ゴーギャン展に思うこと。

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 「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」。

 何の問いかけであろうか。これは、ゴーギャンの最高傑作とされる絵画の題名である。ゴーギャン自身も「私は、この作品がこれまで描いたすべてのものよりすぐれているばかりか、今後これよりすぐれているものも、これと同等のものも、決して描くことはできまいと信じている」と述べている。
 友人のOに薦められて、竹橋の東京国立近代美術館のゴーギャン展を昨日見てきた。ぐるぐる館内をめぐった後、冒頭に書いた「我々は・・・」の前で私はノートを広げた。目の前に広がる光景を見つつ、心に浮かぶことを書き綴っていったのだ。
 じーっと見るなかで、生命の持つダイナミズムを感じた。生命はつねに動き続け、静止することがない。生命の「動」についてを実感していった。画中の少女はそのうちリンゴをかじり終えるだろうし、水浴している女性はやがて水浴をやめる。今日赤ん坊であっても、そのうち死を目前にした老人となる。生命は「変化」「動」の連続である。本絵画全体のあいまいさは、人間生命のアナログ(連続)性を示してもいるようだ。
 「美」もやがてうつり変わる。生命の「動」、連続性。それを前に、座り込んで佇むのも必要だが、その時間もやがて移りゆく。
 熱帯にいても文明圏にいても、生老病死からは逃れられない。ゆえに、そのことに絶望するよりは、「変化こそ生命」と見るほうがよいだろう。
 私のまわりで本作を見ている人々は、次々と場所を移動し、次の作品へと移っていく。とどまり続けるものは誰もいない。この「動」こそが生命である。
 ゴーギャンは生命の「動」を、絵画という「静」の技法で示そうとした。そこに無理があるといえばそうだが、いまにも語り出しそうな人物たちの姿を見ていると、やはり「動」がこの絵にあふれているように思う。
 
 変化こそが生命だ。「万物は流転する」のである。ただ、その「流転」もエヴァ(旧約聖書の人物。イヴともいう)が禁断の木の実を取ることから始まった。それがなければ、人間は「静」の世界、無変化の世界しか生きれなかったであろう。
 そういえば、ゴーギャンが来たときのタヒチも、「文明化」の波が始まっていたという。その生々流転する「動」のきっかけは、すべてエヴァの行動からはじまった。本モチーフには、生老病死という「動」の苦しみがもたらす人間の宿命と、それゆえの「ひとときの輝き」「現在の肯定」という二面性が描かれているようだ。
 株仲買人として成功した後に絵を描き始め、35歳で画家になる。収入が著しく減り、妻に逃げられ、絵を描くことだけが彼の生きがいとなる。フランスから出て、南太平洋のタヒチへ。彼の生涯自体、変化の連続。本作は、貧困・健康状態悪化・娘の死という、ゴーギャンのどん底時代に描かれた。
 万物は流転する。変化こそ生命。なら自分も、いまとはちがう何かになれるはずだ。変化を楽しむことが人生を楽しみ、充実させることとなる。
 「変化する主体」としての人間観は、ルーマン以来の教育学のテーマだ。
 オートポイエーシス(自己塑成)という人間像を私は思い出す。勝手に変化するとの動的生命を、私は大事にしたい。よもや教育がこの生命の「動」のダイナミズムを殺してはいないか、と。
 
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