2009年 3月 の投稿一覧

劇場にて。

劇場においては我々は謙虚になる。黙って席に座り、携帯も切る。

劇場空間の公共性があれば、学校が騒がしくともいいのではないか。

ファウストな夜

昨夜、劇団地上3mmの『ファウスト 第一部』を見に行った。

戯曲を黙読するのと役者が演じるのは全く趣が違っていた。

ファウストの苦悩に学者を目指す自分としては「将来こうなるのだろうか」と感じた。

初めに行為ありき、だ。今日も動こう。

今日は後輩の合唱を聴きに行く。

王子駅にて。雑念集。

駅前の白い服を着た老人が、カーネルサンダースに見えた。

乗り換えるべき駅が、馬込か駒込か、分からなかった。

『がんばらない』の鎌田實が「みかんの皮が剥けるようになったら大人だ」と言っていたが、知らないことが多すぎる自分はまだ「みかんの皮が剥けない」子どもなんだと思った。

スペアキー

早稲田駅前の鍵屋さんで、我が家のスペアキーを作った。

オリジナルを元にして、おじさんが機械で削る。その時間、3分弱。

あっという間にスペアキーができた。

不思議なことに、スペアの方がオリジナルのキーよりも鍵の開閉が楽なのだ。今ではもっぱらコピーを愛用するようになった。オリジナルの方がスペアになったのだ。

 スペア(コピー)の方が、オリジナルよりも価値的。
 考えてみれば不思議だが、現実社会でもオリジナルよりコピーの方が扱いやすいことが多いのではないか。タブローに描かれたモナリザも、印刷され人びとの手元に美術集として掲載された方が多くの人に見てもらえる。多くの人が芸術に親しめる。案外、遠くにあるものよりも手身近なもののほうが価値を感じるようだ。
 昨日、やはり早稲田駅前の あゆみBOOKS で『叶恭子写真集』が売られているのを目にしたが、これも写真で鑑賞する方がオリジナルの叶女史よりも美しいのではないのだろうか。
 モーセがシナイ山にいるあいだ、イスラエルの民衆は「遠くの目に見えない神より、近くの神がいい」といって金の子牛を作った。オリジナルの神よりコピーの方が価値的だと感じたのだ。
 コピーがあるにもかかわらず、「オリジナルの方が価値が高い」とされるのは何故だろう。コピー/オリジナル問題は、オリジナルのもつカリスマ性を認知されるか否かにかかってくる。

 話は変わるが、私の座右の書『小論文を学ぶ』には、コピー/オリジナル論が出ている。そこには「オリジナルとコピーの境界がなくなるとき、それはオリジナルの権威も失墜することを意味する」(p110)とある。

「オリジナル」と「コピー」が融解して何がホンモノで何がニセモノであるかわからないような世界のありかたを、フランスの社会学者のボードリヤールというひとは、「シミュラークル」という概念で言い表そうとしているが、現代はハイパー・リアルな「シミュラークル」化した世界になろうとしているといっていいだろう。(p110)

 作者の長尾氏はオリジナル/コピーが対等であるというシミュラークルを元に議論をしている。
 けれどこの論に【時にはコピーの方が価値が高いことがある】という事実についても含めて、考察をすべきなのかもしれない。
 私の家の鍵のように。

刈谷剛彦『学校って何だろう 教育の社会学入門』

 いい学校に入学できたのは、自分が一生懸命受験勉強をしたせいだけではありません。受験勉強が許される境遇にあったことも、学校での勉強で有利になる家庭に育ったことも、見えないところで貢献しているのです。
 ところが、個人の努力が強調される日本の社会では、どんな家庭に生まれたかではなく、自分がどれだけがんばったのかが、成功のもとだと考えられています。それだけ、自分の成功を自分だけのものだと考えやすいのです。しかし、実際には、どんな家庭に生まれたかが、学校での成功にある程度影響しています。(pp218~219)

 松下幸之助は例外にすぎない。予備校教師で人気の吉野氏も、例外である。ほとんどは①大学に行くのが当然視される環境で、②周囲にも大学にいくことの賛同を受けていて、③塾や予備校・参考書代を捻出する経済的余裕があり、④勉強しやすい環境が整備されている、という条件に適う者のみがいわゆる一流大学に合格するのだ。「自分は実力でいまの立場(一流大学卒の学歴)を手に入れたのだ」と。
 
 「ブスとバカほど東大に行け!」で有名な漫画・『ドラゴン桜』。主人公の高校生男女二人は、いきなり現れた弁護士に「お前を俺が東大に行かせてやる!」と言われその気になった(①の要件)。友人や家族・教員からそれなりに期待されはじめ(②)、「最強」の講師と参考書などは用意され(③)、特進クラスのため少人数授業プラス学習室にもなる教室を整備された(④)。ある意味、「受かりやすい」環境に身を置くところから東大合格の戦いは始まったのである。東大合格を勝ち取ったとき、本人たちの努力もそうだが「環境整備」ということも合格の要因となるであろう。

補足
 ①について。和田秀樹は『受験は要領』のなかで、母校・灘高校の話をする。灘の連中は「ぜったい、無理だろ」というような人も東大を受験する。東大を受けるのが当然の環境にある。だからこそ臆することなく受験し、合格していく、と。

内田樹・鈴木晶『大人は愉しい』

内田
 

インターネットで発信することの余得は、そうでもしなければ誰も聞いてくれないはずのとりとめのない「思い」を受信し、耳を傾けてくれる誰かがいるという期待のせいで、何だか生きている「張りが出て」くるということにある。
 「インターネットは人間を変える」とはこのことである。

 おっしゃる通り、ブログを書きはじめてからこのことを実感している。

パラシュート学習

野口悠紀夫は『超 勉強法』でパラシュート学習について言っていた。
百科事典で分からないものをどんどん調べていくという学習。今やっているところからとりあえず学習し、どんどん先に進んでいく。分からなければ振り返るのではなく、先に行くと分かるようになる、ということだ。

いま、私は東大大学院の過去問をネットで調べつつ解いているところだ。インターネットの活用。現代版のパラシュート学習だ。

今後の卒論の流れの案。

フリースクールの運営に関する、社会学的考察。

1、3年時の研究を振り返って。

 私は3年生の間、フリースクールを専門に研究をしてきた。フリースクール関連のみの流れを示すと、下のようになる。

①発表および見学
●(2年時の研究)東京シューレ理事長・奥地圭子氏へのインタビュー
●(2年時の発表)フリースクールに関する、教育社会学的考察
→フリースクールの定義と東京シューレの実践例の紹介。
●(発表)八王子市立高尾山学園の事例検討
→フリースクール的手法を取り入れた公立学校の事例紹介。
●(見学)東京シューレ葛飾中学校への見学。
→東京シューレが作った学校。
●(発表)フリースクールきのくに子どもの村学園の事例検討
→ニイル思想にもとづく、学校法人をもつフリースクール。
●(見学)フリースクール夢街道子ども園の見学
→未発表。2008年夏に見学に行く。
●(発表)イリッチのラーニング・ウェッブの研究
→イリッチのいう「学習のためのネットワーク」は現代のブログによって実現可能ではないか、という考察。

②書評
●『教育なんていらない』
→教育こそは権力である。教育関係にある限り、人は他者からの支配から逃れることはできない。この点を著者独特のスタンスから追求する本。
●灰谷健次郎の小説・エッセイ(『灰谷健次郎の幼稚園日記』『いのちまんだら』など)
→子どもへのまなざしや現在の教育への批判、あるべき教育像の考察。
●広田照幸『教育には何ができないか』
→人びとは過去に幻想をもっている。「昔はしつけが行き届いていた」など。けれどこれはあくまで幻想でしかない。現代にないものが過去にはあった、と人びとは思い込んでいる。

2、4年時の研究について

 3年時、いくつかのフリースクールへの見学と、そのフリースクールの見学報告としての発表を行った。実際にフリースクール関係者の話を伺うことで、研究の視点も広まってきた。
 けれど教育学の書籍(特に近代教育批判のもの)は読んできたが、オルタナティブスクールやフリースクールに関する書物はまだまだ読めていない。
 4年時では見学に数多く行くのは当然として、オルタナティブスクールに関する書物を中心的に研鑽していきたい。また4年時からNPO法人フリースクール全国ネットワークの運営をボランティアとして手伝わせて(主に雑用だが)いただくことになったので、そこからも学んでいきたい。

3、卒論の方向性

 現在の日本のフリースクールの取り組みに着目した上で、これからのフリースクール運営のあるべき姿を考察する。
 不登校の子どもなど既存の学校教育があわない子どもは多くいる。けれどその人たちが皆フリースクールに通っている訳ではない。その理由には A,情報の不足(フリースクールを知らない、あるいはどこにあるのか分からない)、B,資金の不足(フリースクールに通いたくとも家に費用がない)、C,設備の不足(フリースクールが近くにない)、D,理解の不足(主に心理面。「フリースクールに通うのは恥ずかしい」など)の4点があると考える(注 A~Dの項目は、ヒト・モノ・カネ・情報という四要素に対応している)。
 子どもの教育権を守るためにも、このA~Dの解決を図っていくべきだ。フリースクールの見学で得た知見や書物による学習、NPOやボランティアについての研鑽を踏まえた上で、卒論ではこの方向性を探っていく。
 全体の構成は次のものを想定している。

⑴フリースクールの定義説明
⑵ ⑴の補足説明のために、フリースクールの実例を紹介する(東京シューレを元にする)。
⑵必要とする子どもがフリースクールに通えるようにするための四要素の提示(上のA~D)。
⑶四要素の解決のための方策の提示。
⑷結論

 なお、現時点ではBを解決するための方法として下のものを考えている。

「B,資金の不足」を解決するために。

①フリースクールの学校化。
 いまの学校行政のシステムでは、私立学校には私学助成が行われる。これを活かすことにより、学校の授業料を減らすことができる。東京シューレ葛飾中学校はこれを活用したため、フリースクールの東京シューレよりも毎月の授業料を1万円近く削減することができた。
 奥地圭子は「東京シューレの葛飾中学校を作って、フリースクールだったら絶対にこなかった親や子どもと関われるようになった」と言っていた。「学校」の名であるので、心理的負担なくフリースクールに関わることが可能になる(Dの解決にもつながる)。

②公立学校にフリースクールの手法を取り入れる。
 公立学校にフリースクールの手法を取り入れることで、フリースクールにかかる費用を削減することができる。公立の学校であるためだ。
 八王子市立高尾山学園という公立学校がある。小四から中学生までが通う学校だ。この学校は八王子の公立校で不登校になった子どもを中心的に受け入れている学校だ。

③フリースクールに現在以上の公的支援を行う。
 地方公共団体や政府からの支援を行う。これについて次の2つの視点から考えていく。

a,税金が学校に使われているという視点から。
 これは【学校に通っている子どもには、年間95万円分、税金が入っている】という点から考えることができる。現在、フリースクールに通う子どもは、この95万円を無駄に使っていると言える。奥地圭子は「フリースクールにも利用可能ならば、学校バウチャー制度を導入すべき」といっていた。
 全てとはいわないまでも、フリースクールに通う子どもに税金が使われなければ、何のために税金を納めているのかが分からなくなる。

b,NPOへの支援としての視点から。
 近年、政府や地方公共団体からNPOの事業に支援が入ることが多くなった。NPO法人が制度で決められてから10年が過ぎ、NPOの重要性が意識されるようになってきたのである。フリースクールをNPOとして運営する所も今は多い(東京シューレや夢街道子ども園など)。NPOの活動へ支援が多くなっている今、フリースクールにも支援が増えていくべきであろう。
 けれど、ただ支援を受ければいい訳でない。委託事業という支援形態がある。資金の支援があるが、「この資金はこの事業に使わなければならない」という資金である。フリースクールがこの資金を受けた場合、本来のフリースクールの運営以外の所に資金を使わなければならなくなってしまう。おまけにこの委託事業は一年単位。継続性が難しい。
 政府や地方公共団体からの支援は必要だが、自覚的に支援を活用しなければ、活動がかえって疎外されてしまう危険性がある。

④寄付/会費を増やす。
 ①~③はいずれも公的支援を受けるための方法である。けれどフリースクール本来の働きを行うためには民間/個人からの寄付を多く集められる運営が好ましい。公的支援を受けると、どうしてもフリースクール本来の活動ができなくなる恐れがあるからだ。自由な活動が制約される恐れがある。
 財政面の安定化のために会費を集める/寄付を多く集められる工夫を行っていくことも重要である。

⑤利用者負担を可変勾配化する。
 保育所の中には入所時に親の源泉徴収を提示する必要のある場所がある。額により、保育料金が変化する仕組みだ。これが可変勾配である。無認可保育園でも、親の納税額にもとづいて可変してくれる。フリースクールでもこれを実践すべきではないか。安易に料金を低く一定化することは必ずしもよいことではない。よい教育に金がかかるのは事実である。これを認めた上でなるべく多くの人が利用できるように考えていくべきであろう。

以上。

人生、うまくいかない

 人生、うまくいかないことの方が多い。早稲田大学に入るまでもそうだし(私は早稲田の教育学部は第5志望だ)、早稲田に入ってからもそうだ。弁護士を目指すも予備校で落ちこぼれた。私の今までの経験からも、また私の見てきた幾多の人びとの姿からも、帰納できることである。

 人生、うまくいかないことの方が多い。
 ずっと勝ち続けることができればいいが、それは理想にすぎない。すっきり「全てに勝った」状態を見たことがない。
 現実には勝利を目指していても一日単位・一時間単位で「もう嫌だ!」と投げ出したくなることがある。

「葛藤しているときが人間はいちばん自然で、いちばん安定しているのです」とは内田樹の言葉だ。

 日蓮は「よからんは不思議わるからんは一定とをもへ」と書いている。

 うまくいかない方が自然だ。こう考えた方がよいのではないだろうか。逆に、順調にいく方がレアなのだ。

 人生、うまくいかないことの方が多い。だからこそ、途中の失敗に恐れないことが重要なのではないか。勝つことよりも、負けないことの方が大事なのだ。仮に負けても、自分には負けない。「どうせ俺はこんな奴だ」と腐らずいくことだ。

 人生、うまくいかないことの方が多い。だからこそ、負けないことが大事なのだ。途中の勝ち負けを気にせず、次の勝利を目指すのだ。

電子レンジとオレンジランプ

私の実家にあった電子レンジは、温めているときランプがつかなかった。

ランプがつかないと、温まっている実感がないにも関わらず、やはり温まっている。

人間の感覚では、「ランプがつくから温まる」と思ってしまい、マイクロ波はやはりオレンジ色である気がしている。けれど現実にはマイクロ波は目には見えるわけがないのだ。