒認定等」で早稲田に合格した割合とほぼ同じ。早稲田大学内で北海道の高校出身者に会うのと同じくらいの割合で、「高卒認定等」合格者がいるのである。私のいるゼミに、北海道の高校出身の先輩がいる。この方と遭遇したのだから、案外「高卒認定等」でワセダに来た人はいるのだろう。
フリースクール→高卒認定→大学進学、というルートが認められることを期待している私にとって、このニュースは非常に嬉しい知らせであった。
早稲田大学教育学部 自己推薦入学の裏側
わが早稲田大学教育学部には、自己推薦入学試験制度がおかれている。自己推薦入学試験(いわゆるジコスイ)とは、部活の全国大会優勝などの実績をアピールし、受験する試験制度である。早稲田の全学部に自己推薦入試があるわけではない。そのために、「一芸」に秀でた人々は「教育」に興味がなくとも教育学部にやってくることとなる。
「学校じゃ教えてくれないこと」批判
よく、「学校じゃ教えてくれないこと」というキャッチ・フレーズを耳にする。先日買った本の帯紙にもそう書かれていた。「学校じゃ教えてくれないこと」というタイトルのテレビ番組もあった。『教科書にない!』という漫画もある。「学校では教えてくれないけど大事なこと」というような本を読んだこともあった。
早稲田大学で学べること
早稲田大学にいることで学べることはいくつかある。
あえて、宮台批判。
最近、宮台真司の本にハマっている。彼の本のには「オウム」「サカキバラ」など、私が小学生であったときの各種「事件」がちりばめられている。
以前、私は「11年目のサカキバラ」という文章を書いた。約4000字。本ブログにも掲載している。「11年目…」は次の文章で終る。
知識人たちは、何かと子どもを悪者や「劣ったもの」と見る傾向があるのではないかと、感じる。少年Aひとりから、今の社会の子どもたちみなを推し量ることはできないはずである。けれど、どうも知識人という人々は直に子どもたちと会って、「酒鬼薔薇って、どう思う?」と聞きに行かないようである。
この拙文では、〈自称「知識人」は子どもと言う存在を勝手に決めつける。一部にしか当てはまらない内容を《全員に当てはまる》、と決めつける〉ことを主張したのであった。
宮台の本を読み、「11年目…」で批判したポイントが脳裏に浮かんできた。宮台は佐藤学が嫌いなようだが、その宮台も「11年目…」で私が批判した「子どもを決めつける」という愚を犯している(佐藤が「全員」を主張するのに対し、宮台は“今の子どもの三分の一はサカキバラに惹かれている”と語る。佐藤より頭がいいのである)。
しかし、宮台は私のこの論の建て方を批判している。
彼は「僕は常に『実存』の問題と『社会』の問題を分けろと言う」(宮台『野獣系でいこう!』朝日文庫、2001、398頁)と書いている。私が「11年目…」で語ったのは自分の「実存」に基づいての批判であった。「オレはサカキバラに共感したことはない。だから、“現在の子どもはサカキバラに惹かれている”という言説は誤りである」との私の主張も所詮「実存」を基にしている。「実存」によらない理論立てを、自分自身が学んでいくべきであるようだ。
ひとときのうちに
昨夏の介護体験。新宿にあるデイサービスセンターで1週間ボランティアのようなことをした。1分前に話した内容を再度してくるお爺さんが印象的だった。どうせこの人たちは自分のことを忘れてしまうであろう。なら、介護を行うやり甲斐はどこにあるのか? 疑問に思った。
介護体験レポートを書く際、疑問は少し晴れた。たとえ忘れたとしても、介護の際の「ありがとう」の言葉は私の心に残っている。さりげない利用者の笑顔が、脳裏から離れない。ああ、介護のやり甲斐はここにあるのか! レポートに私はそう書いたのであった。昔観た映画『博士の愛した数式』の「ルート」の思いがようやく分かった。
一粒の砂に 一つの世界を見
一輪の野の花に 一つの天国を見
掌(てのひら)に無限を乗せ
一時(ひととき)のうちに永遠を感じる
この映画はウィリアム・ブレイクの詩でしめられる。80分しか記憶を保てない「博士」。「博士」にとって、少年「ルート」との出会いは常に初対面。「博士」の記憶に「ルート」とのやり取りは残ることはない。けれど、「博士」と過ごした時間はまぎれもなく存在している。「ルート」だけでなく、「博士」の中にも(記憶では残らないが、やりとりした事実は残る)。だからこそ「ルート」は、「博士」と過ごす「一時のうちに 永遠を感じる」のであった。
先週まで続いた教育実習中、社会の授業をしていて私はふと次のことを思った。〈子どもは今日の授業の内容をどうせ忘れてしまう。それなのにいま授業をすることに如何ほどの価値があるのだろう?〉。現に私は中学校時代の授業について覚えていることは少ししかない。それこそ膨大な量の授業時間があったはずだが…。どうせ忘れるのに、なぜ授業をするのか。
しかし、子どもと関わったプロセスやひとときは間違いなくこの世に存在したのである。未来に覚えていることも大事だが、今というこの瞬間を輝かせていく営みとしての教育も重要なのではないか。ちょうど、昨夏の介護体験や『博士の愛した数式』と同じ図式となる。
人との出会い。たとえ忘れ去られたとしても、出会い交流したひとときは私の生命の中に残り続けるのだ。
教育の無意味性にイヤになったときは、このことを思い出そうと思う。別に教育が将来何の役に立たなかったとしても、生徒同士や教師―生徒との出会い、藤原氏のいう「ナナメ関係」を結べたという事実やその交流の中で生じた〈輝き〉を大切にしていきたい。
高校生畏るべし
私が母校の寮に学生ボランティアとして関わるようになって、今年で3年になる。関わりはじめた頃の高校1年生が、来年には卒業していく。感慨深い年である。高校生と話す方が、早稲田生と話すよりもためになる事がけっこうあるのだ。
昨日は寮生のK君と洗面台のそばで話した。彼は高校1年生である。
K「石田さんは今まで何冊本を読んできたんですか?」
私「大学時代に、ざっと750冊くらいかな」
K「じゃあ、良書は何冊読んできたんですか?」
私「良書? 『カラマーゾフの兄弟』とか『エミール』とかのことだよね。大体50冊くらいかな」
K「あんまり良書は読んでおられないんですね」
私「……。」
K「石田さんは『カラマーゾフの兄弟』を読んでるんですよね。読んでどう変りました?」
私「え、……。でも『モンテクリスト伯』を読んだ時はめちゃくちゃ感動したよ」
K「そんな本も読まれてるんですか。にじみ出ませんね」
私「う……。」(涙)
大学の友人や先輩/後輩、大学の教授が聞いてくるレベルを遥かに超えた発問であった。グサグサ胸に刺さってくる。K君は決してイヤミで言ってくるのではなく、にこやかに話してくるのだ。この文章を読んでいる方。高校生にこのように言われたら、私同様泣くしかないですよね?
よく教育において〈子どもから学ぶ〉姿勢が大切だ、と言われている(灰谷健次郎の十八番である)。タテマエでも何でもなく「まさにその通りだなあ」との思いを新たにした。深夜2時にも関わらず、一気に眠気がひいたのである。
K君の話の中で注目すべき点がある。それは学ぶという事は学ぶ者に〈変化をもたらす〉ものだという認識である。K君の「どう変りました?」「にじみ出ませんね」という言葉に象徴的に現れている。ある教育学者は「学んだことの証しは、ただ一つで、何かが変わることである」(林竹二『学ぶということ』)という言葉を残している。これは昨年読んだ教育関係の書の中で最も印象深かった言葉である。K君はおそらく直感的に学びの本質を見抜いていたのであろう。後生畏るべし、との思いを強くする(ここでは後生ではなく、「高校生」とすべきであろうか)。相手が子どもというだけで軽く見てはならないのだ。
この文を、私は寮からの帰りの西武線車内で書いている。もうすぐ〈我らが母校〉の高田馬場に到着する。さて、〈良書〉を久々に買いにいくとするか。