エッセイ

通信教育に、人はなぜ「だまされた!」と思ってしまうのか。

いま山手線の車内ではユーキャンのが流されている。それを見るたびに私は苦い記憶を思い出す。かくいう私は通信教育に何度も挫折しているからだ。「記憶術」やら「行政書士」など、いろいろやったが、最後までやり遂げたのは小学生の時の「電子工作」くらい。何故、私は通信教育に挫折してしまうのか。こうも何度も何度も挫折するということは、私が悪いのではなく通信教育の構造上の問題があるのではないだろうか(責任逃れとは呼ばないでほしい)
言い換えよう。なぜ人は通信教育で「だまされた!」あるいは「挫折した」と思ってしまうのだろうか。
 それは学ぶのには、「お金」以外に時間というストックも必要だからだ。「私」という存在は、時間によってどんどん変化していく(レヴィナスは「時間とは私が他人になるプロセス」だといった)。通信教育を始める前の自分と、始めたあとの自分は別の存在なのだ(学習して変化したのではなく、ただ時間の経過が自分を他者にする)。通信教材の頁を開くとき、「なぜこんなものを学びたいと思ったのだろう」と思うことがある。段々開くのがイヤになる。それが高価であればあるほど、見たくもなくなる。
クーリングオフ期間に決断できることは少ない。いずれも、「あ、ムリかも」から始まって、いずれは「無理だ」とあきらめることになる。おまけに、1回やったからといってその学習が習慣化されなければ、「気づいたとき」「レポートを出すとき」しか教材をやらなくなる(そのうち、レポート期限なのにやらなくなってしまう)。
学校の場合であれば、肉体的に学びの場所に「行く」という行為によって、学びの「構え」を成立させることができる。そのため、学びの場所(学校やサークル等)に行く間に、モチベーションを自分で定めることができる。けれど通信教育は自宅の中で行う。いままでの何らかの生活時間を縮減する中でしか学びを行うことができない(だから、通信教育を経験した人の回想には「喫茶店で会社の帰りに勉強しました」というコメントが登場するのだろう)。モチベーションを上げるのも難しくなってしまう。
結論。通信教育は始めから失敗するように出来ているのだ。教材会社が悪いのではなく、通信教育という「学び」のあり方自体が持つ性格が人を挫折させるのだ。もしあなたが通信教育で挫折していたとしても、それはあなたが悪いのではない。「そういうもの」なのだ。
 通信教育というサービスが、にもかかわらず卒業生を送り出している。これはその人たちの努力の賜物であろう。
学校と違い、通信教育で学ぶ際「こんなはずじゃなかった!」という思いを共有する人がいないのはツラいことだ。グチを言える他人がいれば、「まあ、そんなものかな」と過ごしていける。通信教育は基本的には一人のみでおこなう。強き意志をもった主体でないと、「遊んで」しまう。通信制大学の卒業率の低さ(場所によっては1割もいかない)は、レポート課題の困難さよりむしろ、制度的な学びを一人で行うことの難しさを示している。巨大な学校制度に対し、同僚もなくたったひとりで立ち向かうのはなかなかに過酷なことなのだ。
おまけに、やらなくなる結果が多くなると自分を卑下し、自暴自棄になる。社会人で、「今日から通信制の大学で学びはじめたんだ」と宣言している人はうまくいかなくなると、自分が惨めになる。〈制度的な学び〉はグチれる〈他者〉がいないと、うまくいかない(ことが多い)。
世にこれだけ通信教育が流行っているということは、それだけたくさんの挫折者がいるということだ。
 冒頭にも書いたが、私もいろんな通信教育で学び、そして挫折してきた。苦さを経験してきた反面、通信教育の「良さ」もよくわかる。それは、「あんな自分になりたい」という欲望を一時的に満たすことができるということだ。
 通信教育はまさにドラえもんのポケットなのだ。「あんな自分になりたい」思いを一時的に満足させてくれるが、相当努力しないと夢は実現せず、自らが変化しない。のび太は漫画『ドラえもん』のなかではほぼ無成長モデルで描かれていることを考えてほしい。のび太は一時的にドラえもんの出す道具によって全能観を得るが、そのあとは再び「ひどい目」にあっている(要は挫折しているのだ)。通信教育の良さは、ドラえもんの道具を貸してもらったときののび太のような「全能観」(夢が叶ったような気がする思い)を味わえる点だ。悪い点は道具を出してもらったあとののび太のように「挫折」を味わうてんである。
 一人で学べる力がなければ、結局は制度的な通信教育もうまくいかないのだ。そのためには、自分が心の底から「これを学びたい!」「学ばないと、仕事で困る」という切実な思いがなければならない。私はこういった切実な思いをもつ学びのことを「渇きによる学び」と命名しているが、この「渇きによる学び」がなければ通信教育は結局成立しないのだ。

フリースクールに似た学校にサポート校というものがある。通信制高校の課題を学校のなかで行うというシステムをとっている場所のことだ。本文でも書いた「グチをいえる同僚」を存在させるために、一定の価値があるような気がする。
本文では、①通信制の大学や高校と、②仕事に直結する資格の通信教育、③趣味の通信教育を立て分けなかった。そのため荒い議論になったことは否めない。

イヴァン・イリイチ『生きる思想』より、「静けさはみんなのもの」を読む。

 「コンピューターに管理された社会」。イリッチの本講演はこんなテーマのフォーラムにおいて行われた。冒頭においてイリッチは「人間の真似をする機械が、人びとの生活のあらゆる側面を侵害しつつあること、そして、そうした機械が、機械のように行動することを人びとに強いること」(40頁)と述べ、それまでのフォーラムの議論をまとめている。「機械のことばをつかって『コミュニケート』することを強いられる」(同)ようになるという言い方で、人間の機械化を批判する。

 たしかに、現在の学校教育では「情報」の時間にパソコンの使いかたを扱っている。私も、小学校で「パソコンを使う際は、パソコンの動きを待つようにしましょう」と教わった記憶がある。あれは子どもという小さな主体者を、機械に従属させる存在に変えることを意図した授業であったのかもしれない。

 イリッチが人間の機械化を批判するのは、人びとが「自分自身を統治できなくな」(41頁)り、「管理されることを必要とする」(同)ためである。何故そうなるのだろうか。私は人間の主体性が機械によって浸食され、サービスや機械がないと何もできなくなる為であると思う。自分で行っていたものを外部(サービスや機械)に頼るようになると、自分で何も出来なくなるのだ。私はイリッチが各種論文(本書『生きる思想』や『脱学校の社会』)を書いたのは〈人間性の回復〉を訴えるためであると考えているが、機械の存在が人間性を奪っていくということをイリッチは伝えたいのであろう。

 論を進めるにあたり、イリッチは「コモンズ」と「資源」という二項対立を示す。下に両者を整理して書いてみる。

コモンズ[みんなが共有するもの]commons

「人びとの生活のための活動subsistence activitiesがそのなかに根づいている」(43頁)

「いりあい(入会)」という日本語に近い。

「人びとの家の戸口を超え出たところにあり、人びとの私有財産ではありませんでした」(44頁)

皆が利用できる雑木林など。

資源resouces

「現代人が生きていくために依存しているさまざまな商品を経済的に生産するのに使われる」(43頁)

「警察によって守られることを必要とします。そして、いったんそうやって守られるようになったら、資源がコモンズに戻ることは、日増しに難しくなります」(54頁)

イングランドの牧草地など。

 「資源」のところに「依存している」という言葉が出てきたところに注目したい。イリッチは依存自体には批判的でない。それはイリッチ思想のキー概念であるコンヴィヴィアル(convivial)を、「相互依存」と示す訳者がいることからも分かる。問題なのは何に対する依存か、ということである。他者に対する依存であれば(助け合いということ)問題ないが、依存の対象がサービスや制度・機械であるならば問題になる。「資源」を批判するのは「商品」(ここにはサービスも入る)に依存してしまう結果となるからであろう。

 産業革命が起きた時(近代の初め)のイギリスでは「囲い込み運動」が行われた。入会地に柵を作り、資本家が自らのものとして扱う。それにより、入会地は「商品としての羊の群れを育てるための資源に様変わりした」(46頁)。この流れは、私有財産制度と登記制度により加速されたことだろう。日本でも近代の初め、「入会地」に所有者がついた[1]。国有地など公の所有[2]になったところもあるが、それにより自由にその場所を使用することが出来なくなった。「コモンズ」の消滅である。「コモンズ」にいた人びとは「土地を追われ、賃労働に追いやられ」、「絶対的に貧困化した」(46頁)のである。イリッチは近代の初めにおきたこの一連の出来事を批判し、もう一度中世の「コモンズ」の復興を呼びかけているのである。

 では、具体的にイリッチは復興した「コモンズ」像をどのように想像していたのだろうか。イリッチはメキシコ・シティの旧市街の話をする。「道端にすわって野菜や炭を売っている人びとがいるかと思えば、路上に椅子を並べてコーヒーやテキーラを飲ませている人びとがいました」(47頁)などと続く。「それでも歩行者は、ひとところから他のところへ移動するためにその道路を利用することができました」(同)。現在のイタリアの広場にあるバールをイメージすると良いだろう。ちなみに、バールとは喫茶店やバーのようなものである。島村菜津の『バール、コーヒー、イタリア人』(光文社新書)によると、次のようにある。

イタリアには、広場という空間がある。そして、この広場に寄生するようにしてあるのが、バールだ。多いところには何軒もある。バールのない広場は珍しいといえるほど、この二つは分けがたく、どうやって権利を手にしたものか、公共の場である広場に堂々とテーブルを並べている。(島村菜津『バール、コーヒー、イタリア人』2007年、光文社新書、8頁)

 路上や広場に、様々な人やモノが入り乱れるような状態。それがイリッチの「コモンズ」の現代的イメージなのだ。

 なお、日本の「コモンズ」は「入会地」だけではなく、「路地」でもあった。日本では子ども社会の間にも存在したようで、それが教育学的には大きな意義があるように思える。鶴見俊輔の文章から示しておく。

モースというアメリカ人の動物学者が明治の初めに日本に来て驚いたんですね。東京には「路地」というのがあって、路地で年齢の違う子供たちが一緒に遊んでいる。で、年長の子供が責任を持って、一種の共同体をつくっていると。彼はボストン近郊の出身で、そういう光景はボストンあたりにはないわけです。モースはそれにびっくりして、そのことを『日本その日その日』という本に書くのですが、これは大変重大なところを見ているんですよ。(鶴見俊輔・重松清『ぼくはこう生きている君はどうか』潮出版社、2010年、8081頁、鶴見の発言から)

 かつて、路上は「コモンズ」であったのだが、近代化のため「通りはもはや人びとのものでは」なくなり、「いまや自動車やバスやタクシーや市街電車やトラックのための通路」(48頁)となってしまった。効率化/スピード化の結果(スローでなくなった)なのであるが、本来の路上にあった豊かな文化性がいっぺんに失われてしまう。その結果、「場所性」も失われどこに行っても同じような町並みになってしまった。いま山手線のどの駅で降りても、駅前にはたいていマクドナルドが位置している(現在の日本では個性的な「食堂」が消え、かわりに「吉野家」や「大戸屋」に置換されているように最近私は感じている)。

 では「コモンズ」を復興するにはどうすればいいのか。イリッチは「資源」が「警察によって守られることを必要と」(54頁)する、と指摘する。「いったんそうやって守られるようになったら、資源がコモンズに戻ることは、日増しに難しくなります」(54頁)と本講演を締めくくっている。早稲田大学の側にある戸山公園でサッカーをするには、たしか公園側からの許可が必要だったと思うが、そういった許可制度の廃止をすることが最初の一歩となるのだろうか。

※本項目の冒頭にイリッチが《「コンピューターに管理された社会」という都留[重人]さんが提案されておられるテーマは、一つの警鐘のように響きます》(40頁)と語っている。この都留重人とはハーバード大学で名誉学位も受けた経済学者である。思想家・鶴見俊輔の師匠でもある。

 本文でも引用した『ぼくはこう生きている君はどうか』(鶴見俊輔・重松清)にはこうある。

私にとって生涯の師というのは都留重人しかいないんですよ。(…)日本のインテリはそのときどきに合わせて、権力の動きに合わせて変わっていくわけですよ。だけど都留さんは死ぬまで権力に同調して自分の考えを変えることはなかった。終生、私にとって必要な指針となったんです。都留さんは経済学者なんだけれど、何か個別的な問題に取り組んでいるときに、その問題よりもっと応用範囲が広いことを思いつく。それが哲学なんだ―と。そういう都留さんのプラグマティズムを私は引き継いでいるんですよ》(147148頁)。

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「静けさはみんなのもの」

掲載:『生きる思想』pp39-54

形態:「朝日シンポジウム『科学と人間―コンピューターに管理された社会』」での講演。

講演の実施日:1982321

講演の場所:東京


[1] 「日本」の一部となった朝鮮半島でも、同様のことが行われた。所有者の分からない土地は朝鮮統監府が接収した。山川出版の『日本史B』教科書には「これによって多くの朝鮮農民が土地をうばわれて困窮し、一部の人びとは職を求めて日本に移住するようになった」(274頁)と書かれている。日本に在日と呼ばれる人びとがいる理由の一つになったのである。

[2] わが故郷・兵庫県多可町の柳山寺(りゅうさんじ)地区では、年に一度公の財産の「松茸山」の使用者を決める話し合いが行われている(と、父に聞いた)。競りを行い、勝った人がその山からとれる松茸を一年間手に入れる権利が与えられる。おそらく、公の財産になる前は各人が勝手に松茸を採取し、勝手に食していたのであろう。10年ほど前に父が500円で購入した山からは、ついに1本も松茸をとることができなかった。代わりに怪しげな紫色の椎茸(みたいなキノコ)を採ってきて、父が食べていた。

孤独であるためのレッスン。

 いろんな道を歩いても、自分と言う物語は一つである。ならば自分の決めた道を貫くしかない。「十年一剣を磨く」である。

 一人でいる時間を大事に出来ない人は、真に人と出会うことができない。ひとりでも過ごせる人が最も強い人だ。先日、兵庫に帰省したとき神戸の街に私は一人で佇んでいた。だからこそ神戸の夜景に感動したし、クルーズの際に船酔いする自己の弱さと向き合うことができた。他者の有り難さにも気づくことが出来た。一人で過ごすからこそ、他者や自然の美しさと出会うことができるのだ。
 一人でいることをネガティブに考えてはいけない。一人の時間を大事にせよ! 私たちに必要なのは、まさに『孤独であるためのレッスン』なのである。

モンテッソーリの教育法。

 本日、カフェスローで「幼児教育から生涯教育へ」というテーマで講演会が行われた。講師はジュディ・オライオンというモンテッソーリ協会公認の教師養成者。講師も通訳も、そして聴衆の大部分が女性。来ている男性も「夫婦」で来ている人ばかり。学生の男一人は目立った。

  
 いままで全く幼児教育には関心がなかったが、今日の講演会で認識を新たにした。それは質疑応答時に私が次のように質問したことと関連している。
「本日のテーマは〈幼児教育から生涯教育へ〉ということでしたが、全体的に幼児教育と学校教育の話ばかりで、生涯教育についてのお話があまりなかったように感じます。もしよろしければ、モンテッソーリ教育における生涯教育はどのようなものになるか、お話いただけますか」
 講師のオライオン氏はこう答えた。
「大人になった時、土台がしっかりしていたならば誰にいわれなくとも自分で自分を育てることができます。そうした〈根〉の部分が確立していると、制度的な生涯教育は不必要になるのです。人生の最初の24年間に、〈根〉を確立できなかったならば60歳くらいになる時に困ることがあるかもしれません」
 この話は非常に示唆的だった。生涯教育というと、どうしても何か「機関」や「制度」が必要だと感じてしまうが、そうではないのだ。それまでにきちんと育つことができれば、特に生涯教育というものを用意しなくても、個人が勝手に学び、勝手に成長していくのだ。
 制度的な生涯教育を否定するのが、モンテッソーリ式の生涯教育なのだ。
 
 モンテッソーリ教育の特徴は「命」に沿った教育を行う点である。モンテッソーリ式の幼稚園では2歳半から子どもたちの相互の助け合いが起こるように集団での生活を行う。子どもの「命」の発達段階に応じて、子どもが自分で学べるような教具や環境を提供する。小学校段階からグループでの探求活動を行い、研究旅行の行き先や計画すら子どもたちで行えるようにする。「子どもだから、これは無理だろう」と決めつけていないのだ。そこを見て、子どもを決してバカにしてはならないのだ、と感じた。そのため、モンテッソーリ教育は〈子どもという人間性を軽視してはならない〉ということを伝えているように思える。
 前に私は「イリッチは〈人間の復権〉を形をかえて伝えようとしたのではないか」、と書いた。《例えば消費者という言葉。ただ消費だけを行う者という意味だ。人間を消費者と生産者に分けるのではない。本来、人間は生産も消費もどちらも行ってきた存在である。それを「生産者」「消費者」に分けることは人間を軽視することだ》と。私たちは「子ども」というものも、軽視してきたのではないだろうか。
 そんな風に感じた。

『シャドウ・ワーク』第6章後半

『シャドウ・ワーク』第6章後半

 12月10日に提出した卒論。そのラストに、私は次のように書いた。

 

 今回、卒論執筆のなかでイリッチ思想について様々な文献に目を通してきた。その作業のなかで、イリッチは「人間の復権」を形を変えて伝えようとしていたのではないか、と感じるようになった。

 例えば消費者という言葉。ただ消費だけを行う者という意味だ。人間を消費者と生産者に分けるのではない。本来、人間は生産も消費もどちらも行ってきた存在である。それを「生産者」「消費者」に分けることは人間を軽視することだ。

 教育も同じだ。本来、教育を受ける主体と教育する主体は分かれていなかったはずだ。大人が子どもを教えるとき、子どもから大人は何かを学んでいた。本来、教育とは相互依存的なものだったのだ(イリッチの相互親和、つまりconvivial)。それを「教育を授ける者=教師」、「教育される者=生徒」の関係に人間を貶めてしまった。それが「制度」のもつ問題点である。

 Convivialな生き方。これをイリッチは提唱した。相互親和、つまり人間どうしが助け合って生きる姿をイメージしている。

 イリッチは脱学校化の必要性を訴えた。それは本来的な教育が、制度化された「学校」では実現できていなかったからだ。脱学校化を図ることで、「人間の復権」を行おうとしたのだ。

 このように私は書いた。今回扱う範囲も、「人間の復興」をイリッチが言葉を変えて示しているように思える。

 

 イリッチはかつて女性も家計のために働いていたことを示す。《シャドウ・ワーク》ではなく、「ワーク」そのものだったのだ。自分たちの生活に必要な物は自分たちで作り上げた。例えば毛織物、例えば建築など。イリッチ用語でいう、自立・自存(要は自給自足のようなこと)を意味するサブシステンス(生存維持的)が行われていたのである。そこに、賃労働で人を働かせ商品を生産するという資本主義の仕組みが入ってきた。その結果、女性が生活に必要なものを直接作り出すということが減り、かわりに夫の賃労働をサポートし、子どもを教育するという《シャドウ・ワーク》が押し付けられるようになってしまったのだ。女性が自立自存的な生活の基盤から外されてしまったのだ。「賃金を稼ぐ者とそれに依存する者より構成される19世紀の市民的家庭が、生活の自立・自存を中心とする生産=消費の場としての家にとってかわった」(235頁)のである。

 冒頭の私の文章でいえば、女性の「人間生命が小さくされる」現象が起きたのである。平塚らいてうは「女性は太陽であった」と青鞜社を作った際に語った。文明が進むにつれて、かつて太陽だった女性は、まさに影(シャドウ)に追い込まれてしまったのである。

 

 イリッチは続ける。「専門的職業はつねにそのサーヴィスへの依存の必要を前提とするものだが、そうした必要を専門的職業に可能にさせるものはすべて、対応する〈シャドウ・ワーク〉を顧客にたいしてきわめて効果的に押しつけることになる。こうした無能力化を推進する専門的職業の典型例は、医療科学者と教育社である」(235~236頁)と。これも冒頭の私の文をもとに解釈したい。文明が進むにつれ、自分で考えなくても「制度」や「サーヴィス」が答えを示してくれるようになる。例えばツタヤにある厖大なCD。この中に自分にあった歌がある。そう考えるとき、人は自ら音楽をつくり出すことをしなくなり、CDという制度に依存してしまうことになる。本来、人間は誰でも音楽をつくり出すことが出来たはずなのに。イリッチはそのことを「〈シャドウ・ワーク〉の創出に従事しているのは、今日のエリートたちである」と皮肉る。システムエンジニア、OSの開発、塾産業の興隆も消費者が「自らつくり出す」力を弱めてしまう。

 イリッチは人間の自立・自存を奪うことを「自分自身を破滅させる行為」(239頁)と呼ぶ。ゆえに「産業社会とはその犠牲者なしには済まされない社会であ」(同)り、そのことが「生活の自立・自存の基盤を経済の影法師の姿へと変化させる」(240頁)のだ。

 いまこそ、自立・自存というサブシステンスを取り戻し、本来偉大である人間生命の可能性に立ち返るべきではないか。イリッチがそう叫んでいるような気がしてならない。

上野圭一・辻信一『スローメディスン』(大月書店)

 前の日曜日、高田馬場で『スローメディスン』の出版記念シンポジウムが行われた。出版記念のシンポジウムに行くのは、初めてである。作者2人の話の中に、著作の裏話が現れる。本を作る過程が見えて、なかなか面白かった。

 スローメディスンとは、要は「オルタナティブ医療」(代替医療)ということ。あるいは「ホリスティック医療」ということである。西洋医学だけでなく、針やお灸・漢方などの東洋医学も復興すべきだ、また気功・スピリチュアル的治療も認めていこう、という内容である。

 オルタナティブという言葉を聞くと、私の血が騒ぐ。私の専門のオルタナティブ教育を思い起こすためである。話を聞けば聴くほど、私の専門分野との共通点が浮かび上がってきた。

 オルタナティブ医療もオルタナティブ教育も、メインストリームに対するものとして立ち現れてきた。オルタナティブ医療の方は西洋医学、オルタナティブ教育の方は「学校」教育。西洋医学も「学校」教育も、「それ以外は駄目」という圧力のもとに「それ以外のもの」を否定してきた。例えば針灸、例えばフリースクール。「切り捨て」をしてきたわけである。

 けれど、原点に帰らなければならない。医療は人の治療をすることが目的だ。その目的を達成するためなら、西洋医療以外を使ってもいいではないか。同様に、真に子どものためになるのなら学校以外で教育を行ってもいいではないか。

 

 シンポジウムの質疑応答の際、疑問を感じた点がある。代替医療を押し進めたとき、例えば「手かざしで病を治します、その費用は100万円です」ということを主張するカルト宗教への対応である。講師2人の意見は、そこで割れた。

 辻信一は「手かざし、つまり気功で病を治す人々はいる。だからそういう人々を排除することがあってはならない」と語った。一理ある。本当に手かざしで治療できる人が現にいるからだ。問題はそんな能力がないにも関わらず「手かざしで治す」と言い張るカルトをどうするか、という点だ。けれど辻はその可能性を言及していなかった。辻に違和感を感じる。

 上野圭一は「宗教的行為と治療行為は分けなければならない」と語る。そして、純粋な治療行為に対しては「代替医療」と認めていくべきだと主張した。宗教的な部分については代替医療と認めない方が良いと指摘する。その際、治療行為の費用が他と比較して正当な金額かを考えていく必要があると語った。「同業者団体が自然発生的に作られ、その内部規定が出来ていく必要がありますね」とまとめていた。つまり、「このような治療(手かざし等)には、これくらいの金額にしましょう」という内部規定だ。この上野の説明には納得できた。

 

 辻・上野両氏の話を聴いていて、次のようなケースを思いついた。成功率10%の手術(つまり西洋医療)に100万を出す人は、成功率10%の「手かざし療法」(オルタナティブ医療)に100万を出すかどうか。成功率ではどちらも同じだ。けれど、手かざしに100万を出すのは「インチキではないか」との疑惑がどうしても残る。何故、私はこう感じてしまうのか、よく理由が分からない。

 辻と上野の見解の相違は、オルタナティブ教育を考える際にも有効である。いま、「学校」教育以外のオルタナティブ教育を、「学校」同様に認めていく方向に政策が変わったとする。その結果、ヤマギシ会やオウムが作ったような胡散臭い教育機関も認めていく方向になったとする。戸塚ヨットスクールも当然「学校」同様に認められるだろう。そうなることは本当に良いことなのか? 「何でもあり」という状況が現れることは、本当に子どもの教育に役立つのだろうか。

 教育機関が「何でもあり」になるとき、上野が語る「同業者団体」の存在価値が高まってくるように思える。子どもや保護者が教育機関を選択する際の指標とすることができるからだ。上野のいう「同業者団体」として、いまフリースクールは「フリースクール全国ネットワーク」という組織をもっている(厳密には、他に「日本フリースクール協会」と「日本オルタナティブスクール協会」がある)。この組織に入るには「子ども中心の学び」を行っているか否かなど、細かな点のチェックが行われている。教育機関を自由に選択できるようになったとき、同業者団体の存在が、選択に安心感を与えるであろう。同業者団体に必ず所属しなければならない、ということはない(それはイリッチでいう「価値の制度化」にあたる)。選択する人がいる限り、同業者とは全く違う教育理念を持つ教育機関はいくらでもあっていい(一部の人に有効という観点から、私は戸塚ヨットスクールにも一定の評価を与えている)。

 

追記

「職業的な医者への依存の構造が、私たち一人ひとりの心のなかにできあがってしまった。子どもが熱を出したら、自分で手を打つことなしに近くの病院に駆けこむ。昭和30年代までは、病院出産と自宅出産が半々だったのが、それを境いにだんだん病院化してくる」(111頁、上野の発言)とあった。

 この文を読んでいて、イリッチの『脱病院化社会』という本を思い出した。未読なので、読んでみたい。そう思うのである。

追記2

 オルタナティブ教育も、ただ「フリースクール性」を担保するよりも、「何でもあり」で「自分が自分で学ぶ」「自分を教育する」自発性の視点を失ってはいけない、ということだろうか。こういったフリースクールの「フリースクール性」についての考察を行っていくことが必要である。

 

追記3

 上野・辻の話を聞き、代替医療やオルタナティブ教育の「基準を立てる」というよりも、代替医療やオルタナティブ教育全般を認めていき、それぞれが自発的に同業者団体をつくっていくことが必要である、ということを学んだ。

劇団てあとろ50’『last gasp』

 シンクロニシティーという言葉がある。同時性という意味だ。今日『last gasp』という演劇を観て、それを感じている。

 最近、サークルの先輩と飲んだ。その際、家族論について話をした。なんでも、家族論的には家族は外部の「サービス」で代行できるらしい。ベビーシッター、家政婦さん、究極的には教師や塾講師…。家事業も、教育もすべてに外部の「サービス」が存在する。ではサービスで代行できる現在において、「家族」の「家族性」、つまり「家族」たる由縁はどこにあるのか? そんな疑問を持っていた。
 てあとろ50’sの演劇のテーマは、私が疑問に思っていた点と同じだった(ような気がする)。主人公・神谷和人(かみたに・わひと)の妹・仁香(じんか)は昔すごした家族5人(父・母・兄・弟)との生活を夢見ている。「5人」にこだわり、細かな所に妥協しない。家を出て行った母から「家に戻ってもいい?」との電話があっても、黙って切ってしまう。結局、引きこもりの兄・和人とともに2人で生活をしている。父も弟である三治郎も出て行ったままだ。
 そんな折、弟・三治郎が「結婚するんだ」と山崎蘭をつれてくる。そのやり取りの中で妹はgaspをする。gaspとは、はっと息をのむこと(すべて『ジーニアス英和』の受け売り)らしい。そして泣き叫び、しばらく入院をすることに。不思議と、妹のgaspが新たな家族構築につながっていく。母・弟・義理の妹という4人の生活に。兄は入院中にどこかへ出てしまったが、《やがて戻ってくるだろう》と観客に匂わせるラストであった。
 「家族を演じる」意志のない人は、家族のメンバーになることはできない。そう感じた。「家族を演じる」意志のない人を無理に家族に引き込もうとしても、ストレスが溜まるだけである。家族を演じる意志のない人は抜け、意志のある人・意志が戻ってきた人が再び家族になる。家族の物語は一つではない。それぞれの物語を持つ各人が、「演じる」意志のある間だけ、かろうじて家族になれるのだ。
 シンクロニシティーを感じたのは、家族論を演劇でやっていたことによる。偶然だが私のカバンには『子どもと出会い 別れるまで 〜希望の家族学〜』(石川憲彦)が入っていた。この本では、「思い」や「感情」をぶつけるとき、はじめて家族の再生があることを描いている。人々がgaspをし、「思い」や「感情」を伝える努力をする際、新たな家族を構築することにつながるのだ。
 余談だが、演劇の舞台上、ほぼ全ての間、人間二人が座っていた。和人と仁香の家の猫2匹の役だ。人間たちのやりとりを、この2匹は絶えず見つめている。実はこの家は兄と妹の2人家族でなく、ペットも入れた4人家族であったような気がしてならない。敬愛するO先生が「ペットも家族」と言っていたし…。

フルートを始める。

 本日15時。無事、卒業論文を学部事務所に提出することができた。ようやく私も「学士様」。いまはものすごく多い学歴なので、明治期のような輝かしさはないが。

 
 何かが終るとき、新たな決意をしなければ「落ちて」しまうのが私である。一念発起して、楽器の街・大久保に行ってきた。笛を始めるためである。
 昔から、何か一つでもいいから楽器が出来るようになりたいと考えていた。なかなか始めるチャンスがない。なんだかんだ大学4年生になってしまった。卒論の終った今、新たに始めるのに最適な時期だ。
 中古の楽器屋で2万円でフルートを購入。新品を買うと6万円はかかる。「楽器」という文化は恐ろしい。
 内田樹の言葉だったか忘れたが、「人間は異物ともコミュニケーションが出来る」というものがある。「なんだかよくわからないもの」、つまり「異物」であっても人間は意思疎通が可能となるのだ、という文章である。
 今日、フルートを口に当ててみたがびっくりするほど音が何も出ない。「不良品か?」と焦るくらいである。私にとって、このフルートは完全な「異物」だ。さっぱり音を出すことができない。you tubeでは、あんなに美しい音を奏でる人がいるのに…。
 おそらく、演奏家にとっても始めのうち、フルートは「異物」であったのだろう。それを日々接し、少しずつ「異物」との関わり方を練習するうちに、自らの身体同様にフルートを活用できるようになったのだ。
 今日、フルートという「異物」に関わり、久しぶりにコミュニケーションが取れないことのもどかしさを経験した。「異物」に出会うとき、人は謙虚になるものだ。少しずつこのフルートとコミュニケート出来るようになりたいと考えている。

「制度」としての「学校」の不可思議さ

 もとから、私の教育学的主張は学校外の学び舎をさらに普及させることである。例えばフリースクール、例えば「子どもの居場所」。それ故、私はフリースクール全国ネットワークというNPO団体のボランティアを週1でやらせていただいている。

 私が教育実習で行った八千代中学校はド田舎の中学校。ヘルメット・タスキをつけ、生徒は自転車で通学する。逸脱する者はあまりいない。生徒をしばる教員の圧力の強い所であった。

 こういうことがあった。男子生徒更衣室から制汗スプレーがみつかり、担任が生徒に「こんなものを持ってきてはいけないだろう」と叱っていた。そのシーンを私は少し離れた所から黙ってみていたのだが、非常に不思議な気持ちになった。その教員の話を聞いていても、「どうして制汗スプレーを持ってきてはいけないのか」という理由の説明にはなっていない。理不尽な叱り方である。おそらく、その教員の側にしてみれば本当に「こんなものを持ってきてはいけない」のであろう。中学生だった頃には存在しないものだったのだから。けれど時代は日々進む。現在、高校や大学で運動をする人たちの間で制汗スプレーをしないことの方が「お前、それはないだろう」と言われることが多い。自分の体臭を気にしないことは《非礼》であると伝わってしまうのだ。

 まさに社会学でいう「権力」関係が働いていたことに気づく。「隠れたカリキュラム」として、中学生は教員権力に従うということを内面化されていくのだ。

 教育実習、気づけば終っていた。「学校」や「教師」という存在が生徒を支配する関係が存在していることに改めて気づき、「ああ、やはり学校外の学び舎がさらに普及することが必要なんだな」という考えに至った。八千代中学校の「不登校」・「教室外登校」の生徒数は、6名(総生徒数208名)である。およそ3%の生徒は「学校があわない」ということを無言のうちに示している。

 「学校」や「教師」が大好きな生徒がいるのと同様に、それらが大嫌いな生徒がいるのは当然である。その子に対し、無理やりでも「学校へ来い」と言い続けるのは酷であろう。学校が「学校」である限り、どれだけ努力をしようとも「学校」を好きになれない生徒は必ずいる。ならば学校外の学び舎(フリースクールなど)をさらに普及させることが必要だ[1]

 しかし、「学校」の持つ「気持ち悪さ」を教育実習のなかで幾つも感じながらも、生徒と触れ合うことはものすごく楽しかった。S君という生徒と、放課後の無人の図書室で日本の歴史のロマンを語り合ったことは未だに鮮明に頭に残っている。

 「学校」という制度のなかで、いかに生徒と人間的つながりを築けるか。これが大切なのではないだろうか。


[1] もう一つの考え方として、ボーイスカウトなどの「ノンフォーマル教育」活動を押し進め、学校外にも子どもが育つ場所を提供するというものがある。私の実習校でも、ボーイスカウトや地域のサッカークラブに参加している生徒が一定数いた。

中谷彰宏(なかたにあきひろ)のDVD

 昔から中谷彰宏の本が好きだった。というよりも、自己啓発本が好きであった。
 初めに自分のお金で買った新書は『知的生産の技術』。次が『超・整理術』。図書館でも、小学生のうちから「効率的なメモの取り方」・「成功する人の仕事術」的本を読み続けていた。私が、なんとか第五志望である早稲田大学教育学部に引っかかったのも、小学生以来の自己啓発本読者であったからだろう。自己啓発本は、「何事にもコツがある」・「勉強にはやり方がある」という認識を持たせてくれるのだ(その弊害は、別のところで語ることにしよう)。

 「自己啓発本」を日本で最も多く出版している人間は、おそらくは中谷彰宏。各種DVDでも「僕は800冊書いてきた」ということをサラッと口にしている。それだけ多く書いたら、どこかでマンネリに陥りそうになるはずだ。けれど、どの本を読んでも新鮮な発見をする私がいる。

 中谷彰宏と、私はずっと「本」で触れてきた。博報堂時代がもとになっているのか、キャッチコピー風の短い文章の集まりを読みつつ、「そんな考え方があるのだな」と学んできた。

 DVDに表れた中谷の姿。非常にインパクトがあった。何と言ったらいいか、「言葉の響き」にすら感動を覚えた。中谷の本に書かれた言葉が、中谷の口を通して語られる。話される内容よりも、話す言葉の「響き」から多くの点が学べたような気がした。

 口から発せられた言葉には、必ずその人の「響き」がある。このことを私は忘れていた。中谷が関西弁でしゃべっていたことも、発見の一つであった。

 プラトン以来、「言葉」「ロゴス」のみを人間は追い求めてきた。「言葉」の中でも、「書き言葉」を重視した。「言葉の響き」よりも。その姿勢がデカルトの「われ思う、ゆえにわれあり」につながり、近代が開かれた。その姿勢は「自分で考える」ことを重視する姿勢であった。「自分で考える」ゆえに、「他者」はあまり登場しない。
 夏目漱石の『行人』(こうじん)には、近代理性の権化ともいうべき人物・長野一郎が登場する。彼は理性や学識は非常に高い。けれど、妻や母親、その他の家族と分かり合えることができず、常に孤独に苛まれている。近代的知識人の持つ「孤独さ」を感じた本であった(余談だが、一郎が友人と神について語る際、突然友人を殴るシーンがある。「君、これでも神を信じるかね?」という言葉に、私は笑ってしまった)。

 プラトン以前、「模倣」(ミメーシス)が重視されていたと聞く。踊りを観たり、演じたり。歌を聴いたり、歌ったり。宗教においても然りであった。「自分で考える」というよりも、模倣を通じて瞬時に「神に至る」道が重視されていたのだ(ちなみにプラトン以前を注目し始めたのはニーチェである)。「模倣」は、一人ではできない。常に他者の存在が必要である。必然的に孤独になることはない。
 イリッチはconvivialという言葉(どうもスペイン語らしい)を重視する。訳者によって「相互依存」と訳したり、「相互親和」と訳したりする、日本語化しにくい言葉だ(辻信一は「共に生きる」と説明する)。これは「孤独」と対比的な言葉である。一人でいるのではなく、誰かと話したり・親しく過ごしたり・共に生活をしたりすることを重視している。

 イリッチの『脱学校の社会』のラストも、convivialを社会にもたらそう(「相互親和型社会」ということ)、と呼びかけるものであった。誰かの美しい詩を引用し、イリッチはそこで唄った。「人が薄暗がりに住んでいて、薄暗がりの中で友を得るなら、薄暗がりも面白いじゃないか」(208頁)と。 convivialと語る時、必ずそこには「他者」が存在する。理解出来る/出来ないにかかわらず、「他者」と「共に生き」ようとする。『行人』の長野一郎も、convivialな生き方をもっと志向すればよかったのではないか。そう思われて仕方ない(小説だと、なんだか自殺しちゃいそうだし)。
 現代人の生きづらさは、「言葉」に執着するところにあるのだろう。「自分で考える」のも大事だが、もっと「模倣」のよさに立ち返ってもよいのではないか。それがconvivialということである。

 中谷の「言葉の響き」をめぐって、よくわからない話になってしまった。けれど、ここで書いた内容は私が数多くの「他者」から「模倣」してきたから、まあいいんじゃないかな。