2009年 3月 の投稿一覧

過去の自分との再会

昨日、自分の著作集をまとめていた。

自宅での試しコピーの際、裏紙を使用した。何気なく本文を見て驚く。
その裏紙は、私が1年生のときサークル内で発案した「早稲田大学合格体験記・記事募集のチラシ」であった。

昔の自分の行動を、こんな形で知ることになるとは…。ワープロ文の下に書かれた手書きの補足説明。稚拙な文字で恥ずかしくなった。

黒澤明が官僚制批判を行った映画『生きる』。その主人公を思い出す。かつての意欲を失った市民課長たる彼が、ハンコを拭くために引き出しから紙を出す。それは何十年も前に自分が書いた’役所業務の効率化私案’の文章であった。何の気無しにその束を破り、淡々と判を拭う主人公の姿が記憶に残っている。

過去の自分は乗り越えられるべき対象なのか。それを乗り越えた時が自分の成長と言えるのか。粛々とハンコを拭く主人公は若かりし自己を乗り越えたのか。

映画では主人公は「余命半年の間、死ぬ気で働き、市民の要望する公園建設を断固成し遂げよう」と決意する。そして奮闘の結果、公園が完成するのだ。

作家や小説家と音楽家の違い

昨日、ミュージシャンを目指す後輩と話した。
自分がブログを書いていることを話すと、次の話をしてくれた。

‘作家や小説家と違い、音楽家は「過去の自分」と向き合わないといけないんですよ。作家は過去の作品を再び書くことはないですね。でもミュージシャンは昔の自分の書いた歌を歌うことになるんです’

真理だと思った。たしかに、彼の言う通り私は過去に書いた作品を再び書くことはない。けれど歌手のコンサートでは何十年も前のデビュー曲が歌われることがある。歌手は過去の自分の作品を再び思いを込めて歌わねばならない。たとえ、それが「今はこんなこと考えないよな」と思ったとしても。

非常に面白い。

1日8時間の勉強、について

アメリカの大学は学生が平日1日8時間勉強をすることを基準にしている、と言う。高卒で働いている人と同じだけは学べよ、ということだ。これは「勉強=労働」と見ていると言ってよいだろう。

また佐藤優はいまも「1日6時間の読書」を日課としている。それも仕事で使う本ではなく、6ヶ月先のトレンドを見据えて(もちろん思想のトレンドである)読書をしている。’自己の内面で熟成するのを待つ’のだそうだ。(『「諜報的生活」の技術 野蛮人のテーブルマナー』 )

学生たるならば、休日をレジャーで過ごすのはあまりにももったいない。まして学者を目指すならば、1日8時間の勉強は最低すべきではないか。

…とはいうものの、なかなか難しい物である。

缶コーヒー

缶コーヒー
無糖を飲んで
ダイエット
でもラーメンは
普通に食ってる

無糖缶コーヒー

無糖缶コーヒーをよく見る。糖分を気にする人・カロリーを気にする人が増えてきたようだ。しかしそういう人に鍵って普通にラーメンやビールを口にしている。なら食うなよ、といいたいのである。

製本代の高さと処女作発行

著作集を今日まとめた。

タイトルは『著作集・高校生と語るポストモダン』だ。今までの大学3年間の集大成として作る。合計文字数5万字。市販の新書はもっと文字数が多いことを考えると、「意外に3年間、物を書かなかったのだろうか」と思ってきた。

作り方。印刷、製本、出来上がり。簡単である。けれど早稲田大学22号館の印刷機をしばらく占拠する形になり、申し訳なかった。

製本をするのに「くるみ印刷」という物をもちいた。印刷した原稿を厚紙で覆った上で印刷する。それで750円かかる。くるんでもらう紙に印刷をたのむと追加料金が1000円かかる。高い。

青木雄二が好きでよく彼の本を読む。彼ならばこの状況を見て「資本主義は設備や資本を持っているものが暴利をむさぼる社会だ」と語るであろう。持たない物は力がない。製本を依頼しないことには、目的を達成できない分、持たざる物は弱い立場にいる。

よく小さな団体の刊行物が、原稿を厚紙でくるんだだけの「くるみ印刷」であることがある。1000円を超えることもざらであり、「こんな安そうな本を売るなんて。ぼったくってるな〜」といつも感じていた。これはその団体の問題ではなく、製本所の問題であったのだ。

ともあれ、私の処女作がまもなく完成する。
出版社から出すのでも、自費出版でもない〈自分で印刷して、製本してもらう〉式の出版である。こんなやり方でも本は出せる。うれしいことである。
といっても、できあがるのはたった4部ではあるのだが。それでも紙代合わせて3500円はかかっている。

英語版wikipedia

英語版wikipediaは色々と面白い。「Japan」で調べると非常に興味深い。
https://en.wikipedia.org/wiki/Japan

Education and health」の欄では、次のことを言っている。

The two top-ranking universities in Japan are the University of Tokyo and Keio University.

この並びなら「東京大学と京都大学」や「早稲田大学と慶応大学」が適切なはずだが…。早稲田生として納得がいかないのである。

free skool

英語版のwikipediaでfree schoolを引いてみた。

A free school, sometimes intentionally spelled free skool, is a decentralized network in which skills, information, and knowledge are shared without hierarchy or the institutional environment of formal schooling. The open structure of a free school is intended to encourage self-reliance, critical consciousness, and personal development.

何やら、free skoolという言い方もあるようだ。

英語で教育学をやると、日本語では見えない点が見えてくるはずだ。

言語はメディアである。言語は自らの心情を単に示したものではない。言語を使うことで見えてくるものもある。
日本語という言語に限定せずに使っていく必要があるようだ。

脱学校と脱フリースクール

脱学校会議室(https://groups.yahoo.co.jp/group/deschooling-oriented/messages/1?expand=1
このサイトは面白い。

脱学校の急先鋒が、フリースクールであり、オルタナティブスクール実現の最善の方法だと思っていた。

しかし、人間は多様である。フリースクールの運営者も善人ばかりでない。

フリースクールゆえに人生をめちゃめちゃにされた人もいるのだと、このサイト(厳密にはメーリングリスト)は教えてくれた。

拝啓 寺山修司様

拝啓 寺山修司様

「言葉の魔術師」たるあなたは生前、非常に多くの作品を遺されましたね。

 私は映画監督としてのあなたの姿しか、目にしてはおりません。『書を捨てよ町へ出よう』も『田園に死す』も、遺作『さらば箱船』も面白く見させていただきました。

 個人的な話ですが『町へ出よう』は『街』とされた方が雰囲気が出る気がします。『箱船』、今では祖父役が与えられる山崎努の若かりし頃の迫力にシビれあがりました。

「見世物の復権」を訴えられたあなたの演劇は、厳密には再度お目にはかかれません。

 あなたが演出する演劇は、もはやこの世に存在しないからです。演劇を録画しても、演劇の数%のみを今に伝えるのみでしょう。なんといっても、見る場所によって見え方の違う演劇をあなたが作ろうとしたのですから。

私はあなたに憧れます。何の衒いもなく「アジテーター」であることを誇れるのですから。


私は脱学校論を専門にしていきたいと考える一教育学徒です。仮に事実として現存の学校の醜さ・非人間性を訴えることをしたとしましょう。教育学者であればそれで済みます。ですが、私の文章を読んだ中高生が「学校は欺瞞の固まりだ」と考え、学校をボイコットする。その結果、この中高生が将来的に「反抗少年」としてレッテルが貼られ、人生を棒に振ってしまった場合、私の文章作成行為は正しいと言えるのでしょうか。あなたは「正しい」と言うかもしれません。ですが、私はこの中高生の将来受けるであろうデメリットを考えると、「何も書かない方がいいのではないか」と思ってしまうのです。教育学者ではあっても、真理より子どもへの影響を考えてしまうのです。


あなたは映画のなかで何度も母を「殺」してきました。捨ててきました。けれど生涯母からは逃れることが出来ませんでした。あなたはハッキリとご自分の矛盾に気づいておられました。それゆえに私たちに「寺山の言うことを100%は信じないほうがいい」と無言のうちに語っておられたのでした。ですが世の中はそんな人ばかりではありません。あなたの言を真に受け、行動してしまった若者がいるのです。少なくとも、私の回りには1人はいました。あなたを乗り越えるべき父親像とするのであれば何の問題もありません。「昔はこんなことがあった」と流してしまえるからです。問題なのは、皆が乗り越えられる訳ではないということです。あなたを信用した結果、あなたを乗り越えること(精神的意味での「父親殺し」)が出来なかった者はあなたに人生を狂わされたと言わざるを得ないのではないのでしょうか。


あなたは食うために文章を書いた人間ではありません。では何のために文章を書いてこられたのですか。人を不幸にする可能性も考慮して、文字を原稿用紙に書き付けられたのですか。
永六輔の『芸人』にはある役者の言葉が出てきます。’江戸時代の役者の演技を見て、世をはかなんで自殺した若い娘がいた。私も、一人くらいはそうやって殺してみたい’と。あなたの創作行為はこのような物なのではないかと推察するのです。

死ぬのはいつも他人ばかり」。
あなたはよく口にされました。現に亡くなってみて、いかがですか。あなたは舞台の役者に話させました。「自分の死を量ってくれるのは、いつだって他人ですよ。それどころか、自分の死を知覚するのだって他人なんです」(『地獄編』)と。


死は他人の
認識のなかにのみ発生します。「死」を認識する自己は存在しないからです。限りなく死に近い状況でのみ「ああ、もうすぐ死ぬんだ」と思うことはあっても、本当に心肺停止をする際には私の認識は無くなっているからです。


ということは、このことは生命の不死を説明することになるのではないでしょうか。私が「死ぬ」瞬間、別の場所に私の生命が連続して続いていく。あなたの言を聞き、そう思うのです。


いつの頃からか、本を読んでいて「私はこの著者であった時があるのじゃないだろうか」と、ふと考えるようになりました。説明が不足してすみません。自分の前世やその前に書いた本を、自分自身が再び読んでいることがある気がするのです。私の妄想が実際におこっていたとすればさぞ愉快ですね。前世の自分の思索を今世の私が再び引き継ぐことになるのですから。前世に書いた本を私が「この著者の言うことは間違いだ」と指摘するとき、さらに面白くなります。いったい、私という生命は何なんだ、と思うからです。

あなたは一体、誰として(あるいは何として)いま今世におられるのですか? それとも生命は一期限りのものなのですか? 教えてください、「言葉の魔術師」様。

*『地獄編』からの引用はhttps://homepage2.nifty.com/highmoon/kanrinin/meigen/ijin2.htm#maより。