なにか、できないことがある。
例1「さかあがりができない!」
例2「片付けができない!」
例3「人間関係がうまくできない・・・」
そのとき「なぜできないのか」問うと、暗くなる。
例1→「なぜできないのか。才能がないから・・・」
例2→「なぜできないのか。やっぱりO型だから無理!」
例3→「なぜできないのか。やっぱり、オレはコミ障だから」
そんなとき、問い方を変えてみると、発見がある。
問い方を「どのようにしたらできるのか」に変えてみるのだ。
例1’→「どのようにしたらできるのかな。練習が足りないからかな。もっと練習してみるか」
例2’→「どのようにしたらできるのかな。100均の整理グッズでも買ってみるか」
例3’→「どのようにしたらできるのかな。コミュニケーションについての本でも読んでみるか」
どうだろう?
「どのようにしたらできるのか」の質問のほうが明るい。
「次何をしたらいいか」、なんとなく見えてくる。
問い方を変えるだけで、だいぶ変わることがあるのだ。
それは、理系の研究者でも同じらしい。
「どのようにしたら」、つまり「いかにして」という問い方こそ、真理発見につながるのだ。
「なぜ」という問いからは、発見されにくい。
自然の研究から決定的な答えが得られるのは、この「いかにして」型の問いだけなのである。いかんせん、この言い方は落ち着きが悪いので、「いかにして」と、より具体的な|問題を論じるつもりで、「なぜ」という、より一般的な表現をうっかり使ってしまうこともあるかもしれないが、そこはどうか大目にみていただきたい。
しかし、現実に知識を得るという観点からは、「いかにして」と書き換えられたこの疑問を補う、より実際的で実り多い多数の問いが発せられてきた。たとえば次のような問いもそのひとつである。「今の時代の宇宙をもっともよく特徴づけている性質は、どこから生じただろうか?」。いっそう重要なのは次の問いかもしれない。「その疑問に答えるためには、何をすればよいだろうか?」(ローレン・クラウス, 2013, 『宇宙が始まる前には何があったのか?』, 文藝春秋, 207-208頁)
☆関係ないけど、つぎの引用も結構面白いので残しときます。
物理学が環境科学になるということは、われわれの知る物理法則は基礎的なものではなく、たくさんの宇宙がある中で、たまたまこの宇宙の中だけで成り立つローカルな法則にすぎないということを意味している。そしてそれはまた、この宇宙がこのような宇宙であるのは、単なる偶然だったということを意味してもいる。(「訳者解説」283頁)