鬼頭秀一, 1996, 『自然保護を問いなおす』ちくま新書.①

  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • LINEで送る

鬼頭秀一は科学技術社会学の第一人者。
その視点から、「環境」「自然」について独自に考察をしていく。

本書は自然保護に関する70年代からの理論蓄積を辿った後、今後の「自然保護」の捉え方を見ていく。

理論面では「生身」と「切り身」の考え方が興味深い。

IMG_2856

村での祭りで森に入ることなど、日常性や生活・文化とつながった自然との関わりは「生身」の関わりである。

一方、都会人が週末に登山に来たり渓流釣りをしたりするのは、日常と自然とが「切れ」ている。
その分「切り身」の関わりである。

しかし、鬼頭はその「切り身」で関わり始める人の存在も認めていく。
日常を共有しない人、つまりその地域にとって「よそ者」である人が自然保護活動や文化伝承に取り組むことが多いという点である。

この、いわば外から来た、一種の「よそ者」の自然保護や地域文化の伝承者としての役割にも注目する必要がある。「よそ者」の自然とのかかわりは、一見、その社会的・経済的リンクと文化的・宗教的リンクが切れており、普段の生活とは無関係なところで白神山地のような遠くにある自然と接し、それからさまざまな享受を受けようとするいわば「切り身」の関係にあるように見える。しかし、登山や渓流釣りといった行為も、そこに暮らす人たちと交流を持つことにより、山村文化と何らかの形で「つながろう」とすることも可能なのである。それは、その行為の主体となっている人が、もともとどこかで「つながって」おり、伝承の中にあった過去の思いと、それをどこかで失ってしまった喪失感というものが、登山とか渓流釣りという行為を通じて、山村の人たちとの交流の中で、ふたたび「つながる」ことを可能にするということではないだろうか。(228-229)

思えば私も、北海道の帯広に来て1年と半年が経とうとしている。
「十勝◯◯部」や「十勝コーヒー部」など、「よそ者」ではあるものの、ちょこちょことイベントをやるようになっている。

地元ではないからこそ、十勝・帯広のあちこちの温泉や観光地に足を運んでいる。
(オンネトー湯の滝のような「めんどう」な場所まで)

「よそ者」であるのも、いいものだなあ、と改めて気づいた。

 

 

Z

  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • LINEで送る

SNSでもご購読できます。

コメントを残す

*

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください