(この文章は、タイの卒業旅行中に書いた)
暑いと、まったくやる気がしない。タオ島の自然は「のんびりやれよ」と言ってくれているようだ。
何故か昨日から「たま」のいろんな曲が頭の中で再生される。「どうせ歌っても判らないだろう」とタイ人や欧米人の前を通るとき声に出して歌ってもいた。
かなしい夜がすきだからかなしい朝はきらいたのしい朝もきらいそんなぼくがすきかなしい夜には 腕時計ふたつ買って右手と左手で 待ちあわせてあそぶネクタイの生えた花壇の前のベンチで待ってるのにのろまなぼくの左手はひとりお部屋であわててる
この歌、私の心理描写である。ダメダメな自分。でも「そんなぼくがすき」と自分で言い切る。私もこうして駄文を書き連ねているが、それも「人とぶつかれない」・「深く関われない」という自分だからこそ、書けるものもあるのだと考えている(半分事実で、半分願望)。
しかし、どこに行っても(タイに行っても)、何をしても、つきまとうのは「私」という自我の問題なのだなあ…。まだ自分と向き合えるだけ、幸せなのかもしれない。
(昨日、私が親と喧嘩したことがないことに気づき、愕然とした。「どうせ、いま怒られてもすぐに東京に戻るし」という親との人間関係の〈あきらめ〉があるようだ)