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おおたとしまさ『ルポ塾歴社会 日本のエリート教育を牛耳る「鉄緑会」と「サピックス」の正体』③

前の記事の続きです。
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本書『ルポ塾歴社会』では、【サピックス小学部→鉄緑会】というコースをたどった人たちへのインタビュー記事が前半部分を占めます。

このインタビュー記事の部分。
なんというか・・・。

 

 

前回も書いたとおり、
「いまいちピンとこない・・・」感満載です。

それは私が「中学受験って、なんですか?」という片田舎に育ったことも大きいです。

どうも「首都圏の子どもは大変だなあ・・・」という思いを持つ本でした。

「大学に入るまで塾に頼り切る生き方は、もしかしたら私から、何かを深く思考する能力を奪ったのかもしれないとおもうことがあります。もともとそういうことがニガテだったのかもしれませんが、そのことに目を向けず、お山の大将に慣れてしまうシステムなのかもしれません。そういう生き方が向いている人も必ずいるわけですから、それが一概に悪いことだとも言えませんが」(45)
(桜蔭→東大文Ⅰ→東大ロースクール→弁護士の女性へのインタビュー)

 

小学生のうちは、目標の学校に入るためにどれだけの学力が必要で、そのためにどれだけの努力をしなければいけないのかなど、子供本人がわかるはずもない。塾の指導に右向け右になることはやむを得ない。しかし、それが強烈な成功体験として刻まれ、中学・高校生になっても塾に頼り切りになってしまうと、主体的な学習習慣を身につける機会が奪われてしまうのかもしれない。(45-46)

そして、【サピックス小学部→鉄緑会】という黄金ルート日本のエリート教育をある意味「固定化」「制度化」させてしまう危険があることを本書『ルポ塾歴社会』は危惧しています。

 

その一つが〈サピックス小学部のほうが、名門中学校の入試問題に対し「こんな設問をしている限り、うちの塾からはその中学校への進学を勧められない」というクレームが入る〉とということかもしれません。

 

ただ、本来的に塾は「学校で足りないこと」「学校でできないこと」を補う働きをしてきています

塾の生徒からも、「学校の授業はつまらない。だけど、友だちと遊べるから学校に行っている」という言葉を聞くことがあります。

「塾のほうがわかりやすい」という声も聞きますし、
「これって、こういう意味だったんだ!」という素朴な感動を、
塾で授業をしていて共有することもあります。

 学校とは別に塾という学びの場があることで、子供たちは自分に合う学習スタイルを見つけたり、より多角的な刺激を受けたりできるのである。
「学校歴×塾歴」で、教育のバリエーションが無数に増える。日本の学校制度が平等で画一的であったからこそ、教育の多様性をもたらすために、塾という「変数」が自然発生したようにも私には見える。(146)

 

その意味で、塾と学校は決して敵対しないもの。
同じ子どもを、違う立場からサポートしていけるものなのです。

 逆に言えば現在は、塾があるからこそ、学校は学校でいられる。目先の大学合格だけでなく、生徒一人ひとりの人生の20年後、30年後をも見据えた本質的な教育に力を注ぐことができる。だから学校の多様性も担保される。その意味で、塾は学校教育を陰で支えるパートナーなのだ。(144)

 

かつて、札幌で塾を運営する能正章寛さんという人は「塾は学校と地域・家庭の究極の裏方」という名言を述べていました(いまも述べています)。

教育という点で、子どもを「究極の裏方」としてサポートしていけるのが塾である、という観点です。

本書を読んで再確認した気がします。

☆たまたま見つけた「札幌人図鑑」の動画より。

 

公教育が「与えられた教育」であるとするならば、民間教育は「自ら求める教育」と言える。その2つがあることで、日本の教育は常にバランスを保ち、かつ、柔軟に進化し続けることができた。これは世界でもまれに見るハイブリッドな教育システムなのである。(145)

札幌で新たに作文教室ゆうをはじめる者として、「世界でもまれに見るハイブリッドな教育システム」を支える一員になりたい、と思っています。

 

 

 

さて、この『塾歴社会』を元に、4/9(土)に読書会を開催します。

【Facebookイベントページ】『ルポ塾歴社会』読書会

4/9(土)22:00-23:00、会場は札幌市営地下鉄「幌平橋駅」徒歩5分の
個別学習塾はる】です。

ぜひ本書片手に語り合いませんか?

ご参加お待ちしています!
(参加希望の方はこちらからご連絡ください)

おおたとしまさ, 2016, 『ルポ塾歴社会 日本のエリート教育を牛耳る「鉄緑会」と「サピックス」の正体』(幻冬舎新書)。
2Q==☆こちらからお求め頂けます。

大平レポート⑤ 当事者が「声」を上げるということ

〜大平亮介さんのFBよりの記事です〜

読んだ本のなかで勉強になったことがあるので書きます。

社会的に弱い立場にある人やマイノリティの人たちが抱える社会的な課題は可視化されにくいといわれています。

なぜならば、当事者が声を上げて現状を伝えることが難しいからです。
社会的課題として認知されなければ放置され解決策が生まれません。

そのため、社会的課題として認知度を高め、解決すべきという世論を育てる必要があります。
世の中には少子高齢化の問題、介護の問題など、優先順位の高いものから着手される傾向にあります。行政や議員が優先順位を決める傾向は2つあります。

① 質的要素
・今すぐ支援が必要なことか?(優先度)、命に関わることか?(深刻度)といった要素

② 量的要素
・「どれくらい困っている人がいるのか?」「どれくらいニーズがあるのか?」といった量的な要素。

これら2つの要素を勘案して社会的な課題解決の優先順位を決めていると考えられます。
つまりマイノリティに関する社会的な課題でもこの2つの要素を補強する証拠を整えることができれば、希望がみえてきます。

例えば、僕が取り組んでいるLGBTに関する問題の場合、当事者は人口の3~5%存在するといわれています。

クラスに1~2人いる計算ですが、社会的な無理解やカミングアウトの有無などによって存在が見えにくいといわれています。
つまり当事者の声を聞くことが難しいということです。
研修や勉強会でこのことを話すと「そんな人いるの?はじめて聞いた」という反応が返ってくるが多いです。

いま考えているのが、道内に住む当事者の方にTwitterなどの匿名性が高いツールで学生時代の困りごと、うれしかったことなどの事例を集めようと考えています。これが質的要素を高めることに役立てます。

なぜ、道内で調査するかというと課題への距離感をぐっと縮めるためです
たとえば、「アメリカの○○州の当事者から話を聞いて事例集にまとめました!」というよりも「学生時代を道内で過ごしたLGBT当事者の方に当時困っていたことを聞いて事例集にしました!」のほうがよっぽど課題が身近になります。

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参考文献:明智カイト『誰でもできるロビイング入門』光文社新書,2015
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大平レポート④ アイスブレイク・ゲームをやってみよう!

〜大平亮介さんのFBからの記事です〜

初対面の人と話すのって緊張しますよね。
とくにあんまり知らない人が集まって話す場だとなおさらです。

そんなときに役立つのが「アイスブレイク」というゲームです。
アイス=氷、ブレイク=壊す、を合わせたことばで、緊張した雰囲気を和らげるために行います。

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今の時期だったら新入社員の研修、新入生のレクリエーションなどに使えます。

たとえば、初対面同士の名前とその人の特徴を覚えるのに役立つアイスブレイクがあります。

■名前を覚えるアイスブレイク
・参加者の名前を自己紹介に付け足して全員の名前を覚えるアイスブレイクです。
たとえば、「〇〇です」→「○○さんの隣の○○です」→「○○さんの隣の○○さんの隣の○○です」といった感じにどんどん名前を付け足していきます。
「名前+好きなこと、もの」を入れると、その人を印象づけることができるのでオススメです。

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■座り方は車座で
・よりアイスブレイクを効果的に行うには座り方のちょっとした工夫が必要です。
対面式に座ると緊張するので、参加者全員の顔が見えるように車座(サークル)になります。
こうすることで話を聞こうという雰囲気が共有されます。

ビブリオバトルやワークショップを行う前に行うと経験上、すごく効果的ですのでぜひ試してみてください!

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大平レポート③ 「一般質問」のつくりかた。

〜大平亮介さんのFBからの記事です〜

市民協働、市民自治の実現の一つの方法として一般質問を一緒につくることが挙げられます。そこで一般質問の組み立て方をまとめてみました。

■方法として
議員さんとの意見交換会などを通して一般質問の問いを立てることもあるので、会に参加して意見を伝えることもできます。

また、地方議員さん一人で質問に関連する資料や先進事例を集めたり、内容をまとめることは手間もかかりますので、リサーチを手伝うと助かるのではないかとおもいます。
このように一般質問を組み立てるさまざまなお手伝いすることができます。

どの組織を支持するとかは関係なしに、純粋に自分が解決したい課題と類似する一般質問を過去にした議員さんとコンタクトをとるのも一つの手だと。

大平 亮介さんの写真

おおたとしまさ『ルポ塾歴社会 日本のエリート教育を牛耳る「鉄緑会」と「サピックス」の正体』②

前の記事の続きです。
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この4月から作文の塾を開設する私にとって、本書『ルポ塾歴社会』は参考になる1冊でした。

ハッキリ言うと、北海道では「サピックス」(SAPIX)も「鉄緑会」もほとんど縁がありません。
(サピックスは「北大増進会」内にSAPIXメソッドコアマスターというコースがあったり、代々木ゼミナールと合同で「Y SAPIX」を運営していますが・・・)

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学力危機北海道』ではありませんが、北海道は全国的にみて「低学力」が問題とされています。

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札幌はともかく、私が先月まで居た北海道帯広市はまだまだ「受験競争が激しい」とは言いがたい雰囲気の場所です。

受験熱、特に中学受験熱なんて首都圏と関西のみのもの・・・
本書『ルポ塾歴社会』を読んでも「ああ、そんなことがあるのね」という「関係ない感」をもってしまいます。

 

そのため、サピックスや鉄緑会についての話よりも「第4章 塾歴社会の光と闇」が一番勉強になりました。

 

某有名進学校の校長はこう言う。「私たちが高校生だったころは、高3になると、東大に合格した先輩の家に行って、勉強方法を教えてもらい、先輩が使っていた問題集をダンボールごとごっそり譲り受けて受験勉強をしたものです。それが学校の伝統でもありました。しかしいつしか塾が台頭し、いつまでにどの問題をやればいいのかをすべて指示してくれるようになってしまった」
そうなれば、プロの力を借りたほうが有利になるのは当たり前である。それを突き進めた先に、塾歴社会」があった。(141)

かつて、受験勉強の際は次の自問自答をしながら勉強をすすめるものでした。

「自分はどこを目指すか、自分はどの教材を使い、自分はどんな計画のもと受験勉強をするか」

いま、これを自分で考えることを放棄する受験生が多い気がしています。

自分で考えないからこそ、塾・予備校を「ペースメーカー」として使うことになります。

例)「数学は高3の夏までに全分野一通り終わらせられるよう、カリキュラムを組んでいます」

そうなると、自分で考えることは「ペースを乱すこと」になります。

下手に自分で考えて「別にいま数学をやんなくてもいいんじゃないか」とすることは「危険」(=不合格)な発想になるのです。

 

これこそ、思想家イバン・イリイチが語った「制度化」です。

2Q==-1☆イバン・イリイチ研究の第一人者、山本哲士の本。

自分で考え、自分で勉強する力がなくなり、
「塾/予備校」という「制度」がいうことを無目的に信じ、行動するようになるのです。

当然、自分で考えて受験勉強を進めると「うまくいかない」「一生懸命やったけど、志望校に落ちた」という結果もありえます。

【サピックス→鉄緑会ルート】の若者を描いた『ルポ塾歴社会』では、保護者の声として、息子が「第1志望合格を逃したことを、今でも自分の判断ミスだったと悔やんでいる」(78)との記述があります。

受験生自体が「自分の失敗だ」と捉え、「じゃあ、次はこうしよう」とはせず、単に「判断ミス」として親が「悔やむ」構造もあるのです。

また、サピックスも鉄緑会も、超スピードで進みます。
「ふつうの子」ならついていくのに一杯いっぱい。
その結果、学校の勉強も塾の勉強も中途半端という生徒も出てしまいます。

どこかで、「じゃあ、サピックスを辞めて、自分はあの塾でまた頑張る」「別のやり方を試してみる」をすればいいのですが、それをできず、やり続けてしまう。

ある意味ですごく素直です。

言われたことを純粋にただやる。

「地頭」のいい受験生なら「まあ、適当に手を抜くけど一応やっておくか」と相対化できます。

そうでない「ふつうの」受験生なら、それこそ学校の授業中に塾の宿題を必死にやるという「イタイ」ことをしてしまいます。

かつての「自分で考える」主体性を求められていた受験勉強に、
塾による「制度化」がはじまっているのです。

続きます
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おおたとしまさ『ルポ塾歴社会 日本のエリート教育を牛耳る「鉄緑会」と「サピックス」の正体』①

兵庫県の片田舎出身の私。

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そんな私が東京の私立高校に進学したときのこと。
その時は、首都圏の圧倒的エリートが通う「筑波大学附属駒場高校」も知らなければ「開成高校」も知らず、中高一貫校というものがあることも東京で初めて知りました。
(もっといえば「中学受験」という制度や「国立の高校」の存在も知りませんでした)

首都圏のみ、異常に受験熱が高いことに【がく然】としたものでした。

私は、中・高・大一貫教育(もっというと「小」からも)の場所に高校から入っています。

そのため、「生まれも育ちも関東」で、なおかつ「中学受験を経験している」「中学からの持ち上がり組」の同級生から、高1のときの私はどう見られていたのか、いまさら怖くなります。

兵庫の片田舎とは受験のルール自体、違っていたのですから・・・。

 

さて、本書『ルポ塾歴社会』は、首都圏(一部、関西も)の「究極のエリート教育機関」となっている2つの塾についてまとめた本です。

 東大合格者数ランキングの上位に名を連ねる学校のほとんどは、私立もしくは国立の中高一貫校。2015年の上位を挙げれば、開成、筑波大学附属駒場、灘、麻布、駒場東邦、桜蔭、聖光学院など。
これらトップ校に入るための中学受験塾として圧倒的なシェアを誇り、ひとり勝ち状態にあるのが「サピックス小学部」だ。そしてこれらトップ校の生徒たちが大学受験のためにこぞって通うのが「鉄緑会」えある。つまり、「サピックス小学部」の上位クラスの子供たちがトップ校に合格し、入学後は「鉄緑会」に入るという流れができている。(・・・)
東大合格率ナンバーワンの筑波大学付属駒場中学受験合格者数に占める「サピックス小学部」出身者の割合は、2015年で7割を超えている。また大学受験の最難関である東大理Ⅲ(医学部)の合格者のうち6割以上が「鉄緑会」出身者で占められている。
たった2つの塾が、この国の「頭脳」を育てていると言っても過言ではない。「学歴社会」ならぬ「塾歴社会」である。(3-4)

兵庫の片田舎にはそもそも「中学受験」なんて選択肢は事実上、ありませんでした。

にもかかわらず、「中学受験」の「名門」に受かるための塾があり、
その塾のエリートたちが再び「東大」合格のために入る塾がある。

恐ろしい現実があるなあ、と実感をしました。

その存在が何をもたらしているか、本書『ルポ塾歴社会』では述べられています。

詳しくは「続き」を!
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中高生が「ちくまプリマー新書」を投げ出すのは、どんな時か?

ちくまプリマー新書は、「中高生向け」でもある新書。
やさしい言葉で、学問の本質を伝えるという、50年くらい前の「岩波新書」と同じような狙いの新書(岩波新書は決して「やさしい言葉」でないときもあったけれど)。

ただ、思うのは「中高生向け」を謳った本にも「中高生が投げ出しそうだなあ」という本が少なくないのはなぜだろう、という点である。

ではどんな時に「中高生が投げ出す」のだろう。

たまたま今読んでいた根井雅弘『経済学はこう考える』(ちくまプリマー新書)を元に見ていきたい。

(ちなみにこの本、まったくもって中高生向けには感じられません)

(1)抽象概念を抽象概念で説明する場合

本書で言えば、「流動性選好説」(ケインズ)の説明に当てはまる。

「流動性」とは、必要なときにいつでも他の財に代えられるという「交換の容易性」や、他の財と比較して元本の価値が安定しているという「安全性」の総称ですが(以下略)(68)

「流動性」も「財」も「元本」も、日常ではほぼ使わない言葉。
それでもって「流動性選好説」なる「抽象概念」を説明する場合、中高生のワーキングメモリ(および「普通」の大人のワーキングメモリ)に「?」マークが浮かぶ。

するともはや理解が進まなくなる。

(2)複数のカタカナ人名が出てくる場合

一般的な中高生は、アーティストでもタレントでもない外国人の名前に触れることは(ほぼ)ない。

そんなときにやれケインズだ、ハイエクだ、ケインズの弟子のロビンソンだ、などと聞き覚えのないカタカナ人名が出てくる時点で本を閉じたくなる。

そのため、せっかくいいことを言っていても「ケインズによると」がついた途端に読むが薄れてしまう。

ちなみにいわゆる「女子トーク」が面倒なのは、話す相手が知らない人物名が複数(一つなら耐えられる)出てくるためである。

(3)言っていることが日常会話レベルをはるかに凌駕している場合

これはあらゆる本の宿命。
日常会話や日常での認識をはるかに超えた内容を理解するのは、ちょっと体力がいる。

もともと日本語という言語は「一方的に長く話す」のに向いていない言語だった。
江戸時代、幕末の志士たちが「今後の日本をどうするか」考える時もそうだった。

彼らはどうやって議論したか?
なんと「筆談」(正確には手紙)なのである。

幕末の志士たちは同じ宿屋のとなりの部屋の人と議論するときも、日常会話ではできないのでいちいち手紙を書いていた、という。

(4)数式及びわかりにくいグラフの登場

これは中高生にかぎらず成立する。
(経済学の本は大体、(4)があるせいで極端に読みにくくなります)

 

いかがだったでしょうか。

本書は理数系の高校生でなければ、途中で投げ出すだろう本。
かくいう私もあんまり理解できないところもある本だったが、学ぶことの多い本だったことを補足しておく。

ケインズは、『自由放任の終焉』のなかで述べたように、資本主義にはいくつかの欠陥があるにもかかわらず、賢明に管理されるならば、他の経済システムよりもはるかに効率的であるという信念をもっていました。(63)

 

一言でいえば、ケインズにとって、経済学とは「目的」ではなく「手段」に過ぎなかったのです。(76)

 

☆根井雅弘, 2009, 『経済学はこう考える』ちくまプリマー新書.

 

波というもの

こんなことはないだろうか。

さっきまで誰もいなかったコンビニに1人お客が来ると、雪崩を打って人がやってくる。

昼間も真夜中も同じこと。
突如として、お客の波が来る。

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ひなびた山奥の温泉にいて貸切状態であっても、1台クルマが来ると続けて2台・3台とやってくる。

波というものは、確かにある。

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仕事にも波がある。

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忙しい「忙殺」週間のあと、突如として「何もない」期間が来る。

「あいだ」の忙しさ・中間の忙しさはあまりない。

めちゃくちゃ忙しいか、暇か、その2択しか無い。

これ、人生も同じこと。

めちゃくちゃ忙しく、密度の多い期間と、

何もなく、変化に乏しい期間とが合間する。

どうせなら「暇」の方がいいけれど、
「暇」すぎると「オレって、いる意味あるの?」と思ってしまう。

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「波」というものを、人間は時として忘れる。
つまり、波と波の来ない中間がある、と考えてしまう。

そんなものは存在しないことに、どこかの時点で気付かなければならない。

そう思う。

「どのようにして」という質問

なにか、できないことがある。

例1「さかあがりができない!」
例2「片付けができない!」
例3「人間関係がうまくできない・・・」

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そのとき「なぜできないのか」問うと、暗くなる。

例1→「なぜできないのか。才能がないから・・・」
例2→「なぜできないのか。やっぱりO型だから無理!」
例3→「なぜできないのか。やっぱり、オレはコミ障だから」

そんなとき、問い方を変えてみると、発見がある。

問い方を「どのようにしたらできるのか」に変えてみるのだ。

例1’→「どのようにしたらできるのかな。練習が足りないからかな。もっと練習してみるか」
例2’→「どのようにしたらできるのかな。100均の整理グッズでも買ってみるか」
例3’→「どのようにしたらできるのかな。コミュニケーションについての本でも読んでみるか」

どうだろう?
「どのようにしたらできるのか」の質問のほうが明るい。
次何をしたらいいか」、なんとなく見えてくる。

問い方を変えるだけで、だいぶ変わることがあるのだ。

それは、理系の研究者でも同じらしい。
「どのようにしたら」、つまり「いかにして」という問い方こそ、真理発見につながるのだ。
「なぜ」という問いからは、発見されにくい。

自然の研究から決定的な答えが得られるのは、この「いかにして」型の問いだけなのである。いかんせん、この言い方は落ち着きが悪いので、「いかにして」と、より具体的な|問題を論じるつもりで、「なぜ」という、より一般的な表現をうっかり使ってしまうこともあるかもしれないが、そこはどうか大目にみていただきたい。
しかし、現実に知識を得るという観点からは、「いかにして」と書き換えられたこの疑問を補う、より実際的で実り多い多数の問いが発せられてきた。たとえば次のような問いもそのひとつである。「今の時代の宇宙をもっともよく特徴づけている性質は、どこから生じただろうか?」。いっそう重要なのは次の問いかもしれない。「その疑問に答えるためには、何をすればよいだろうか?」(ローレン・クラウス, 2013, 『宇宙が始まる前には何があったのか?』, 文藝春秋, 207-208頁)

 

 

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☆関係ないけど、つぎの引用も結構面白いので残しときます。

物理学が環境科学になるということは、われわれの知る物理法則は基礎的なものではなく、たくさんの宇宙がある中で、たまたまこの宇宙の中だけで成り立つローカルな法則にすぎないということを意味している。そしてそれはまた、この宇宙がこのような宇宙であるのは、単なる偶然だったということを意味してもいる。(「訳者解説」283頁)

藤野英人, 2013, 『投資家が「お金」よりも大切にしていること』星海社新書.②

働き方、お金の使い方・・・。
本書にはいろんな気付きがあります。

そんな一節を抜粋。

従業員に過重労働を強いる「ブラック企業」を生み出しているのは、私たち消費者である(89頁)

 

経済とは「共同体のあり方」であり、どのように生きたらみんなが幸せになれるかを考えるのが、経済学の本質だということです。
まさに互恵関係であり、自他不二こそが、経済の本質なのです。(98頁)
経済とは、お金を通してみんなの幸せを考えること−−このことを、ぜひみなさんは覚えておいてください。(99頁)

太古の昔、人間はアフリカで細々と生きていた、弱い哺乳類のひとつだったようです。そんななか、インドネシアで大規模な噴火があり、それによって地球の温度が一気に寒冷化に向かい、多くの生き物が死に絶えました。
人間の祖先も多くが死んでしまい、絶滅の淵に立たされたそうです。
しかし、ここからが面白いのです。生き残った人間のうち、さらに生きのびることができたのは、血縁でなくてもお互いに助け合い、少ない食べ物を争わずに分かち合ったグループだけなのだそうです。|
要は、「協力」こそが、人間が生き残った大きな戦略であり、人間を人間たらしめている大きな要素だということです。
協力することで「company」になり、いま持っている資源を「share」することは、動物にはできない人間独自のものなんですね。(127-128頁)

 

本来あるべき金融教育とは、働くことに価値があり、その価値ある労働の延長に起業の利益があり、その利益の将来期待が会社の価値を形成していると理解することです。(151頁)

真の安定とは、変動・変化をしないことでは、けっしてありません。
変化と向き合い、変化をチャンスと捉え、変化(成長)を望んで、実際に働くこと。要は、変化こそが安定なのです。(213頁)

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