昔は情報生産の担い手はたいてい神さまだった。神さまのいるところに多くの人間が集まり、情報が交換され、そのおかげで生産が向上し、富の蓄積もおこなわれた。
そこで最近では、そもそもの都市というものは「神さまのいる場所、つまり神殿のあるところではないか」(梅棹忠夫)などと、かんがえられるようになってきた。(1-2)
その発想で、都市=カミサマのいるところ発想から見ていくのが本書『都市と日本人』である。
ともあれ、そういう険しい山国の日本列島であってみれば、昔は平地のあるはずもなく、「田んぼや市街地のある沖積平野というものは大方海だった」とかんがえていい。
すると現在、日本の国土の総面積37万7000平方キロメートルのうち沖積平野はおよそ8パーセント、3万平方メートルぐらいとみなされるが、そしてそこに日本人口の約半分、6000万ぐらいの人々が住んでいるのではないかとおもわれるが、それらは、そのころは全部海の中だったのである。(22-23)
従来の歴史学や考古学ではあまり指摘されていないけれど、川の流れの速い日本の氾濫原などで川筋を整えるためには、中国大陸で用いられる土塁では無理で、何千、何万という矢板が必要であった。矢板を打ちこんで川の流路をつくりだすのだ。それはイザナギ。イザナミが国づくりのときに用いた矛に似ている。その矛ならぬ大量の矢板をうるためには森林を伐採しなければならない。すると鉄の斧が欠かせない。
そうかんがえると、弥生時代に日本に稲作が定着したのは大陸から米がはいってきたのではなく、正しくは「米と鉄がはいってきたからだ」といえるのである。(46)
集落と聖所との関係ということをかんがえたとき、ヨーロッパと日本はまったく相異なった形をとる。
というのは、ヨーロッパでは聖所は一般に集落のど真ん中にある。ために集落の形は上から見たとき、蛇が卵を飲んだようにしばしば真ん中が膨れあがっている。膨れあがっている部分が聖所だ。たとえば車を駆ってヨーロッパの村に入ると、やがて道が広がって広場につきあたる。そこに教会がある。広場を通りすぎてしばらくいくと、車は自然に村を出る。
ところが日本の村ではそういうことはない。神社はほとんどのばあい集落のなかには存在しない。卵は蛇の外にあるのだ。神社へゆく道はたいてい集落の道路から分かれて山に向かっている。山麓などにあるからだ。そして村の道路から神社にむかう道が「参拝の道」つまり参道になっている。(…)
つまり、ヨーロッパでは聖所は集落の内にあるが、日本では集落の外にある。だからの日本の都市のばあい、集落の外にある聖所に向かって参詣にゆく人々のための私鉄が発達するわけである。(180-181)北海道の地図を開いてみるとわかることだが、石狩山地、北見山地をふくむ大雪山系は北海道の全面積のおよそ6分の1を占め、そして北海道のおよそ3分の1の地域、2分の1の人口に水を供給している。旭川市はもちろん丸抱えである。もし大雪山がなかったら、旭川市はもちろん、北海道のおよそ半分は全滅するだろう。となると、これはもうまったく北海道のカミサマといってもいいのではないか。(192)