ノースサファリサッポロと旭山動物園に思うこと。

今日、旭山動物園(旭川市)に行ってきました。

旭山動物園 https://www5.city.asahikawa.hokkaido.jp/asahiyamazoo/

札幌からはバスで2時間半。意外に近いものです。

広い園内に「ペンギン館」など動物ごとに建物が建っています。
円山動物園など同様、北海道の動物園は「寒い」時期対策として
室内展示の出来るような建物が必要なようです。

本州にいた時から、旭山動物園の「空をとぶペンギン」の話は
聞いていましたが、水中トンネルで見るペンギンの姿は
「ああ、行ったかいがあったな」と思うものでした。

 

さて、前のゴールデンウィークに札幌から車ですぐいける
ノースサファリサッポロ(https://www.north-safari.com/ver2/index.html)に行って来ました。

こちらは狭い園内にたくさんの小動物、
ウリは「実際に触れる」点です。

旭山動物園とノースサファリサッポロ。
札幌から行きやすい動物園ですが大きく違っています。

大きな違いは「大規模」な旭山動物園に対する
小規模・体験型のノースサファリサッポロという対比です。

かなり展示に工夫をしていますし、
傷ついた動物の保護という目的が優れているのが
旭山動物園です。

ですが旭山動物園はよくも悪くも、
「昔ながらのテーマパーク」のやり方そのままであるように
思いました。

真新しさで言うと、ノースサファリサッポロの
インパクトには負けてしまうようです。

これからの時代、大きな敷地に真新しい設備で何かをはじめる
という形式はなかなかリスキーなように思います。

だからこそ旭山動物園には長い「冬」の時代があったわけです。

ノースサファリサッポロもそのうち「冬」の時代になるでしょうが、
小規模であればいろいろな微修正や変更もしやすいものです。

今後の自分の実践の仕方も含め、
参考になるのがノースサファリサッポロと旭山動物園の対比でした。

ヒルティ名言集④

人間が神をよろこぶのではなく、神が自分のようなものをよろこばれ、またよろこんでくださることができるということ、これこそ立派に成就された人生の正しい完結である。

(岩波文庫版『幸福論』第3部 357ページ)

高校生とKJ法

今日、実はいつも以上に学校で仕事するのが楽しみでした。

新たな試みをやろうと思ったからです。

 

それは、高校生とKJ法の授業をする、ということです。

 

KJ法とは、アイデアを出す方法。

川喜田二郎氏によって『発想法』で提唱された方法です。

私も中公新書で読みました。

 

付箋などに思いつくフレーズを書き、
周りの人の付箋を共有し、
近いものを重ねていって、
その固まりのタイトルを書く、というものです。

以下のサイトが参考になると思います。
https://www.atmarkit.co.jp/aig/04biz/kjmethods.html

 

厳密にはKJ法は文章で書き、方法を守りながらやっていくものです。

 

ですが、「厳密すぎると誰も出来ない」ため、あえて崩して今日は授業をしました。

kaigi_shifuku_brainstorming

さて、今日「携帯電話のいい面・悪い面」をテーマに、グループごとにKJ法で話し合いをしました。

 

通常、学校ではとにかく「話し合いをしよう」と呼びかけるばかりです。

その結果が、「声の大きい人の意見が通る」現状と、
「なんでも多数決で意見をまとめてしまう」現状の氾濫です。

 

声が出しにくい人にも、
じっくりものごとを考えたい人にも 適切な議論の方法はないだろうか?

 

考えた答えとしてのKJ法の授業でした。

 

通常の「とにかく話し合いをしよう」形式よりも意見が出やすかったのを実感しました。

他人の意見と「近い」点を探していくので、話を聴き合う練習にもなりました。

なによりも、話し合いの際、楽しそうな雰囲気のあるディスカッションになりました。





 

 

よく「いまの子どもは話し合いが出来ない」ということを聞きます。

ですが本当に大切なのは「話し合いが出来る方法論を伝えているか」という教員の側の問いかけです。

 

 

無論、今日の授業も課題点がないといえば嘘になります。

議論の仕方の方法論も含め、自主的に話し合いができる環境設計をやるのが教員の仕事だなあ、と思った今日一日でした。

 

【読書会】イリイチ『脱学校の社会』第1章

大学時代、友人と『脱学校の社会』の読書会をやっていました。
めちゃくちゃ面白く、次第に議論が深まっていくことが分かりました。

それが「原点」となって、「教育系のイベントをやりたいなあ」という思いにつながっていきました。

教育現場で働く側になったいま、再び『脱学校の社会』の読書会をスタートしました。
場所はシェアハウスのBUIE。

シェアハウスの友人と一緒に第1回目を本日開催しました。

学校にいくことで人々は、〈学んだことは教えられたことの結果だ〉という転倒した価値を持つようになる。そういったイリイチの発想に「シビれる」場となりました。

ディスカッションになったのは、イリイチの言う「ドリル学習」(反復学習)の意味について、です。ドリル学習を勧めるのは「自由な学び」を求めるイリイチと矛盾するのではないか、と議論しました。

重要なのは『脱学校の社会』1章の始めでイリイチが述べているように、
過程(目的)と手段を混同しないということです。

大学に入るのが教育の目的ではなく、自分として楽しい人生を生きれるようにすることが 教育の目的です。そのあたりを混同すると、「大学に入るための教育」に終始してしまうことになります。

これはちょうど「目的状況相関的方法選択」と近い発想です。
目的に応じてやり方を変える。
だからこそ方法論は多様な方がいい、という考え方です。

詰め込み的な「反復学習」と、人と人とが出会うことによる「学びのためのネットワーク」(learning webs)を同一の本で扱うイリイチの、一見矛盾した態度。それを解決する鍵はここにあります。

要は、一人ひとり、「合う」教育は違う、ということです。
にも関わらず、「学校」は同じやり方で教育を受けることを要求します。
いじめがあっても、クラスが合わなくても、そこで授業を受けなければ成績が悪くなります。

イリイチは、人によって違う教育を提供すべきだ、と考えていたのではないでしょうか。
だからこそ、「ドリル学習」と「学びのためのネットワーク」という矛盾するような教育のアイデアを提唱したのだと思います。

人によって、合う教育は違う。
だからこそ、教育の側が多様であるべきだ。

イリイチの思いが伝わってきます。

(余談ですが、イリイチがメキシコでやっていた教育機関も、資金源としてスペイン語の「ドリル学習」塾をやりつつ、「学びのためのネットワーク」にもとづく「市民大学」「自由大学」とでも呼べる研究所を経営していたことも、この拙文に関係するように思われます)

☆第2回目読書会は『脱学校の社会』のハイライトである6章をやります。
2012年6月30日22:30-23:30、シェアハウスBUIE学園前の2Fワーキングスペースで行う予定です。

参加希望の方は御連絡ください。

映画『外事警察』

組織と個人との関係は、古くからのテーマです。
個人の意図を超え、「組織悪」とでも呼ぶべき状況が発生する。
その難しさが組織と個人との間にあります。

『外事警察』はある意味国家のつくった「魔物」とでも呼ぶ主人公と、
雇い主である上司や彼の部下たちの関係性が描かれています。

渡辺篤郎演じる主人公は、笑顔と脅しを演じ分け、相手をコントロールしつつ目標を達成します。
「相手の「怒り」をうまく利用することが外事警察の基本だ」というセリフがそれを物語っています。

北朝鮮と原子力爆弾の製造、ウランの密輸などがテーマになり、なかなかスリリングな展開が続きます。

ですが、この映画を観ていて腑に落ちないのは、「なんのために主人公が働いているのか」全くわからない点です。

ゴルゴ13的に、自分の感情を出さない人物だからです。
公安は「国益」を守る仕事ですが、何をもって「国益」というか、それが不明確なままです。

抽象的ではっきりしない「国益」とは、一体何か?
一度明確にする必要がありそうです。

なおNHKでやっていたときの作品はこちらです。

マルクス・アウレリウス名言集④

ほかのものは全部投げ捨ててただこれら少数のことを守れ。それと同時に記憶せよ、各人はただ現在、この一瞬間にすぎない現在のみを生きるのだということを。

(岩波文庫版『自省録』43ページ)

マルクス・アウレリウス名言集②

隣人がなにをいい、なにをおこない、なにを考えているかを覗き見ず、自分自身のなすことのみに注目し、それが正しく、敬虔であるように慮る者は、なんと多くの余暇を得ることであろう。[他人の腹黒さに眼を注ぐのは善き人にふさわしいことではない。]目標にむかってまっしぐらに走り、わき見するな。

(岩波文庫『自省録』55-56頁)

マルクス・アウレリウス名言集①

思い起せ、君はどれほど前からこれらのことを延期しているか、またいくたび神々から機会を与えて頂いておきながらこれを利用しなかったか。しかし今こそ自覚しなくてはならない、君がいかなる宇宙の一部分であるか、その宇宙のいかなる支配者の放射物であるかということを。そして君には一定の時の制限が加えられており、その時を用いて心に光明をとり入れないなら、時は過ぎ去り、君も過ぎ去り、機会は二度と再び君のものとならないであろうことを。

(岩波文庫『自省録』26頁)

 

創造性を日常に設計する

人々は日常の中で習慣ハビトゥスが形成され、それによってその人の価値観や「実践感覚」が形成されていく。

 

一般的な職場は創意工夫といった「創造性」が失われていくように「設計」されている。

 

であれば、「創造性」が習慣として成立する環境を作るなら、組織は拡大していくはずである。