羽原又吉(はばらゆうきち)が、戦前まで紀伊の串本、潮岬、大島(以上、和歌山県串本町)などの漁民が行っていたオーストラリア沿海への貝類採取の出稼ぎ漁業が、江戸時代まで遡ると述べているのも、決して誇張ではなかろう。なにより、伊豆七島の八丈島にいたるまで、縄文時代の遺跡が分布している事実は、それ以後の時代においても、太平洋の海の道がさかんに用いられたことを推測させるので、この方面についても考え残された問題は多いといえよう。(38)
【和歌山からオーストラリア沿海へのイメージ】Google Mapより。
以上によって「島国論」の成り立ちえないことは、もはや明白であろう。日本は周囲から孤立した「島国」などでは決してない。日本列島はむしろ、アジア大陸の北と南を結ぶ、弓なりの架け橋であった。もとよりときによって消長はあり、いくつかの国家によるさまざまな制約はしだいに強まったとしても、庶民の生活そのものの働きに基づく交流は、決してたえることはなかったのである。
そして「黒船」の渡来以前でも、太平洋は東方あるいは東南方の島々との交流を阻害する決定的な障壁ではありえなかった。つらなる北方、南方の島々を経て、海の道はアメリカ大陸にまで通じていたということすらできる。こうした事実を見ようとしない「島国論」が、日本人、日本文化が人類社会の歩みの中からのみ生まれえたという、あまりに当然の前提を無視する結果にならざるをえないことを、われわれは知っておく必要があろう。(38-39)