最近、宮台真司の本にハマっている。彼の本のには「オウム」「サカキバラ」など、私が小学生であったときの各種「事件」がちりばめられている。
以前、私は「11年目のサカキバラ」という文章を書いた。約4000字。本ブログにも掲載している。「11年目…」は次の文章で終る。
知識人たちは、何かと子どもを悪者や「劣ったもの」と見る傾向があるのではないかと、感じる。少年Aひとりから、今の社会の子どもたちみなを推し量ることはできないはずである。けれど、どうも知識人という人々は直に子どもたちと会って、「酒鬼薔薇って、どう思う?」と聞きに行かないようである。
この拙文では、〈自称「知識人」は子どもと言う存在を勝手に決めつける。一部にしか当てはまらない内容を《全員に当てはまる》、と決めつける〉ことを主張したのであった。
宮台の本を読み、「11年目…」で批判したポイントが脳裏に浮かんできた。宮台は佐藤学が嫌いなようだが、その宮台も「11年目…」で私が批判した「子どもを決めつける」という愚を犯している(佐藤が「全員」を主張するのに対し、宮台は“今の子どもの三分の一はサカキバラに惹かれている”と語る。佐藤より頭がいいのである)。
しかし、宮台は私のこの論の建て方を批判している。
彼は「僕は常に『実存』の問題と『社会』の問題を分けろと言う」(宮台『野獣系でいこう!』朝日文庫、2001、398頁)と書いている。私が「11年目…」で語ったのは自分の「実存」に基づいての批判であった。「オレはサカキバラに共感したことはない。だから、“現在の子どもはサカキバラに惹かれている”という言説は誤りである」との私の主張も所詮「実存」を基にしている。「実存」によらない理論立てを、自分自身が学んでいくべきであるようだ。