「最上の教育を受けた者でも、それに続いて自己教育をしなければ、ちゃんとした人間にはならない。反対に、最もよくない教育を受けても、そのあと自己教育によって、改善されるものである。どんな教育にもせよ、そのあと自己教育をつづける意欲を疲らせたり鈍らせたりするようなものは、すべて悪い教育である」(ヒルティ『幸福論』第二部 岩波文庫 299頁)
【数学コラム】「記憶」のはなし。
みなさんはこれまで、いろんなことを覚えたり、学んだりしてこられたことと思います。この「ものを覚える」ことについて、近年研究がかなり進むようになってきました。
一つ、私が「面白いなあ」と思うものに、次のものがありました。人間の頭の中にある知識には、「宣言的(せんげんてき)知識(ちしき)」と「手続(てつづ)き的知識(ちしき)」の2つがある、ということです。
質問なのですが、自転車の乗り方を人にどうやったらうまく伝えられるでしょうか? おそらく「サドルに乗って、足を動かして…」くらいしか言えないはずです。はじめて自転車に乗る人は、この説明だけでは運転できません。自転車に乗れるのだから、人に乗り方を説明できるかというとそうではないのです。でも、きちんとした説明をできなかったとしても、現実には自転車に乗れてしまっているのです。
このように「なぜか知らないけど出来る」ような知識の事を「手続き的知識」といいます。流れの中で体が勝手に動くような知識の事です。一方、「1192年に鎌倉幕府ができた」などと説明できてしまう知識の事を「宣言的知識」といいます。「これは~~です!」と宣言できる知識の事なのですね。
今日やったのは、数学の計算に関する公式です。今日の段階だと「この公式をこう使うと…」という「宣言的知識」の段階です。ですが、公式を使った計算を何度となくやっていると、やがて何も考えなくても解けるようになります。「手続き的知識」に変わったわけです。
数学の勉強をしていると、「パッとみただけで解き方がわかる」ようになるときがよくあります。地道に何度も同じ計算を続けると、自分が何も考えなくてもできるようになる、という喜びに出会えるようになるのです。大切なのは反復練習です。野球の素振りと同じことです。
日々の地味な反復練習こそ、自分を成長させるきっかけとなります。これが数学で学べることの一つなのではないでしょうか? 自分でやることこそ、いちばん力になります。
非日常性による教育論。
もしノマド・エジュケーションを一言で表すとするならば、
教育の中に「非日常」を入れること
と表現できる。
教育が「日常」になると、すべてはつまらなくなる。
毎日行く学校、代わり映えのしないクラスメイト、
イラつく教員。
学校が「重荷」になるほぼ全ては、
教育的関係が「日常」となることにある。
しかし、よく考えれば、
誰かが教員となり、
誰かが生徒となり、
誰かとクラスメイトとして巡りあう事自体、
「奇跡的」なことである。
人と人との出会いは奇跡なのだ。
偶然性以外の何ものでもない。
これは「よい」人間関係のみならず、
「つらい」人間関係でも、
「しんどい」人間関係でも当てはまる。
誰かと「教員」「生徒」として巡りあうのは、
偶然性なのだ。
だからこそ、この偶然性を
「幸運」として感じられるようにしたい。
日常化しない教育は、
つねに「奇跡」「偶然」の色合いを帯びる。
偶然の出会いが一生を変えることがある。
例えば私も、たまたま見学に行ったフリースクールや、
見学に行ったベンチャー企業でスタッフやインターンとして
働く経験があった。
それがあるからこそ、いま通信制高校で教員をやっている。
このきっかけとなった「出会い」へ、
感謝を常に思っていたい。
教育的関係は自明ではない。
意図せざる結果もたらされる、
偶然の産物なのである。
だからこそ私は、
教育的関係を「日常」に堕せず、
常に「非日常」の中で築いていきたいと考えている。
学ぶのは一人でもできる。
一人のほうが学びやすい。
しかし、人生を変える「出会い」は
一人では起きることは絶対にない。
私は「一人」での学びを重視する。
だからこそ、人生を変える「出会い」を
積極的に作って行く。
これこそ私の使命であり、
ノマド・エジュケーションの狙いでもあるのだ。
イリイチ名言集②
私は修得した技能の開放的かつ探求的使用を奨励するような環境の整備を「自由教育」(liberal education)と呼ぶことにする。学校はこの自由教育に関してはさらに効率が悪いのである。その主な理由は学校が義務制であり、学校教育のための学校教育となることである。(…)ちょうど技能を教授することがカリキュラムの束縛から解放されなければならないように、自由教育は学校に通う義務から解放されなければならない。
(『脱学校の社会』)
イリイチ名言集①
学校教育の基礎にあるもう一つの重要な幻想は、学習のほとんどが教えられたことの結果だとすることである。たしかに、教えること(teaching)はある環境のもとで、ある種類の学習には役立つかもしれない。しかしたいていの人々は、知識の大部分を学校の外で身につけるのである。人々が学校の中で知識を得るというのは、少数の裕福な国々において、人々の一生のうち学校の中に閉じ込められている期間がますます長くなったという限りでそう言えるにすぎない。
ほとんどの学習は偶然に起こるのであり、意図的学習でさえ、その多くは計画的に教授されたことの結果ではない。普通の子供は彼らの国語を偶然に学ぶのである。(『脱学校の社会』pp.32-33)
好きを仕事にすること批判。
さいきん、職業柄、高校生と話すことが多いです。
「趣味を職業にする」ということを目指す人が多いことに、
自分自身「あこがれ」を感じています。
ですが同時に「あやうさ」も感じています。
私も高校生の頃は好きな事を仕事にしよう、と思っていました。
実際、この夢は半分叶い、半分は違うような気がします。
なぜなら、高校時代の自分って、いまの自分とは全然違うからです。
人は自分が思うほどの人ではないです。
それはプラスの面でもマイナス面でもそうです。
高校時代の「私って、こんな人」
「私はこれが好き」というのは
あんまりあてになりません。
だって、人は日々変わり続けているのですから。
「好きを仕事にする」というのは、たしかに重要なことです。
でも、「いま好きなこと」は本当に「将来も好きなこと」かはわかりません。
大事なのはいつも何かにチャレンジし続ける姿勢です。
それは別に好きな事でも、好きじゃないことでもいいです。
「自分はこれが好きだから、ほかはやらない」ということほど、もったいないことはないのです。
ヒロベンのすすめ
不登校のお子さんや通信制高校で学ぶ生徒さんの場合、自由な時間がたくさんあります。子どもである時間は、意外に短いものです。その時間の中で自分の「好き」を極めてほしいな、と思います。
自分が興味のあることは、なんでもやってみる。そうすると色々な物が見えるようになってきます。好きなものをやるということは「広い意味での勉強」、つまり「ヒロベン」です。
「ヒロベン」は奥地圭子さんの『不登校という生き方』で提案された生き方です。大学生の頃の私の学習観を大きく変えてくれた発想です。
学問をやってわかることは、すべてのもの・こと・知識はつながり合っている、という事実。遊びの中で見つけたものと、本の中で知った知識とがつながると面白いですね!
私は先日、北大植物園にいきました。「こんなにいろんな種類の植物があるのだな」という気づきを得ました。植物の世界の深さについて知ったわけです。これも「ヒロベン」ですね。
ノマド・エジュケーションphoto
教員がやりがちな10のあやまち
自戒の意味も込めて、教員がやりがちなあやまちについて、
まとめたいと思います。
(画像はhttps://sozaidas.com/122illust05.htmlより)
1,自分のことを「先生は…」と自称する
2,一人ひとりを見ず、やたら「みんな」とか「一緒に」という言葉を使いたがる
3,「忙しい」を口ぐせにして、生徒の方を見ない
4,教育について熱弁するわりに、実践に活かされない
5,税金で食わせてもらっている自覚がない
6,5のわりに、ありえないほど悪い紙質の紙で「お知らせ」を出す
7,教える内容に飽きている
8,教員免許をとったくらいでその分野の「専門家」を自称する
9,自作プリントには必ず誤字脱字がある
10,勉強しない
ちなみに一番問題なのは10です。
教育・情報伝達における属人的要素
情報はいくらでもある。
でも、その人独自の語り口・雰囲気はネットでは与えられない。
必要なのは演劇性。
即興性というドラマの可能性。
方言・雰囲気という属人的要素が今後必要になる。
日本ノマド・エジュケーション協会の狙いは、こういった属人的要素の復権にある。




